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絵画芸術作品のレシピ-the recipes of art.

これは、なんの大したこともない、覚書。僕という凡が、己の芸術性を見出せるまでの、思考の道程。

さて、前回(が一応あるんですわ)は、大まかにいえば、芸術の歴史の中で己の作品のポジション取りを考える、というようなものでした。

それは芸大にも通わず、描き始めて1年に満たなかった僕にとっては、とても意義のあることでした。しかしそこに並んだ言葉の表現にいささかの違和感が残ります。

「ちょっと、背伸びしてんな?オイ。」

惜しいんすよ。いいけど、まだ、なんかこもってないよね。そんな感じ。さてでは、何が足りないのか。僕は考えました。レビューはこうです。

「歴史を参照するあまり、歴史に飲まれた。自分のリアリティをないがしろにしたまま、形にしようとした。」

より確かな自分自身のリアリティ(それは、経験、体験か、感情か)を出発点とし、その一般化、普遍化を行う。それが今回の命題です。


では、早速ですが結果を。新たなステートメントはこちらです。

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僕が表現したいのは「生命存在の証」。他者の確かな体温や呼吸、脈拍やにおい、といった類の存在に文字通り「触れる」ことを介して、全てと共に在る自己の存在を確信し、世界と連続した自己の存在を感じる体験を得ることができる作品を制作していくことを目指します。
ここでは「生と死への関心」「(共有される)夢」「(存在するものへの欲望を掻き立て、夢と現実を結び付ける基盤となる)官能・触知性」「絶望・孤独・葛藤といった感情と自身のリアリティの昇華」「愛」「はかなさ・一瞬性」「連鎖・統合」を、私の作品を構成する成分とします。

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「誰も、独りにしない」「すべて共にある」。原点に戻ってきた気分です。それでいて、確かな文脈にのっとった仕方をとらえることは、できていると思います。

シュールレアリスムや抽象表現主義等との細かな連関については、ここでは長くなるので省きますが。ステートメントについて、整理しながら少しずつだけ触れていきます。


根本に据え置いた最も大きな僕のリアリティは、2つです。(原体験、というのに近いですが、この言葉は昨今使い古されたようで、あまり好まないのであえて使いません。)

1つ目は、血の繋がった家族のこと。詳しくは書かないけれど、病気や仲違い、今日に至るまでたくさんのことがありました。

一人ひとりにとって、地獄があったと思います。それぞれの苦しみの中を、生き抜いてきたのだと思います。

たとえどんなことがあろうと、ふとした瞬間に僕は、あぁ、どうしても、どんなに嫌おうとしても、やはり僕はあなたたちを愛しているのだ、と思うことがあるのです。

久々に会って話せたとき、大きな病気の手術が無事に終わったとき、車で隣に座って話しているとき、言葉にならない、そんな気持ちになるのです。

「そうだ、僕はずっと、誰も独りにしたくなかったのだ。一人ひとりと、ただ共に在っていたかったのだ。」

そう思うのです。それがきっと7,8年前からずっと変わらない、ずっと抱いてきた、1つ目のリアリティ。

2つ目は、去年我が家にやってきた、白猫の海くん(0歳)。

あまりこう、どんなに近しい人間がいても、たしかな「生」という事実を、僕は感じたことがありませんでした。なんとなく「誰かが生きている」という事実を、一種幻想に近いものとして、受け取っていたように思います。

そんな僕が、海くんの身体に触れたとき。彼の体温と、呼吸と、脈と、そんなものを感じたとき。今でも忘れない、いや、今も感じ続けています、あまりにも強烈な「ここに生きている命がある」という事実を、僕は肌で知ったのでした。

「そうか、君は生きているんだねぇ。僕も、同じか。」

その夜はそんなことを思って1人で泣いていたのを、よく覚えています。

彼が「確かに生きている」という強烈な事実が、「僕もここにいる」ということを教えてくれました。それが、大切な、もう1つのリアリティ。


少し無粋な気もしますが。あえて置き換えるならば、SNSで生身の関係は薄まった、今となっては、マスクの下が笑っているのか、そんなこともわからず、近づくことすら嫌悪の対象とされる、そんな世の中です。

誰かが生きていること、自分がここにあるということ、確かに共にあること、そんなことを感じられる場は、いつの時代も皆が容易く手に入れられるものではない、そう思います。

では、そんな体験を、僕は作品を通して生み出せないだろうか。それが、LES WORLDというものを通して創ってきたものにも、通ずるのではなかろうか。それができたら、それ以上のことはないのではないか。そう思うのです。

ここらへんでだいぶ、自分の近くに言葉たちがやってきた気がします。ふぅ。ひと息。

やっぱさ、自分の考えることをひとに見せるって、緊張するよね。みんなよくやるよ。表現、怖え。疲れた。でもな、それでもやり続けるのが、そうあれる場をつくるのが、LES WORLDとしての、そして自分個人としての、天命なのだろうね。

さて。では本題へ。え。絵画芸術作品のレシピをご紹介します。

材料は先に述べた通り、以下の7つです。

「生と死への関心」
「(共有される)夢」
「(存在するものへの欲望を掻き立て、夢と現実を結び付ける基盤となる)官能・触知性」
「絶望・孤独・葛藤といった感情と自身のリアリティの昇華」
「愛」
「はかなさ・一瞬性」
「連鎖・統合」

順序にさほど意味はありませんが。ひとつずつ見ていきましょう。でも疲れてきたので、サクッといきます。

①生と死への関心

「生と死」というのは、悲劇的美術やロマンティックな美術においても、それ以外においても、やはり古代より偉大な芸術家たちにとってのひとつの重大なテーゼでありました。命が、生が確かにここにあると感じられること、そして命には限りがあると身近に感じていること。それは、絵画の構成要素として重要な意味を持ちます。

②夢
哲学者アーサー・C・ダントーはアートを「うつつの夢」と定義しました。受肉化された意味を持った、目を覚ましながらに夢を見せることのできるものこそがアートである、ということであり、それはつまり、誰しもがその存在を共有することができる夢である、ということを指します。また、それが夢であるということは、私たちの見る世界にある事物の外観で構成されているものでなければいけません。

③官能・触知性
官能性とは、人間のあらゆる経験における基礎的な言語であるといえます。そしてそれは、接触の感覚、つまり触知性にかかわり、私たちにとってのリアリティを最終的に正当化するものになり得ます。触知性は存在するものへの欲望を掻き立て、夢と現実(リアリティ)を結び付ける基盤となります。また現代の脳科学が示す通り、視覚と触覚は私たちの情動に密接に関連しており、その両者に接近することのできる要素を配置することをここでは必要とします。

④絶望・孤独・葛藤といった感情と自身のリアリティの昇華
戦争や革命。いつの時代も、最も人を動かすのは、不安や絶望のようなある種の負の感情とみなされうる情動です。それらの基本的な感情が内在することは、強い情動を喚起できるための絵画作品の構成要素として非常に重要です。そしてそれらの感情を、自身のリアリティと共に作品として形にする、すなわち昇華することが、求められます。昇華とは、それらの感情のもつ力を、正の方向においてより強めることができる手段であるからです。

⑤愛
ここでは、希望的要素として、愛を用います。それは、全てを家族とみなし包むために必要な力であり、すべては一であるとするに必要な力です。しかしそれは、それすらも多面性を持った概念であることに留意します。

⑥はかなさ・一瞬性
私たちが生きているこの時間は、常に淘汰されはかなくも移り変わり続けるものであると理解していること、そしてそこにあるのは連続した「現在」であると知っていることが、ここでは重要です。

⑦連鎖・統合
これに関しては、もう少ししっくりくる言葉を探しているところです。しかしこの種の要素は、孤立を生み出さない、存在を再確認するために非常に重要であると位置づけられます。


以上が、僕の絵画芸術作品のレシピとなります。さて、だいぶ整理できましたので、ここいらでよしとしましょう。次に生まれる作品は、どんなものになるでしょう。楽しみです。

ここまで読んでくださったちょっと変わったそこのあなたへ、感謝を贈ります。ぼちぼちです、ぼちぼちいきましょう。では。


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