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一人でも大丈夫、二人ならもっと大丈夫

「わたしのためにそこまでしてくれて、ごめん」

その言葉を聞いたとき、「あぁ、それは違うんだ」と思った。なぜなら、ぼくがきみのためにできることなんて、ほとんどないからだ。

きみのことを想像しながら自分にできることを考えても、考えたことをやるかどうかは、最終的にぼく次第なんだ。自覚のあるなし関わらず、ぼくがやることは、ぼくが選んだことになる。

どれだけきみのことを思っても、ぼくは自分に嘘をつかない。きみがぼくに嘘をつくことを望むなら、ぼくはきみのそばにはいられない。嘘をついてほしいなら、きみの言うことをいつでもなんでも聞いてくれるやさしい誰かがいればいい。

きみが、"わたしのためにしてくれた"と感じたことがあるなら訂正したい。そう感じたことは、ぼくがぼくのためにしたことなんだ。きみといるときのぼくを好きでいるために、きみと自分に嘘をつかないために、ぼくが選んだことなんだ。

だから、「わたしのためにそこまでしてくれて、ごめん」と言われると、ぼくは「あぁ、それは違うんだ。拙くて、ごめんね」と言いたくなる。


"きみのために"から始まる言動は傲慢さを含む。自らの傲慢さを自覚しない言動は、知らない間に相手を傷つけるだろう。だから、ぼくが「きみのために何かしたい」と思ったとき、立ち止まり考えることにしている。

ぼくがきみの立場だったら、何をしてほしいか、何をしてほしくないか。きみはいまどんな状況にいるか。きみの価値観に照らすと、どんな意味があるか。自分が力になれることがあるのかないのか。

自分が相手にできることがないと感じるなら、何もしないことを選びたい。できることがないのに何かするのは、何もできない自分に自分が耐えられないからだ。できることがないとき、無力を自覚しなければいけない。強くなければ、大切にしたいものは守れない。

自分を救うためにきみを救おうとするなら、何もしないことを選びたい。きみのためを思ってどれだけ考えたとしても、何もしないことがきみを信じることになるときもある。


きみから「わたしのためにしてくれて、ありがとう」と言われたかったことは一度もない。"あなたのために"から始まる言動をきみにしてもらいたいと思ったことも一度もない。

なぜなら、ぼくはもうすでに、きみとの日々からたくさんのものを汲み上げられているからだ。汲み上げたものは、上手く言葉にできないけど、目を閉じれば鮮明に思い出せるその日々は、これからもずっとぼくを支えてくれる。


きみとの日々を幸せに感じるには、自分で自分を幸せにする力が必要だと感じる。

一人でいるときに不幸せなぼくがきみのそばにいたら、きっときみを不幸せにする。きみとの日々を幸せなものにしたいから、自分で自分を幸せにできるようになるんだ。

誰もぼくの幸せのあり方を決められない、きみも昔の自分も周りの人も。ぼくの幸せを決める誰かがいたら、きっとその人との関わりは避けるだろう。

どんなことが起きようとも、確実に淡々と過ぎる日々に耐えうる、しなやかな幸せのあり方を自分で作り上げてなければいけない。それが自分に与えられた使命であり宿命だから。

いまのぼくは、きみとの日々から汲み上げたもので幸せに過ごしているよ。きみとの日々から汲み上げたもので、これからの自分の幸せのあり方を作り出せる。ぼくの幸せのあり方は、きみの幸せのあり方とは違った形だけど、違うからこそお互いに汲み上げられるものがある。

それぞれの幸せのあり方を持った二人が、それぞれの幸せのあり方からお互いに何かを汲み上げらたなら、それはきっと一人でいるよりも幸せなんだ。一人でも大丈夫だけど、二人ならもっと大丈夫なんだ。


最後まで読んでいただきありがとうございます。