【考察】「恋愛」と「アイデンティティ」の相克~『Forest』と『狭き門』

星空めてお先生と大石竜子先生に敬意を表する。

※『Forest』と『狭き門』のネタバレを含みます。必ずプレイしてから読んでください。

  

1.『狭き門』について

先日、ジッドの『狭き門』を読んだ。

全体として恋愛小説であるが、それだけに留まらない、文学的な深さを感じさせる傑作であった。

その中核には、苛烈なまでの信仰心と、青年期の過ぎ去った後に、ふと、自らの青春を後悔を湛えて顧みるような、静謐さがあった。

――「幸福」とは何か。

アリサの部屋でのやり取りにより、アリサとジェロームの間には、信仰上の対立があったことは明らかであるように思われる。(わざとジェロームに嫌われようとした、ということがアリサの心中の半分を占めていたにせよ)

ジェロームはパスカルを信奉する、いわゆるプロテスタントであり、アリサは初めは彼に従っていたが、後に袂を分かち、おそらくカトリックの方向へと向かったのだと推測できる。その転換の時期を境として、二人の間には隙間風が差し込むようになり、あの決定的なアリサの部屋でのやり取りに繋がっていったという解釈ができる。

アリサは自らの信仰と彼への愛との間で激しく葛藤し、どちらか一つを選択することを強要されていった。

そして、結局、どちらも選ぶことができず、死によって幕を引くことにしたのだと見ることができる。

このプロットは、ある意味で、宗教改革を舞台とした、『ロミオとジュリエット』とも言えるのかもしれない。

「わたしからすべてを取りあげた嫉妬深い神さま」

かつてのカトリックの修道士・修道女は、生涯独身を貫いたという話がある。(仏教においても同様な制度があったことが連想される。)

よって、もし、アリサがカトリックの修道女のような姿を目指していたのであれば、当然、結婚は望めないことになる。

つまり、アリサが信仰において、カトリックの方向へと転換したことが、二人の結婚における最大の壁となったということである。

アリサとジェロームが信仰上の対立をしていた以上、彼らが結婚して家庭を築くには、当時においては、アリサの方が自らの信仰を捨てねばならなかった。

アリサはそれを理解していた。ゆえに、自らの信仰を捨てて彼との幸福な家庭を築くことへの激しい渇望を覚えながらも、信仰を捨て去ることはできず、最後は彼の前から姿を消すことを選んだ。

畢竟、アイデンティティの問題なのである。

アリサは、自らのアイデンティティを守るために、深く愛した恋人との幸福な未来を拒否するしかなかったのである。

その行動は、我々にも十分、理解できるものであるだろう。

「わたしたちは幸福になるために生まれてきたんじゃないわ」

「幸福よりほかに魂は何を望むんだ?」

「清らかさ……」

このアイデンティティの問題は、前半のジュリエットの結婚のエピソードにおいて端的に示されている。

ジュリエットはジェロームに好意を寄せていたが、アリサはジェロームと愛し合っているにもかかわらず、妹に恋人を譲ろうとしていることを知り、違う人との縁談を受けることを決意する。

ジュリエットは結婚後、幸福そうに暮らしているように見えたが、好きだったピアノも読書もやめてしまっていた。

それは、夫が音楽や読書を好まない人間であることを汲んだからであった。

さらに、彼女は夫の事業に興味を示すように振舞っていたのだった。

夫に仕えるために、それまでの自分を支えていたアイデンティティを捨て去り、家庭を守ることを選んだ一人の女性の姿が描かれている。

「いまジュリエットが幸福と見なしているものは、かつて彼女が幸福の源泉として夢見ていたものとは、あまりにもかけ離れているから!

……そうよ!「幸福」というのは、魂との結びつきがあまりにも深いものなの。」

ここからは、女性の自立の問題やジェンダーの問題を読み取ることもできるであろう。

その意味では、旧来の結婚観に抗い続けた、アリサの姿は、夫からの自立を目指す、新しい女性像を描いているものだと解釈することもできるであろう。

――「家庭」を取るか、「アイデンティティ」を取るか。

この命題は、我々とも無関係ではない。

もし、家庭を築き、幸福な人生を送るためには、それまで必死に守り抜いてきた、自らの「アイデンティティ」を捨て去らなければならないのだとしたら。

果たして、その行為は、「真の幸福」と呼べるものであるのだろうか――。

この書は、そのことを我々に突き付けているように思われてならないのである。

  

2.『Forest』について

「ロビンくんは、ひとりじゃない。森には、きっとロビンくんの魂がいるんだ。それがリアルの世界の男の子と引き合って、ロビンくんに「なる」んだ」(「傘びらき丸航海記」雨森)

「傘びらき丸航海記」では、クマのプーに殺されたロビンの元型が“森”に存在すると語られる。これは、ギリシャ哲学におけるイデア論、すなわち、物事の真の実在すなわちイデアたちはこの世ではない場所に存在し、この現実世界はイデアの模倣に過ぎないという説に似ている。

では、“森”はイデアの世界であるのだろうか。

ハイデガー『芸術作品の根源』には、次のような内容が記されている。

芸術とは、作品の中で“真実”を創造し事実とすることである。

ゆえに芸術の本質は詩作である。

存在に名を付けることで、初めて存在を事象とする。

それは設計であり、保存することで、作品の内に“真実”を飛び立たせ、事実となる。

それは“真実”が語る言葉であり、語り得ないものを生み出すことである。

“真実”には、作品になろうとする性質がある。

「森は、俺たちに語ってほしいのかもな。誰も知らない、新たな物語を……」(「風に乗ってきた招き」灰流)

「生命など、たかが状態ではないか。世界は言葉だ。世界は思念(こころ)だ。ほかはみな些末な枝葉の茂りに過ぎない」

「生命とは、ただの状態の要素なり。世界とは、状態を語り尽くさんとして、なお語りえぬ、限界なきところなり。語りえぬ言葉で世界を語り……やがて、達するは……」(「ザ・ゲーム」アリス)

「やがて達するは、永遠なり」「あるいはまた、真理なり」(「ザ・ゲーム」黒の乗り手)

この説を採用するならば、“森”は芸術作品の中で創造されようとする"真実”であることになる。

もし、“真実”を“イデア”と言い換えることができるとすれば、両者は一点を除けば、同様のものと言えるだろう。

すなわち、“真実”は、この世にはないどこかにあるのか、それとも、芸術作品の中に創造されるのか、という点である。

前者を採用すれば、芸術作品は“真実”の模倣に過ぎず、後者を採用するなら、芸術作品は“真実”そのものを内包していると言える。

“森”は、芸術作品に内包される“真実”であったのだろうか。

語ってほしかったのは、“森”。

彷徨っていたのは、“物語”。

つまり、“森”とは、紡ぎ手のいなくなった“物語”ということになる。

それは誰の作る物語か。

タワーから身を投げて死んだ、雨森である。

雨森が死んだことで、物語は未完に終わった。

そして、紡ぎ手のいなくなった物語は、結末を求めて、さまよっている。

それが、“森”であると推測される。

ただし、その物語には灰流という共同執筆者がいた。

“はじまりの物語”は、雨森と灰流の語らいから生まれた。

「伝説にいわく――すべての「物語」のはじまりは、おさな子と賢者の語らいより発した――」(「ザ・ゲーム」ソロモン)

「森は、あたしたちの物語「じゃない」の? それとも――「そうだった」けれど、「いまは違う」の? じゃあ、誰が「物語」を書いてるの? それとも……まさか……「物語」そのものが、「意思」を?」(「ザ・ゲーム」雨森)

意思を持った物語。紡ぎ手のいなくなった物語。結末を求めて彷徨う物語。

そして、ハイデガーによれば、“真実”には、作品になろうとする性質がある。

芸術作品により“真実”は明らかにされ、現実のものとして、この世に生み出される。

すなわち、芸術作品はただの空想の模写ではなく、“真実”を事実とするものである。

「生まれ出でた喜びとその圧倒的な孤独に、伽子はうちふるえる」(「終末の国のアリス」)

「かわいそうな伽子。森の子。私の娘。来て――あなたはあたしと生きましょう」(「終末の国のアリス」雨森)

――作品として完結することで、現実に生み出されようとする“真実”。

それが、“森”であり、伽子という存在だったのだと考えることができる。

 *

「名前なんか重要じゃないんだ。むしろ、ない方がいい」

最初のリドルで、灰流はそう言った。

「はじまりの物語」で、魔女アマモリは名前探しの旅に出る。

しかし、その物語は、トルンガとペッコリアの物語に取って代わられ、

また、悲惨な事件の結果、中断を余儀なくされ、その続きが紡がれることはなかった。

物語のクライマックス「終末の国のアリス」では、灰流が雨森に名前を告げ、名前を取り戻した雨森は、元の姿を取り戻す場面が描かれる。

――名前を取り戻す。

上述のハイデガー『芸術作品の根源』の記述によれば、芸術の本質は詩作である。

存在に名を付けることで、初めて存在を事象とする。

それは設計であり、保存することで、作品の内に“真実”を飛び立たせ、事実となる。

それは“真実”が語る言葉であり、語り得ないものを生み出すことである。

存在に名前を付けることで、“真実”を実在する存在として生み出す。

死んだ(砕け散った)雨森は名前を与えられたことで、この世に実在する存在として戻ってきたと解釈することもできるだろう。

さらに、想像妊娠で宿された想像上の存在である伽子は名前を与えられたことで、実在する存在として本当の生命を与えられたと解釈することもできる。

「私は名前をなくしてしまった。今の私は、誰でもないわ。でも……ねえ先生、先生なら知ってる? 私は誰なの? 名前があるの? 教えて、先生……」(「たからもの」伽子)

「……俺の知ってる名前は、ひとつだ。宮乃伽子」(「たからもの」灰流)

ここでは、伽子に対し、名前が与えられている。

名前を与えられたのは、雨森と伽子の二人であった。

つまり、名前を与えられ、"ほんとうの存在"を獲得したのは、雨森と伽子の二人であったと言える。

もう一度、本作のクライマックス、「終末の国のアリス」の流れを確認したい。

断章で語られる痛ましい事件。タワーから飛び降りて死んだ(砕け散った)雨森。

数十年間に渡り、詩を詠み続けた灰流は、ついに雨森を取り戻す。

そして、雨森が想像妊娠した存在であるはずの伽子は、“ほんとうの存在”になる。

灰流が行った行為は、ハイデガーの芸術論を踏まえると、次のように解釈することができる。

芸術とは、作品の中で真実を創造し事実とすることである。

詩を作り、名を名付けることにより、それを“ほんとうの存在”すなわち、事実とする。

雨森という存在の"真実"を芸術作品の中で創造することにより、それを事実とした。

すなわち、現実世界には存在しない、“ほんとうの雨森という存在”を、詩によって“つかまえる”ことにより、"真実"を創造し、現実世界での事実としたのである。

ここでは、詩作という創作活動が、そのまま、世界を創造することを意味するのである。

「俺は語る。「世界」を創る。恐れはしない。忘れられても。」

  

3.「恋愛」と「アイデンティティ」の相克

以上の考察で、『Forest』については、概ね語り尽くしたように感じていた。

しかし、先日、『狭き門』を読んで、致命的な見落としに気付かされ、解釈を根底からやり直す必要に迫られた。

――畢竟、アイデンティティの問題なのである。

『Forest』で繰り返し描かれていたのは、「恋人に対する報われない献身」あるいは、「恋人への依存の末路」であった。

妻子ある大学教授に道ならぬ恋をし、懸命に教授とその家族に尽くそうとしながらも、結局、破滅を迎える、黛。

女癖の悪いレストランのオーナーの彼氏に振り回され、出世の道さえも故意に阻まれていた、刈谷。

彼女たちは、彼氏との恋愛に身も心も捧げたために、自らのアイデンティティをも失い、破滅へと至った。

それは、後述するが、雨森も同様であった。

彼女たちの共通点は、「恋愛によって、彼氏に依存し、自らのアイデンティティを失い、破滅へと至る」という点であった。

『狭き門』では、ジュリエットは音楽と文学に理解のない男性との結婚を機に、それまでの自分を支えていた自らのアイデンティティを捨て去ることを代償として、外見上は幸福そうに見える家庭を築いていた。

そして、それを間近で見ていた姉のアリサは、その状態を「幸福」とは見なさなかった。結婚による自らの信仰の放棄、すなわち、アイデンティティの喪失を拒否し、愛する彼氏との別れを選択した。

「いまジュリエットが幸福と見なしているものは、かつて彼女が幸福の源泉として夢見ていたものとは、あまりにもかけ離れているから!

……そうよ!「幸福」というのは、魂との結びつきがあまりにも深いものなの。」

この決断に対し、読者には賛否両論があろうが、少なくとも、「男性に依存しない、自立した女性」が描かれていることは事実であると思われる。

もし、アリサの結末が、孤独な死ではなく、どこかの修道院で居場所を見つけて生き続ける姿であったならば、批判の声はより少なかったことであろう。

(「愛か、さもなくば、死か」という二者択一こそが、文学的には美しく見えたとしても、現実的には間違いであろうし、そこには、アイデンティティの保持という観点が抜け落ちているのである。)

この、孤独な死を迎えたアリサの結末を、より望ましい形に書き換えたものが、『Forest』のエピローグであると言っても良いように思われる。

雨森におけるアイデンティティの問題は、「はじまりの物語」における「名前探しの旅」にも明らかであり、クライマックスの「終末の国のアリス」での、雨森と伽子に対する名付けのシーンを見ても明らかである。

ここで、『Forest』の雨森は、『狭き門』のアリサに当てはまると言えるようであるが、両者の違いは、後者がアイデンティティを守り抜くために彼氏と別れ、死を選んだ格好になっているのに対し、前者は、アイデンティティを守ることができず、むしろ、彼氏の影響によって、死を選んだように見える点である。

その意味において、雨森は、ジュリエットであり、エピローグにおいて、アリサへと生まれ変わったと解釈することもできるだろう。

もし、雨森が名前を取り戻した=アイデンティティを確立したのが、「終末の国のアリス」において灰流に名前を教えてもらった瞬間であり、すなわち、ビルから飛び降りて死んだ(砕け散った)後であるならば、彼女がビルから飛び降りた理由は、自らのアイデンティティを守るためではなく、別の理由からであったと推測できる。

そして、おそらく、それは、現実世界への「絶望」であったのであろう。

「俺は「永遠」も「無限」も信じないが、絶望するのは俺の勝手で――

その絶望に誰かを巻き込んで、ビルのてっぺんから突き落とすようなこと、したくはないんだ。」(「終末の国のアリス」灰流)

「そして、あたしは「永遠」に触れた――

でも先生、あなたは拒んだ。永遠を否定した。

無限という地獄――そう先生は言った。脱出したい。この世界を超えるんだ。

あたし、その気になっちゃった。」(「たからもの」雨森)

雨森は、灰流の思想に影響されて、「この世界を脱出する」=死んで新しい世界へ行くことを目指し、ビルから飛び降りたのだと告白している。

ここでは、「現実世界での幸福」=永遠を求めていたのは、雨森であり、「現実世界での幸福」の否定=永遠を否定していたのは、灰流であったが、

雨森は灰流に影響され、自らの求めていた「現実世界での幸福」を放棄し、ビルから飛び降りることになった、という構図である。

それは、『狭き門』でのアリサとジェロームの考え方が入れ替わった格好になるであろう。なお、作中で死を迎えるのがアリサではなく、ジェロームの方であったならば、より符合するであろう。(ただし、アリサとは違い、雨森が死を選んだのは、自らのアイデンティティを守るためではなく、むしろ、灰流の影響を受けたからであった。)

「俺なんか真っ先に死ぬべきなんだ。(中略)

この俺みたいなちんぴらのごろつきが、ただ食って寝てやって生きているだけでも、なにがしかの影響力は作用してしまう。恐ろしいことだ。

城之崎灰流が世界に在れば 城之崎灰流に世界は染まる いやおうなしの呪いの宿命 (中略)

みっともなくてもいいから、無色透明になれないかなあと思う。」(「傘びらき丸航海記」灰流)

この、灰流の虚無主義的な考え方が、半ば彼の危惧していたように、雨森に対して影響した結果、最悪の破滅を招くことになったと見ることもできる。

それを裏付けるものとして、前述の灰流の言葉、「その絶望に誰かを巻き込んで、ビルのてっぺんから突き落とすようなこと、したくはないんだ。」へと、繋がることになる。

雨森と灰流の間に、価値観の相違があったことは明らかである。

雨森は「永遠」を肯定し、現実世界での幸福(ハッピーエンド)を求めていた。

灰流は「永遠」を否定し、現実世界での幸福(ハッピーエンド)を否定した。

(なお、欧州の古典文学においては、「永遠」=「神」のことを指す場合が多いということは、裏の意味として留意する必要はあろうかと思われる。この場合、永遠を否定する=神を否定する、ということになる。

この解釈を適用するならば、彼女たちの間の対立事項は、「神の実在をめぐる信仰の問題」ということになり、それはまさに、『狭き門』と符合することになるであろう。ただし、この解釈については深入りしないこととする。)

この、灰流に影響されて、「永遠」を肯定するというアイデンティティを放棄した雨森の末路、言い換えれば、灰流への依存による雨森の破滅は、「終末の国のアリス」で名前を取り戻すことにより、解決されたと見ることができる。

エピローグでは、一人の自立した女性として、颯爽と歩く雨森の姿が描かれている。

そこでは、もはや灰流の影響の跡は見られない。

彼女はもう灰流への依存を止めていた。そして、言葉をかわすこともなく彼とすれ違うことができた。

――それが、彼女の自立の形であった。

灰流はそれを見送るしかない。

どれほど彼女を愛していようとも、自らの影響力が彼女を縛ることはあってはならないということを知っているからである。

これまでの解釈では、エピローグで二人がすれ違うことに違和感があった。

愛し合っているのであれば、一緒に暮らせばいいのに、と単純にそう感じていた。

しかし、『狭き門』を読んだ後、この結末の意味を理解できたように思えた。

愛する人との生活よりも、自らのアイデンティティを守り抜くことを選択した、アリサのように、

雨森もまた、灰流と一緒になることよりも、自らのアイデンティティを貫くことを選んだのであろう。

そこには、「彼氏への依存」から脱却した、一人の自立した女性の姿が描かれていた。

   

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