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セーラー戦士達は何を守り、何と戦ったのか?

※この記事はアニメ・旧版「セーラームーン」のネタバレを多大に含みます。

アニメ版セーラームーン(無印)を完走しました

 セーラームーンといえば、「愛と正義の! セーラー服美少女戦士! セーラームーン! 月に代わっておしおきよ!」のフレーズで知られる、国民的アニメ・漫画である。とはいうものの、私はこれまで見たことがなく、その機会もなかった。だが、その状況に変化が訪れた。というのも、東映アニメーションのYouTube公式チャンネルが、2020年の4月ごろから順次、毎週10話ずつを無料公開しているのだ。なにやら、劇場版最新作こと「美少女戦士セーラームーンEternal」公開記念らしい。この機会を逃せば一生、セーラームーンというコンテンツに触れる機会はないであろう――そう考えた私は、セーラームーンをオタクの一般教養として視聴することに決めた。

 そして、無印版46話分を完走することとなった。結論から言うと、かなりアニメ作品として楽しめたのはもちろんのこと、当時の世相(90年代初頭)も色々と垣間見えたのも面白かった。中でも、セーラームーンというアニメ作品に横たわる女性観・世界観を紐解こうとした時、非常に面白いと感じたので、今回はそのことについて語ろうと思う。

 結論から述べてしまうと、セーラームーンの物語は、

「恋愛・結婚という既存の価値観の中で将来を夢見る少女たち」VS

「恋と結婚に敗れ、競争原理という新たな価値観をインストールした大人の女」という、女と女による戦いの物語である。

アニメ版セーラームーン(無印)のあらすじ

 セーラームーンのあらすじは、以下の通りである。

 月野うさぎはある日、不思議な猫のルナを助けたことをきっかけにセーラームーンに変身する。彼女はセーラー戦士である仲間と共に愛を守るために、地球の支配を目論む闇の勢力ことダークキングダムと戦いながら、かつて存在したという月のプリンセスの所在を探す。

 以上である。そして、セーラームーンという物語を理解するためにはまず、月野うさぎというキャラクターを理解しなければならない。

「月野うさぎ」という女について

 月野うさぎはまとめてしまうなら、極限まで理想化された「等身大の少女像」だ。この理想はもちろん、万能の美人を意味しない。月野うさぎという女は、ドジで、成績も悪ければ人の話を聞かない、人並みに欲に目がくらみ、すぐに被害者ぶって泣く。顔がいいことと善人であること以外は、取りたてるところがない女である。

 つまるところ、月野うさぎとは、一般少女の理想像なのである。一般的な少女(視聴者)が持ちうるダメな部分はそのまま肯定し、容姿・性格のパラメータを引き上げた、ある意味、一般人という概念のイデア的な存在なのだ。

 ここまで書くと、私がまるで月野うさぎへのアンチのように思われるだろうが、彼女の名誉のためにそんなことは断じてないと言っておく。現実の女はさして美人でもなければ善人でもない(無論、男もそうだ)が、一人前に被害者ぶってお気持ち表明をしたり涙を流したりする。その事を思えば、月野うさぎの振る舞いは一周して許せるものがある。それに、月野うさぎは己のことを客観視出来ている。というのも、彼女のセルフイメージは「可愛い以外に取り得がない」なのだ。たとえ顔がよかったとしても、そのことをしっかりと自覚し、直面できるメンタルを持つ人間はそうそういるものではない。いかがだろうか、三周して月野うさぎという女に見どころを感じてくるであろう。

 一般人のイデアであるところの月野うさぎが、どのような価値観と向き合うか? これがセーラームーンという物語を解釈する上で重要になると私は考えている(※)。

※ちなみに、後に現れるセーラー戦士の中に、セーラーヴィーナス(≒美奈子)という、イメージカラー、性格ともに月野うさぎ(≒セーラームーン)に非常に似通ったキャラクターが存在する。彼女は同作者の「セーラーV」という作品の主人公でもあるが、キャラ設定がかなり一般人とは外れているので、セーラームーンのテーマには合わず、サブキャラクターとして扱われたのだと思われる。

「ダークキングダム」、セーラー戦士の敵について

 次に、セーラー戦士たちの敵として立ちはだかる闇の勢力、ダークキングダムについて語らねばなるまい。ダークキングダムは、女王であるクイーンベリルを筆頭に、四天王と呼ばれる四人の男たち、その配下の妖魔(魔物のようなもの)たちで構成されている。

 クイーンベリルの目標は、彼女が「大いなる支配者」と崇める、「外宇宙から飛来した邪悪な意思を持つエネルギー(純粋な力)」を封印から解放することだ。封印を解くためには、人間のエナジーを集める必要がある。それ故、クイーンベリルの配下にある四天王の男たちは、それぞれ策を巡らせて人間からエナジーを搾取しようとするのだ。

 ダークキングダムが、作品における思想面でどのような役割を担うのかについては、クイーンベリルのキャラクターを紐解く必要がある。クイーンベリルは、「かつて恋・結婚に敗れ、使い物にならなくなった恋愛観の代わりに、競争原理をインストールした大人の女」だ。ここでいう競争原理とは、「自身の欲のために他者を搾取する思想」と読み替えてもいい。

 ダークキングダムの策略は、そうした彼女の命を受けた四天王の男たち、ジェダイト(第1クール)、ネフライト(第2クール)、ゾイサイト(第3クール)、クンツァイト(第4クール)によって実行に移される。彼らはそれぞれ以下のような異なるタイプの競争原理・業に基づいた策略を以って、エナジーの回収・セーラー戦士の打倒に乗り出す。

 ジェダイト(第1クール)が司る競争原理は、大衆の欲を煽り搾取する支配者である。あと、和装も似合う金髪の正統派イケメンである。彼は人々(特に若い女性)の「綺麗なものを身に着けたい」「手軽に痩せたい」「手軽に恋愛を成就させたい」といった欲望に付け込んだ策を巡らせ、エナジーを搾取していた。

 ネフライト(第2クール)が司る競争原理は、際立った才能を以って他者を打倒し、時に味方すら敵に回してでも勝者であろうとするスタンスだ。あと、髪型が在りし日のキムタクみたいである。彼は強い信念、才能を持つ者に対し後押しという形で魔法のアイテムを授けることと引き換えに、その人間のエナジーを奪い取っていた。そんな彼だったが、あることをきっかけに愛を傾ける存在が出来てしまい、それがきっかけで命を落としてしまう。まさか25歳にもなってセーラームーンで泣かされるとは思っていなかった。

 と、ここまで2人分語ったものの、あとの2人、ゾイサイト(第3クール)とクンツァイト(第4クール)に関しては正直語るところが少ない。というのも、第3クール以降はダークキングダムの策略が、「不特定多数からのエナジーの搾取」から、「セーラー戦士の打倒」というメタ戦術にシフトし、あまり思想面を感じないのだ。なので、とりあえずゾイサイトが日本が生み出した誇るべきオネエキャラの一人であることと、クンツァイトがゾイサイトとデキていることだけ覚えてもらえればよいと思う。

セーラー戦士の善性とダークキングダムの悪性はどこから来るのか?

 作中で、クイーンベリルとその配下の四天王は、時にツッコミどころのある作戦を立てながら、人間へ危害を加えていく。セーラー戦士達はそれを止める。勧善懲悪の構図だ。しかし、ここで1つ疑問が生じる。なぜダークキングダムの面々は人々から搾取せねばならないのか? という疑問だ。クイーンベリルの最終的な目標は、「大いなる支配者(という強大な闇の力)」を復活させ、世界を闇で包むことだ。しかしなぜ、世界を闇で包むなどと七面倒なことをしなければならないのか。そもそも、この作品における闇とはなにか。闇があるのであれば、対となる光の価値観もまた、存在するはずである。

 思想における光と闇の対立は、終盤で明確に示される。結論から言ってしまうと、光とは、「すでに満ち足りた生物が備える精神的な平穏」であり、闇とは、「物理的・精神的な飢えに由来する、人間が持つ本能としての獣性」である。無論、セーラー戦士たちが光の側面を、ダークキングダムの面々が闇の側面に対応する。

 ここで、終盤で明かされる世界観を説明しよう。かつて月には、長命の種族が何一つ不自由や争いもなく暮らす、4人のセーラー戦士と王家によって守られた高度な文明を築いていた。同時に、地球の人類は、月の民の物質的・精神的な充足を羨んでいた。特に、地球の女王であったクイーンベリルは、月の文明が持つ潤沢なリソースの奪取を画策していた。ある時、クイーンベリルは、外宇宙より飛来した邪悪な意志、「大いなる支配者」を召喚し、その力で兵士たちを洗脳した末に月への攻撃を実施。戦いは両者相打ちとなり、クイーンベリルと彼女に洗脳された兵士たちは、物語の舞台となる現代になるまで封印され、現代においてダークキングダムとして、醜い妖魔として復活した。死亡した4人のセーラー戦士達と月のプリンセスは、同じく現代に転生した。この5人が、現代においてセーラームーンと4人のセーラー戦士となる少女達である。

 月の民であることに由来する魂・精神の善性をもつセーラー戦士達と、地球の人類であることに由来する渇望と飢えといった獣性をもつダークキングダムの面々。ここで、ある事に気づく。ダークキングダムの持つ、他者への搾取という形で発揮される悪性は、外から来たものではなく、人類が生物として抱える本能だということだ。先ほど説明した通り、外宇宙より飛来した邪悪なる意志こと「大いなる支配者」は、かつて地球の女王であったクイーンベリルに口寄せされた力である。そして、他者への搾取という、人類の本能としての営みを後押ししたに過ぎないのである。もっと言えば、地球の人類ことクイーンベリルが、本能の赴くままに「大いなる支配者」の力を利用したとさえ言えるあろう。

なぜクイーンベリルは「大いなる支配者」を召喚したのか?

 ダークキングダム(地球人類)の悪性が、生物としての本能に由来するというのなら、なぜクイーンベリルは「大いなる支配者」を召喚する必要があったのだろうか。他者の搾取が人類の持つ生物としての本能である以上、「大いなる支配者」の存在があろうとなかろうと、いずれ地球の人類は月の民を滅ぼしていたはずである。つまり、「大いなる支配者」が存在している必然性は、地球人類にはないのである。

 だが、クイーンベリルは「大いなる支配者」を召喚しなければならなかった。そうしなければならない理由があったのだ。その謎を解く鍵は、これまでこの記事で話題に出なかった、セーラームーンにおいて主人公と同じくらい有名なあの男の存在にある。そう、タキシード仮面様――正確には、彼の前世ことエンディミオンである。

 ここで、タキシード仮面様の前世、エンディミオンについて説明しよう。彼は、地球のプリンス(王子様)にして、精神性が限りなく月の民に近い地球人である(つまり、人類としての他者への搾取という悪性が弱い)。そんな彼に心を寄せる人物が作中で2人いる。1人は、月野うさぎの前世こと月のプリンセス・セレニティだ。なんとセーラームーンとタキシード仮面様は前世から互いを想い合う仲だったのである。さて、残るもう1人だが、勘のいい諸氏であればもうお分かりだろう。クイーンベリルだ。月野うさぎとクイーンベリルは、同じ男を巡る恋敵でもあったのだ。

 セーラームーンの終盤にて、クイーンベリルはタキシード仮面様(≒エンディミオン)に恐ろしいほどの執着を見せる。セーラームーンの味方であった彼を捕らえ、洗脳して自らの直属の部下に仕立てるばかりでなく、彼がダークキングダムの一員として働くようになってからは、たとえミスをしたとしても寛大に振る舞うほどの贔屓ぶりを見せる。加えて、最終話において、初めてセーラームーンと対峙する際に、洗脳したエンディミオンを傅かせて手の甲にキスをさせている様を見せつけるという、NTRプレイまで披露したのだ(私は爆笑した)。

 結局、エンディミオンは前世でセレニティ(月野うさぎ)と愛を誓い合っ記憶を取り戻し、クイーンベリルのもとから去ってしまう。その時にクイーンベリルが彼に向けて放った「私と共におれば、世界の全てがお前のものになるというのに!」といった趣旨のセリフから、クイーンベリルという「女」が、エンディミオンという「男」に向けた感情の全てを察せられるというものである。

 正確な順序はよく分からないので、ここからは私の妄想・推測が混じるが、エンディミオンがクイーンベリルからの感情(愛とはあえて書かない)を拒絶し、プリンセス・セレニティ(月野うさぎ)を求めたことが、「世界を闇に落とすこと」を求めるきっかけになったのだと思われる。この世の全てを支配して捧げれば、いくら高潔な男でも自分を無視することは出来ないはず――そんな感情が働いたのかもしれない。だが、ここまでは、クイーンベリルの私的な感情・欲望である。大勢の兵士を熱狂に駆り立てるにはまだ足りない。そこで目を付けたのが、外宇宙より飛来した邪悪な意志こと「大いなる支配者」の力である。

 外宇宙より飛来した邪悪な意志と書くと非常にクトゥルフ的で超自然的だ。しかし、もっと俗的な表現をすると、こうは言い表せないだろうか。外界から輸入してきたネオリベラル(新自由主義)的な思想。なぜ「邪悪な意志」が「ネオリベラル的な思想」に還元されるのかは、これまで述べてきたとおり、人類が持つ悪性が他者を搾取することに由来する。ネオリベラルの思想が示すままに、個々人の自由を極限まで容認すれば、それは他者への配慮などのくびきから外れた強者が弱者を蹂躙し、搾取する世界が出来上がることが容易に想像できる。この世界こそ、クイーンベリルが口にしていた「闇に支配された世界」そのものである。彼女は、この思想を以って、大勢の兵士たちを月の民との戦いに駆り立てたのだと考えられる。

 ここで、私がクイーンベリルという女をどう表現したか、思い出してほしい。「かつて恋・結婚に敗れ、使い物にならなくなった恋愛観の代わりに、競争原理をインストールした大人の女」である。想い人であったエンディミオンは手に入らず、代わりに世界を支配するために「大いなる支配者」という名のネオリベ的思想を以って兵士たちを扇動し、他者を搾取することを正当化してしまった大人の女。それこそが、クイーンベリルという女なのだ。

愛を知った修羅が如何なる末路を辿るか?

 ここまでで、ダークキングダムの面々が、ネオリベ的思想に旗振りされた、本能からなる搾取者であることを述べてきた。では、そうした思想を持った存在が、その思想を捨てることになったらどうなるだろうか。もっと言えば、自分より大事な存在を見つけてしまったら? その答えは、2クール目に登場した、髪型が在りし日のキムタクに似た四天王、ネフライトの兄貴が示してくれている。彼は、他者を蹴落としてでも自分が一番であろうとする、という競争原理の持ち主である。

 ネフライトは作中でキーとなるアイテムを探す傍ら、月野うさぎの同級生である、「大阪なる」という少女に深く関わることになる。初めのうちは彼女に対して利用するだけの思い入れしかなく、結婚詐欺師とその被害者といった様相であった。しかし、同じく四天王の1人、日本が誇るオネエことゾイサイトの横槍が入り、大阪なるがさらわれたことで、「あんな小娘など……どうなろうと俺の知ったことではない」などと言いながら、笑いかけてくる彼女の姿を思い、彼女に惹かれつつあることを自覚することになる。一度はゾイサイトの手から大阪なるを取り戻した彼だったが、最後は彼女を庇って命を落としてしまう。

 彼の死は、「他人を顧みることなく頂点を目指す者が、もし自分よりも大切な存在を得てしまったら、その先は死あるのみ」という意味で、非常に象徴的な意味を持っていたように思える。同時に、クイーンベリルが愛ゆえに死んでいないことを鑑みるに、彼女がエンディミオンを求めたのはやはり純粋な愛ゆえではなく(多少はそういう思いもあったのではと思うが)、地球のプリンスの嫁、将来的に地球の女王になることにあったのだな……と考えると悲しいものがある。

「保守的」だけど自由な夢も見たいセーラー戦士達

 さて、恋に破れたバリキャリ女ことクイーンベリルに対抗するセーラー戦士達のスタンスはどういったものであろうか。その答えは、セーラームーンのお馴染みの前口上にある。すなわち、「愛と正義の! 美少女戦士セーラームーン! 月に代わっておしおきよ」である。そう、彼女たちは、自らの精神の故郷である、争いを好まない慈悲深い月の民の思想の代行者として、地球人類の持つ搾取的な悪性へのカウンターとして正義を執行し、愛を守る存在なのだ。では、彼女たちの守る愛のあり方とはなんだろうか。それは、セーラームーンとタキシード仮面様の官益を見れば一目瞭然である。つまり、お姫様と王子様だ。これはなんとも、保守的な恋愛観・女性観と言えないだろうか。

 さらに、セーラームーンという作品全体に横たわる女性観を察せられるのが、13話における四天王・ジェダイトとの問答である。

 彼は、タキシード仮面様を戦闘不能にした後、その様に狼狽するセーラー戦士達に対し、「男がいなければ何もできないのか」と嘲笑する。すると、彼女たちは言うのである。「そんなの時代錯誤もいいとこだわ。これからは女の子だって活躍するのよ」と。このセリフを聞いた時、私は、なるほど女性の社会進出みたいな要素も思想としてあるのだな、と少し感心した覚えがある。

 が、その後の彼女たちの物語を見ていると、どうも違う姿が浮かんでくる。というのも、月野うさぎと地場衛(タキシード仮面の正体)のペアはもちろんのこと、他のメンバーである、火野レイ(マーズ)、水野亜美(マーキュリー)、木野まこと(ジュピター)、愛野美奈子(ヴィーナス)には皆、男がつがいになることが示唆されているのだ。

 月野うさぎは顔がいいことと善人であること以外取柄がないので(重ねて言うが私は月野うさぎのアンチではない。面倒くさい女だなと思っているだけである)、社会で自活するにはいろいろと厳しかろうと思うのだが、他の面子は事情が異なる。火野レイは霊能力と代々継いできた神社の跡取りとしての役目があるし、水野亜美は成績優秀で高IQの持ち主だ(IQ300というが、そんなにあったら月野うさぎと話しているだけで発狂するだろう)。愛野美奈子はもともとロンドンで捜査官をやって妖魔と戦っていたという謎設定があるし、木野まことは年上の男の不良相手でも互角に戦うほどの身体能力と男勝りな面を持つ。

 しかし、やろうと思えば男が隣にいなくとも社会でやっていけそうな雰囲気がしているにもかかわらず、彼女たちは自身の理想の男と、お姫様になった自分の夢を見るのである。ここで、思ってしまうことがある。王子様の存在が、彼女たちにとっての世界の果てになってはいないか? しかも、彼女たち自身が、その枠の中に収まることを望んでいるのである。

 結局のところ、彼女たちは王子様に見初められてお姫様になる、というロールモデルを完全に捨て去ってはいないし、捨てるつもりもない。同時に、時代の流れがそう言わせるのか、社会に出る夢を見ることは望んでいるのである。そう、彼女たちは夢だけ見られれば、選択肢があればよいのだ。しかし、どちらか1つを選べと言われれば、彼女たちは間違いなくお姫様になることを選択するだろう。

既視感のある戦いと世相

 ここまでで、セーラームーンの物語は、「恋愛・結婚という既存の価値観の中で将来を夢見る少女たち」VS「恋と結婚に敗れ、競争原理という新たな価値観をインストールした大人の女というという」という、女と女による戦いの物語であるということを示してきた。

 ところで、この二項対立を我々はどこかで見たことがあるような気がするのは、果たして気のせいだろうか。ちょうど、「主婦になり、家庭に収まることを良しとする女性」と「凡百の男よりも稼いで存在価値を示すバリキャリ女性」の二項対立といった具合に。有史以来、主婦とバリキャリ女性の争いは死体の山を重ね、流れた血は河となった。西の主婦が子育ての苦労を語れば、東のバリキャリが仕事でイケている自分を演出してマウントを取り、盛りを過ぎたバリキャリが死んだ目で婚活をしているのを見れば、子育ても落ち着いた主婦が憐みの目を向ける。

 セーラームーンの制作陣がこんなことを考えてアニメを世に出したかと言えば、それはおそらくNOであろうが、こういった風に読み取れるアニメが生まれた背景は察せられるものがある。というのも、セーラームーンのアニメが放映されたのが1992年で(私が生まれるよりも前だ)、その7年前にとある法律が制定されている。そう、男女雇用機会均等法(1985年制定、86年施行)だ。男は社会へ、女は家庭へ、といった既存のロールモデルに疑問符が浮かぶようになり、女性も社会進出をするべきだ、という論調が増した世界。そこにおいて7年という歳月が立てば、エンタメの世界にも牙が食い込もうというものである。

続編を見る意義とは

 無印版の最終話、エンディングを迎えた私は、ある感情が湧き上がるのを感じた。それは、「これ、続編見る意味ある?」だ。これは、無印版の終わり方があまりに綺麗で、続編を変に作ってほしくない……という意味ではない。

 では、なぜ続編を見る意義を感じないのかと言えば、これまで申し上げてきたとおりのテーマを終盤の展開から察してしまった上に、最終話のラストにて、戦いで死んだセーラー戦士達がみな、戦いの後に記憶を失って生まれ変わってしまったからだ。つまり、成長がリセットされたのだ。彼女たちの思想が変化することも、物語の筋が変わることも予想されない、同じことの繰り返し。その状況下で、果たして公開予定の全150話を見る意味があるのだろうか。それこそ、月野うさぎが王子様という「世界の果て」を破ってでもくれない限り。

「世界の果て」を破る試み・永遠という呪い

 セーラームーンという作品を見るうえで、私がどうしても意識してしまったのは、同じ幾原邦彦監督作品の「少女革命ウテナ」である(時系列はセーラームーンを監督していた時代より後のはずだ)。大分長くなってしまったので詳細は省くが、少女革命ウテナは、王子様を求める少女が、最終的に王子様という概念と王子様による庇護への憧れを捨て、次なる世界へ自立して旅立っていこうという物語である。なぜ、彼女たちは王子様を捨てなければならなかったのか。それは、王子様の庇護のもとにいる限り、その殻の中で停滞してしまうからである。

 反面、美少女戦士セーラームーンというコンテンツは、「ウテナ」とは異なる道を辿りそうである。セーラームーンは1997年にアニメを終了してから、実に17年後、深夜アニメ、新シリーズCrystalとして復活を果たした。更には、2020年には「美少女戦士セーラームーンEternal」と銘打たれた劇場版も公開される予定だ。Eternal、永遠。セーラームーンよ、永遠なれ、という願いが込められているのだろう。ファンとしても、これほど嬉しいことはあるまい。しかし、彼女たちは永遠に王子様という殻の中だ。これを呪いと考えてしまうのは、私がひねくれているのだろうか。王子様もお姫様も、いつまでもそのままではいられまい。付き合ったばかりは眩く見えた男の顔も、いつかはくすんで見えてくる。花の命は短く、時と共に母親となり、やがてババアと散りゆくのだ。

 かつて、坂口安吾は『堕落論』で説いた。

 ――人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことは出来ないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外に人間を救う便利な近道はない。

 しかし、私はこうも思う。月野うさぎが、地球の人類ではない、長命にして成熟した精神の月の民であるならば、人間にとっての救いの堕落も、彼女には必要ないのかもしれない、と。

 そんな事を思いながら、今日も今日とてYouTubeの東映公式チャンネルを覗くのであった。

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