『この闇と光』を読んだ感想〜『デミアン』とともに〜

※『この闇と光』のネタバレを含みます。必ず読了してからお読みください。また、『デミアン』『罪と罰』への言及を含みます。

先日、京都は山科の春秋山荘で中川多理先生の個展、『夜想#中川多理—物語の中の少女』出版記念展・京都巡回展を鑑賞してきた。
そこで一際、光り輝く美しさを放っていたのが、『この闇と光』に材を得た「レイア姫」だった。

『夜想#中川多理—物語の中の少女』出版記念展・京都巡回展」の思い出
https://note.mu/kazami7/n/n478f8d87f40c

当時の私は『この闇と光』は未読であったが、この美しい少女の纏う繊細な気品と、仄かに男性的な面影を持ちながら、少女らしいぬいぐるみやバスケットなどに囲まれた愛らしい姿との繊細なバランスに、不思議な感覚を覚えた。
二次性徴前の性的に未分化な少女もしくは少年。
女性的でありながら男性的でもあり、子供のようでいて大人らしさをも感じさせる、今まさに少女/少年から脱皮しようとする瞬間の、揺れ動く心と急激な身体の成長とのアンバランスな関係性を想起させる。
まさに、そのお人形はレイア姫であった。

展覧会から帰宅した私は、早速、『この闇と光』を読むことにした。
幼い少女とお父様だけの小さな箱庭。
灰色の空から降り続く雪の凍える寒さから守られた煉瓦造りの小家、その暖炉の暖かな光のイメージが想起される。
醜悪な現実という名の外界から隔離された、父娘だけの幸福な理想の小さな世界。
それは、すでに悲劇性を孕んでいる。幸福は長続きしないことを私たちは知っているから。「いつまでも幸せに暮らしました」などはお伽話の中だけの話であり、現実は常に冷酷であることを私たちは知っている。

レイア姫とお父様の仲睦まじい日常描写は、誰もが頰を緩めずにはいられない温もりに満ちている。
いつまでも、いつまでもーー。
幸福は唐突に終わりを告げる。
レイア姫がその成長段階に応じて、『赤頭巾』『小公女』『嵐が丘』へと読書を続け、『罪と罰』『デミアン』へと至った時、破局が訪れる。

『デミアン』とりわけ、善悪・男女具有神であるアブラクサスは、明らかに、『罪と罰』に対するカウンターパートとして置かれている。
『罪と罰』におけるラスコーリニコフの辿る結末は、正統派たる宗教においては是とされる典型であるけれども、それは、『デミアン』において序盤から否定されるところであり、アブラクサスに至っては、善悪両方の擁護者としての最たる存在として提示される。

「でも父は「世界に光と闇が存在し、善と悪が在り、人もその両方を併せ持っている。だから神も両方を併せ持っていなければおかしい」と言い、そういう神としてアブラクサスの名を挙げた。」

ここで、「闇と光」について面白い仕掛けが施されている。
すなわち、盲目の闇に包まれていた幼少期に触れ、感じていた世界の方がいかに美しく光り輝き、幸福であったことか。それに対して、目が見えるようになってからの現実世界のなんと色褪せていたことか。
美しい幸福な物語の世界すなわち闇と、醜悪な現実世界すなわち光という構造は、この小説の白眉であろうと思う。
親に守られ、伸びやかに世界の美しさを享受していた、何も知らず、物語の中に包まれていた時代、すなわち、無知の闇に包まれていた時代はやがて終わりを告げ、二次性徴を境として、醜悪な現実世界の渦中へと放り出される。
本書および『デミアン』でも描写されているが、退屈な学生時代、世間一般の多数派を占める人間たちは常に愚かで自分勝手な行いを当然のこととして横行している。正しくあろうとするほど、彼らからは疎外されてゆくことになる。
そのような愚かで醜悪なこの現実世界にあって、疎外されながらも、『デミアン』の言葉を借りるなら、「自らの運命を見出し、それを生き抜くこと」を目指す者たちのことを、「カインのしるし」ある者たちと呼ぶことができるのではないだろうか。
もちろん、それは世間一般における善悪を超えたところにあり、その象徴としての神、アブラクサスが掲げられることになる。
社会における法を超えたお父様は悪として断罪の対象となるだろうけれども、レイアはそれを望まない。なぜなら、お父様から注がれた愛を覚えているから。また、自らも世間一般の多数派から逸脱し疎外されるところの「カインのしるし」を持つ者であることを知っているから。いわば、レイアはお父様の同胞となったのだ。断罪する意思は起きるはずもない。もし、レイアが糾弾するとすれば、自分を誘拐したことではなく、「自分を置き去りにしたこと」に対しての憤りであろう。

それにしても、本書を読み終えた時、「お父様!」と叫ばずにはいられないだろう。
幼年時代、あれほど温もりを与えてくれた、愛を注いでくれた存在。
彼が悪であろうとも、その輝きは決して失われることはない。
もし、最後までお父様が「しら」を切り続け、悲劇的な別れを迎える結末であったとしても、レイアの心の中には、幸福であった愛されていた記憶が残り続けたであろう。ただし、思い出す度に狂おしいほどの口惜しさをも想起することになっただろうけれども。
実際には、最後はお父様は帰ってきてくれたと私は解釈している。

「君が何を言おうと、私は君が気に入りました。君もそうでしょう?レイア」

この言葉の後、レイアはお父様に駆け寄り、お父様の胸の中で幼子のように泣きはらしたのだと思う。
お父様はレイアをしっかりと抱き締めながら、その艶やかな髪をそっと撫でてあげている。
幼き頃に包まれていた幸福な物語の世界、二人だけの王国、美しき闇の世界を取り戻すように。
レイアは再び姫となり、お父様は厳かに玉座へと就く。
王の帰還ーー。

もう一つの視点として、本書では上述のように、美しい闇の世界と醜悪な光の現実世界という対比がなされているが、これは、闇の中で見る夢のようなイメージの世界、すなわち、形而上の世界こそが真に美しいと見ることもできる。
絵を描いたことのある方なら理解されると思われるが、自分の頭の中のイメージの美しさに対して、実際に筆を動かし、完成した絵のみすぼらしさとのギャップには目を覆いたくなることがある。この時、目を瞑った形而上の世界におけるイメージの方が、現実世界の絵画よりも断然に美しいということになる。得てして、自分の頭の中のイメージの方が現実世界よりも遥かに理想的で心地よいものである。

ただし、本書でも「イメージの限界」としてボッティチェリの絵画が例示されているが、「現実世界が頭の中のイメージを超える」ことがある。
たとえば、冒頭で触れた、中川多理先生の人形は、常に私のイメージでは追いつけない高みに存在している。
中川先生の人形を前にして、私はただ跪き、その圧倒的な存在を受け止めることしかできない。
私の頭の中のイメージがその「存在」を超えることはない。
人形は物質であり、肉体であり、そこに「存在」する物体である。
頭の中で思い描くのではなく、そこに「存在」することの意味、その「存在」が持つ気配、場を支配する「空間支配力」とは、実際に直面しなければ知り得ないものである。
この時、イメージ/精神は、存在/肉体により凌駕される。
見て、触れて、嗅いで、聴いて、味わわなければ、分からないことがある。
ここに、頭の中のイメージに対する現実世界の物体の優位性があるようにも思える。
それを最も端的に感じることができるものが、人形であるのかもしれない。

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