1996年からの私〜第7回(00年)人生を変えた高山善廣の言葉
うまくいかないとき、人に原因を求めない
ミレニアムなんちゃらとみんなが浮かれていた2000年。年が明けても私は相変わらず低空飛行を続けていました。さらに追い討ちをかけるように3月末には、人事部長から嘱託社員の継続を告げられます。1年で正社員になれると聞いていたのに話が違う。そもそも人事部長が替わっていたので、そんな話はしてないと言われて終わり。いろんなことがなかなかうまくいかず、完全に腐りかけていました。
そんなとき、週プロで「21世紀の21人」という企画をやることになりました。これは来たる21世紀に向け、期待のかかる21選手をクローズアップし、21世紀のプロレス界、21世紀のプロレスラーに求められるものを聞くという企画。このなかで私は高山善廣選手(他に丸藤正道選手、山本喧一選手に聞いたと記憶)にインタビューをすることになりました。この高山選手への取材が私の人生を変えることになるのです。
しかし、この高山選手への取材の日、私は人生で唯一の寝坊を経験します。厳密に言うと寝坊ではなく、二度寝です。高山選手への単独取材は初めてで、広報の立ち会いもなく自宅近くの喫茶店で二人きりで話を聞くということで少し緊張していました。そのため、かなり早めに目覚ましを設定して起床。まだ時間があるからと布団の中でグダグダしていたら二度寝してしまったのです。
ふと目が覚めたときには待ち合わせギリギリの時間。飛び起きてヒゲも剃らずに出発しました。幸い?電車のダイヤが乱れていたため、「電車が遅れてるので待ち合わせに遅れそうです」と高山選手に電話。ウソではない。ただし、もっと早く出てれば問題なかった話。この寝坊話は、のちに親しくなってから高山選手本人に告白しました。
そんなバタバタのなかでの取材で、高山選手が21世紀のプロレスラーに求められることとして語った言葉が、鳴かず飛ばずだった私にグサリと突き刺さりました。
「一つのことを貫くのも美学かもしれないけど、これからのレスラーは何でもできる人間じゃないとダメだよね。あれはできるけど、これはできないなんて言ってたら、必要とされなくなるし、自分のやりたいことなんてできない。できないなら会社の言いなりになって奴隷になってでもしがみつくしかないんだよ。でも何でもできるレスラーなら、みんなから求められるから、会社の言いなりになる必要がない。会社の奴隷になりたくなかったら、何でもできるレスラーにならないといけない」
高山選手はこの言葉通り、この後、NOAHを経てフリーとなり、様々なリングで活躍してプロレス界の帝王と呼ばれる存在になっていきました。一方の私はというと、チャンスを与えられない、正社員にしてもらえないと、不満たらたらの低空飛行。高山選手の言葉は私個人に向けられたものではありませんが、この話を聞いて、自分が何でもできる人間じゃないから、何も与えられないことに気づかされました。できないから会社の奴隷になるのは当然。できない理由を全部何かのせいにしていたことを痛感させられたのです。
人間は誰しも自分が一番かわいいので、自分を正当化するために良くない原因を外部に求めます。人のせいにするのです。会社が悪い。学校が悪い。先生が悪い。アイツが悪い。政府が悪い。景気が悪い。天気が悪い。コロナが悪い…。原因は自分にあるのだから、何かのせいにして自分を守っていても何も解決しません。うまくいかないときは、誰かのせいにするのではなく、まずは自分に原因を求めると、意外とうまくいくことがあります。
この日から私は考え方を改めました。チャンスを与えられないなら、与えてもらうようにすればいい。与えられたページがたった1ページでも、他のスタッフがやらない写真の使い方をしたり、目を惹くコピーをつけたり、あるいは雑誌そのものを面白くする企画を日々考え、企画書を何枚も提出しました。目に見える成果は出なかったとしても、やっていることは無駄になりません。これがのちにすべて生きてくるのです。
全日本プロレス分裂、NOAHの旗揚げ
この高山選手の言葉と合わせて、私にとっての2000年の大きな出来事は全日本プロレスの分裂、NOAHの旗揚げです。団体が増えたことにより、単純に取材のチャンスが増えました。当時の週プロのエース記者で全日本プロレスの担当だった佐藤景さんが、全日本とNOAHを掛け持ちすることになるのですが、すべてを網羅することはできません。そこで、三沢さんをはじめ、NOAHに移籍した選手たちと良好な関係にあった私が、影のNOAH担当として取材や誌面作りをメインでおこなうことになりました。
三沢さんや小橋さんの取材は佐藤景さんが担当したものの、それに続く秋山準選手やノーフィアー、さらに丸藤正道選手、力皇猛選手といった期待の若手の取材は私が担当。試合リポートだけでなく、インタビューの担当も増え、1週間あたりの担当ページが多くなり、ようやく週プロの記者、編集者としてスタートラインに立てた気がしました。
話は前後しますが、NOAH旗揚げ前の7月、ディファ有明のこけら落としとなった全日本プロレスの大会を取材。このとき、会場でパソコンをカタカタと打ち続ける観客がいて、それがインターネット速報だということを聞きました。リアルタイムで速報をする時代になったら、週プロの武器である試合リポートの効果がうすれ、売り上げに大きな影響を及ぼすのではないか? そう考えた私は、この後、雑誌自体を面白くする企画、独自の特集を毎号誌面に取り入れることを編集長に提案しました。
現在も続く、「ちゃんこ特集」や「バレンタイン特集」、「闘撮」、大きな大会の展望特集といったものが、それです。中カラーの特集化は3年後の2003年に実現するのですが、この当時は、「週プロは試合リポートさえ載っていればいいんだ」という考えのスタッフが大多数であったため、あえなく却下されました。もちろん、私も試合リポートは大事だと思っていました。ただ、締め切りの都合上、中カラーは木曜日までの出来事しか掲載できず、ムダに前の週の古い試合にページを割いていたため、ここを有効活用したいと考えていたのです。誌面を有効に使う、雑誌を面白くするために知恵を絞り、手をかける…私の考え方は間違っていないことはのちに証明されるのですが、当時は何の実績もない若造であり、主張が通らなかったのはある意味当然でしょう。企画が通らず残念な気持ちはありました。しかしこのときの私には高山選手の言葉が胸にあったため、一度却下されたくらいでへこむこともなく、次々と企画を考えていきました。
意識を大きく変えたこと。そして誌面をつくる機会が増えたこと。これにより私自身が大きく変わることができたと思っています。そして翌2001年には、会社の奴隷にならない自分として、BBMに退社の意思表示をすることになるのです。
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?