「『夜想#中川多理—物語の中の少女』出版記念展・京都巡回展」の思い出

先週末から京都は山科の春秋山荘で始まった、中川多理先生の個展、『夜想#中川多理—物語の中の少女』出版記念展・京都巡回展を鑑賞してきた。

http://www.yaso-peyotl.com/archives/2018/11/yaso_tari_kyoto.html

紅葉に包まれた京都は山科の毘沙門堂。
その人波を避けるようにして川沿いの細道をゆけば、京都市の「京都を彩る建物や庭園」にも選定された、古さびた趣のある茅葺き屋根が見えてくる。私が二年余り前、初めてお迎えしたお人形、菫さんと出会ったのもこの場所であった。

開場待ちの列に並び、暫し待つ間にもひらひらと空から赤い葉が舞い落ちてくる。まさに紅葉の盛り。春秋山荘のお庭も紅葉で埋め尽くされており、中川先生のツイートでも実に美しい紅葉とお人形のコラボレーションが描き出されていた。

さて、開場。敷居をまたぎ、受付を済ませ、土間から囲炉裏のある板間へと上り、在廊されていた中川先生へのご挨拶をさせていただいたのち、左手の畳の間へと足を踏み入れる。
まず、目に飛び込んでくるのは、左前方のヴァルマン王たち。縁側の障子の前に片膝を立てて佇む「肉体」のヴァルマン王。健康的な褐色の肉体に程よい筋肉がつき、腰布だけを巻いた格好、ソバージュの長髪を垂らした挑戦的な眼差しには自信が漲っている。畳の上に寝そべるようにして、斜め下からそのご尊顔を仰ぐと、より威厳が感じられる気がした。さらに、縁側に移動して背後から眺めれば、その隆々とした広背筋を堪能することができる。「兎の胞衣を纏う子」でもそうだが、中川先生の子の背中は美しい。
次に、ヴァルマン王の「肉体」の前に横たわっているのは、ヴァルマン王の「精神」である。燃え尽きた灰のような、白銀の雪原のような肌、美しい白髪を乱れさせ、腰布を纏い、安らかな表情。「肉体」とは対照的に、静謐な空気を纏っている。もし、この美しい青年に値段がつけられていたら、私は迷わずお迎えの申し込みをしたであろう。退廃の美を体現するような存在、その儚き白き世界には誰もが目を留めずにはいられない魅力がある。
そして、二人の奥の床の間には、九月の「観月祭」でお披露目された、ヴァルマン王の原型が圧倒的な存在感を放っていた。土壁の床の間と相まって、彼を中心として半径十メートルが乾いた土色の空間として屹立してゆくのを私は見た。
――圧倒的な空間支配力。
かつて、私が初めて出会った「髑髏展」での、中川先生の「兎の胞衣を纏う子」を薄暗い空間で見た瞬間、半径十メートル以内の温度が五度ほど下がった感覚を覚えたが、それに匹敵するほどの空間支配力を纏っていたのだった。
「観月祭」でも出会っていたが、ますますその圧倒的な存在感に磨きがかかっているようだった。将来、もし、私が私設美術館を立ち上げた場合にはそのメインを飾るに相応しい破格の傑作と呼んでも差し支えない芸術性を有していた。しかしながら、すでにお迎えが決まっていたのだった。尤も、値段が値段だけに、一介の労働者たる私には手が出ないところであったのだが、全財産を注ぎ込めばあるいは、と考え直した時には、時すでに遅し。しかしながら、これも「ご縁」、そう思うほかなかろうと思う。私が初めて菫さんをお迎えしたのは展覧会の二日目。隣に佇んでいた美千代さんはその数ヶ月後までお迎えを迷ってしまっていたが、それでも我が家に来てくれたのだった。それも「ご縁」というものであろう。

ヴァルマン王の前から動くことができず、離れがたい思いを断ち切るようにして振り向けば、そこには学制帽の可愛らしい眠り目の少年と洋風の顔立ちの水兵服の少年が仲良く並んで佇んでいる。クリスマスを思わせる飾り付けに木馬があり、眠り目の少年の見る夢の中の世界のようにも感じられた。仲睦まじい少年二人の世界は甘酸っぱさと仄かなエロティシズムをも孕みながら、思春期の少年特有の空気感を見事に描き出しているようだった。

さて、右手の敷居を超えて、板の間に足を踏み入れると、ヘリオガバルス帝が迎えてくれる。薄薔薇色の布と薔薇の花弁に囲まれ、恍惚とした表情。ローマ風の衣を身につけ、その彫眼の瞳はここではないどこか遠くを見詰めている。超然としたその雰囲気は、ヴァルマン王とは別物であり、同じモールドから生み出されたとは思えない個性を纏っていた。元より、中川先生のお人形はどの子も確かな個性を有しており、同じモールドとは思えないこともしばしばである。それは先生一流の魔法と呼んでもよいであろう。

薔薇色の世界を放出しているヘリオガバルス帝から右手を見れば、かつての「白い海」「薄明穹」に出展された子たちが白き世界に佇んでいる。現在の子たちとはまた違った身体を持った子たちであり、可愛らしいコジュリンさんたち、退廃的な美を湛え、吐息の聴こえてきそうなコハクチョウさんは個人的に、パラボリカ・ビスの象徴のように思っている。小さいながらも確固たる個性を纏った盲目の地図さんたちは水琴窟さんの伽藍のお腹の中に収まるようになっていたらしい。一人でも十分な存在感のある子たちである。「モノクローム」「白い海」「薄明穹」「花迷宮」「『イヴの肋骨』出版記念展」の頃、まだお人形と出会っていなかったことは、一生、私のハンディキャップとして背負わなければならないのだろうと思っている。

美しい白い海の世界から目を転じれば、『幻鳥譚』で出展された鳥の少女が一人佇んでいる。なぜ鳥なのか、という問いへの答えはまだ、私の中では出ていないが、特徴的なフォルムは一度見たら忘れられない印象を残す。セピアがかった退廃的な彩色の肌を持った幻鳥さん。鳥の顔を持ちながら、身体は少女のそれであり、鳥としてのイメージと少女らしさとが渾然一体となって迫ってくる。この子を前にして、私たちは鳥として接すればよいのか、少女として接すればよいのか、あるいは、そのどちらでもないのか、選択を迫られることになる。骨めいた翼も傍らに置かれている。人間ではない、永く時を渡ってきた存在。幻想への扉を開いてくれる。

幻鳥さんと別れて左手に回れば、レイア姫が眠っている。美しくエレガントな雰囲気を纏った少女のようで、その顔立ちには男性的な印象も受ける絶妙なバランス。可愛らしいクマのぬいぐるみを抱いており、傍らの編みかごにはリアルな触感が楽しいバゲットやブールなどのパンやリンゴが。また、数々の美術書や「あいうえお」の文字板が世界感を演出している。この子は過去に発表された少年たちの原型を新たに仕上げた子らしい。美しく性的に未分化な少年は中川先生の十八番でもあるようにも感じる。

レイア姫から左手へ回れば、『小鳥たち』の二人の少女たちがアンティークベッドの上に座っている。一人はショートの黒髪が爽やかな印象で、その可愛らしい顔立ちと流し目がとても魅力的な焦茶色のドレスの小鳥の侍女さんである。もう一人は、メロン色のガラスの作り目が神秘的な南瓜色のドレスの小鳥さんで、短めの三つ編み、白い肌に広いおでこが特徴的で、神秘性において群を抜いていた枯葉色の小鳥さんのようなおでこの傷を持っている。私はこちらの南瓜色の小鳥さんをお迎えさせていただいた。顔立ちは隣の子の方が個人的な好みではあったが、より神秘性が感じられる子の方を選ぶことにしたのだった。うちに住むアリサ/カナリーさんとも姉妹同然に仲良くなれそうだということも重要だった。今回はヴァルマン王には手が届かなかったけれども、こちらの神秘的な小鳥さんとご縁が持てたことはとても幸運だった。

板の間から出てすぐの所には、『夜想#中川多理—物語の中の少女』と中川先生による美しい版画作品、また、『夜想』のバックナンバーが並べられていた。そして、右手を見れば、特装版の小さな子たちが座っていた。歌舞伎役者の新太郎君にトシ子さん、褐色のエレンディラさんに兎のフードを被ったマルスリーヌさん、どの子もとても可愛らしく、細部まで丁寧に縫い上げられているのが分かる。

さて、初日と二日目には中川先生を囲んだお茶会が催され、中川先生にお話を伺うことができ、とても貴重な体験をさせていただいた。お茶会では京都市内の銘店のケーキが供され、特に、中川先生のご本をテーマにして作られたという、ル・フェーヴさんの白と黒の二つのケーキは目にも鮮やかで、とても美味しかった。白のケーキの外側にはお人形の白い肢体をイメージしたようなマカロンめいたビスケットが並べられ、さっくりと口の中でほどける繊細な味わいであった。また、黒のケーキは色とりどりの球体のフルーツが濃厚なバターチョコレートの上に並べられていた。このケーキを頂いている時、何か硬いものがケーキの中から出てきたが、それは陶製の小さな車であり、幸運のフェーヴであった。ル・フェーヴさんの趣向に感嘆し、とても楽しませていただいた。
また、お人形オーナーさんたちとの会話と撮影会もとても楽しませていただいた。ツイッター上ではよくお見かけする特装版の可愛らしい子たちとうちの特装版プティのあ子ちゃんを一緒に撮影していただいて、あ子ちゃんも楽しそうにしていたと思う。ありがとうございます。
お茶会に撮影会、このような機会は滅多になく、いま思い出しても夢のような心地で、一生の思い出になった。
来年も、中川先生のご活躍に大いに期待して楽しみにしている。また、このような機会があれば積極的に参加していきたいと思っている。

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