『翼と宝冠』を読んだ感想および『翼と宝冠』展の思い出

※後半から『翼と宝冠』のネタバレを含みますので、必ず読了してからお読みください。


 先日、パラボリカ・ビスさんで開催されている中川多理先生の『翼と宝冠』展を観てきた。

 『翼と宝冠』は山尾悠子先生の掌編小説であり、その前作『小鳥たち』の外伝という位置付けの物語である。『小鳥たち』は、山尾悠子先生と人形作家の中川多理先生のコラボレーションによる人形写真と短編小説からなる珠玉の幻想文学作品である。したがって、『翼と宝冠』は『小鳥たち』を読んでから楽しむのが良かろうかと思われる。
 ・『小鳥たち』を読んだ感想および出版記念展の思い出

 パラボリカ・ビスさんでの『翼と宝冠』展では、中川多理先生による可愛らしいお人形たちが勢揃いしていた。
 まず、建物のショウウインドウでは、過日の春秋山荘さんでのイベント「秘翡翠小鳥開帳」で発表された、翡翠色の小鳥さんが出迎えてくれた。きょとんとした、あどけない表情がとても愛らしく、青を基調とした目にも鮮やかなドレスが個性を際立たせている。面白いエピソードがあり、昨年秋の『小鳥たち』出版記念京都巡回展において、設営時になんと野生のカワセミ(翡翠)が会場内に飛び込んできたという出来事があり、それに材を取って制作された小鳥の侍女さんということである。
 翡翠の小鳥さんに後ろ髪を引かれながら、急勾配の階段を上り、入館受付を済ませた後、カフェスペース「コスタディーバ」の展覧会場へと移動する。会場に入ってすぐ右手には「プティ」シリーズの掌の上に乗る可愛らしい小さな子たちがお行儀よく並んでいる。雛のような鳥頭の子、髑髏の子、人間の子、どの子も愛らしく、特に今回は小鳥の侍女風のドレスを身に纏っていて、お洒落な印象の子たちであった。我が家の「プティ」の雛の子、あ子ちゃんともお友達になってくれそうな、とても可愛らしい子たちである。
 先へ進むと、人形付き特装BOXという位置付けの小さな小鳥の侍女さんたちが並んでいた。『物語の中の少女』展や『小鳥たち』出版記念展などで発表されたのと同様、Growing Doll シリーズの子たちのような、革のボディを持った小柄の可愛らしい子たちである。今回は小鳥の侍女の小さい子バージョンということで、素敵なドレスを纏っており、どの子を選んだとしても、きっと幸福をもたらしてくれること請け合いであろう。
 その先には、美しい小鳥の侍女さんが一人で佇んでいる。栗色のウェーブ髪がエレガントな印象を与える子で、淡い菫色のドレスも素敵であり、流し目がとてもチャーミングな子である。
 その左手には、鳥頭の黒衣の侍女さんがちょこんと座っている。『小鳥たち』出版記念京都巡回展で発表された子で、老大公妃の荘厳なお人形の傍らで、二人揃って棺に入り、「葬送ごっこ」をして遊んでいたという、何とも愛らしい子たちの内の一人である。この黒衣のヴェー子さん、と私は呼んでいるが、この子を前にすると、あまりの愛らしさに私は卒倒しそうになるのを禁じ得ないのである。
 そして、その左手を振り仰げば、今回のメインとなる、始まりの侍女さんが赤子を抱えて座っている。その神聖な空気には誰もが驚き、祈りを捧げたくなるような気持ちを抱くであろう。プラチナブロンドの美しい長髪に白い肌、赤みがかった神秘的な瞳はここではない何処かを見詰めているようであり、白いリンネル(?)のフリルの付いた素敵なドレスは裾の方が薄く紅茶色に染められていて美しい。この圧倒的な神秘性は、まさに中川先生の真骨頂とも言えよう。あるいは、『物語の中の少女』京都巡回展で発表された、ヴァルマン王の「精神」の白く繊細な圧倒的な儚さをも思い起こすようにも感じられた。さらに、足指が長く節立っており、鳥足と人間の指の中間のような印象を受け、しかしながら、美しさを感じさせる絶妙なバランスの造形が見事であると感じられた。
 その傍らに抱かれた赤子の小さな握り拳とあどけない表情、それを抱く始まりの侍女の姿から受ける、聖母子をも彷彿とさせるような神聖な雰囲気は、一瞬にしてこの空間をここではない何処かの神聖な場所、たとえば、一千年前の聖堂の中の薄暗い光の射し込む静謐に満ちた空間にいるかのような感じを見る者の内に惹き起こすのである。このような現象を「空間支配力」と私は呼んでいるが、そのような神秘的な力を中川先生のお人形は有しており、これは古今東西の造形作品を見渡しても、他に類を見ないのである。まさに稀代のお人形と言えよう。

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 さて、この圧倒的な神秘性を宿したお人形たちに感動し、夢遊状態のような心地のままに、『翼と宝冠』を手に取ることにする。お人形の手にも相応しい小さな豆本であるが、その中身は山尾悠子先生一流のエッセンスが凝縮された珠玉の一編となっている。
 大公の宮殿と幾何学庭園を飛び回る小鳥の侍女たち、その監督者たる老大公妃の若かりし頃の物語。
 大公の元へと嫁ぎ、心を許せる味方もいない状況の中、大公妃の元へ現れた一人の侍女。それは人ならざる存在のようであり、幼き赤髭公の即位の後ろ盾であり、時を超えた後も再会すべき掛け替えのない存在であった。

 ここで、「実在」のくだりについて、私は注目したい。この本を読む一月程前、私は土谷寛枇先生のお人形を前にして、その踝までの長い黒髪に白い身体、彼岸を見詰める神秘的な眼差しを有した白色金魚さんが和室で佇むその姿を眺めていて、「このお人形は確かにここにいて、ここに息づいている」という、「実在性」とも呼ぶべき存在性について考えていた。確かに、彼女には「実在性」があると感じられた。ただし、「実在性」という言葉の語感には作品にモデルが存在するか否かなどという別のニュアンスも含まれそうなので、「実存性」と言い換えることにしたのだが。
 前述の通り、中川先生のお人形は周囲の空間をここではない何処かへと変容させる力を有している。それは、この世界を彼女たちの住む世界へと塗り替える力であり、幻想世界の住人であるということを示しているのではないだろうか。勿論、物質としてこの世界に「実在」することは事実であるにせよ、その存在性において、この世界ではない幻想の中にこそ彼女たちの存在はあるのではないのか、という直感である。
 上記のような事柄については、私がこれから何十年もかけて研究すべき大きな研究テーマとなるであろうから、ここではさておき、『翼と宝冠』における「実在」についての言及から、私が受けた印象として、次のようなものがある。すなわち、小鳥の侍女の実在性について言及されていることが偶然ではないとするならば、始まりの侍女は、たとえば、イマジナリー・フレンドのようなものが実体を持った存在なのではなかろうか、という仮説である。勿論、これは想像に過ぎないし、老大公妃の被昇天を考えれば、いわゆる天使の方により近しい存在であるとも考えられる。また、想像の余地が大きいことが幻想文学における神秘性の源泉であると理解している。
 仮説云々はともかくとして、始まりの侍女と小鳥の侍女たちは、孤独な大公妃に与えられた(あるいは、生み出された)救い手たちであったということは言えるかと思われる。
 そして、幻想と現実、空想と実在との関係性に思いを巡らし、山尾先生の描いた幻想世界を中川先生がこの世に実体を伴う形で具現化させることの文化史的な意義についても考えるのである。

  

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