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1996年からの私〜第9回(01~02年)編集長初体験。耳の不自由な方からの手紙

編集長体験で得た充実感

ベースボール・マガジン社の正社員となり、さらなるステップアップを目指す私に大きなチャンスがめぐってきます。競技を問わず、注目選手をクローズアップする「スポーツアルバム」シリーズというMOOKが発足。その中でNOAH旗揚げ後、一気にプロレス界のキーマンとなってきた秋山準選手のアルバムをつくることになりました。

NOAHの担当は佐藤景さんでしたが、秋山選手の取材は主に私が担当していました。当時の秋山選手は大黒柱の小橋選手が欠場するなか、NOAHのトップに立つべく、また新団体の名をプロレス界に広めていくために奮闘中。近寄り難い空気があり、試合後のコメントを求める際も、記者が的外れの質問をしようものなら、即取材打ち切りということもありました。

多くの記者が口々に「秋山は怖い」と言っていましたが、私はまったく苦手ではなく、インタビューなどでは、むしろ波長が合うと思っていました。そうしたこともあって、この丸々一冊秋山選手を特集するスポーツアルバムの編集長を任されることになったのです。

全体のページ構成を考え、自分以外のスタッフやライターが担当するページは、趣旨を説明して仕事の発注。丸ごと一冊秋山選手なので、過去の記録を調べたり、写真を引っ張り出してきたり、週刊と並行しながらなんとかつくりあげることができました。編集者としての引き出しもなければ、経験もない当時の私としては、精一杯やりましたが、今にしてみるとお世辞にも満足のいく出来とはほど遠いもの。ただ、一冊丸ごとつくることの大変さと充実感を味わったことが最大の収穫でした。

同年(発行は翌年)、再びスポーツアルバムの編集長を任されることになります。今度は世代の近い丸藤正道選手のスポーツアルバムです。一歩ずつでも進歩しなければ意味がありません。このときは前回の教訓を生かし、より知恵を絞り、少しは手応えのある内容にできたと思っています。

喜びこそが最大の報酬

この丸藤選手のスポーツアルバムが発売になった後、一人の読者の方から「スポーツアルバム編集部」宛の手紙が届きました。その方は耳が不自由で、テレビや音楽、友達との会話を楽しむことができず、写真や文章を楽しめる雑誌が一番の娯楽ですと綴っていました。「自分と同世代の丸藤選手のイキイキした姿がたくさん掲載されているこの本は宝物」と書いてくれていて、すごく幸せな気分になったことをはっきりと覚えています。

元々、編集記者の仕事を始めたのは、自分がやりたいことをやりたかったから。新人時代は好きなプロレスや格闘技を取材して、好きな原稿を書ければそれで満足でした。自分さえよければそれでいいという考えに変化をもたらしたのは、この出来事がきっかけです。自分がやっている仕事が、耳が不自由で大変な思いをしている方に、元気を与えることができていると知り、本来、仕事とは自分のためにやるものではなく、人のためにやるべきものなのではないかと考えるようになりました。人が喜んでくれる、ハッピーになってくれることこそが、最高の報酬であるということに気づいたのです。

自分だけのためにやって自分だけがハッピーでも、周りに喜んでくれる人がいなければ、それは本当の幸せではありません。逆に自分がどんなにきつい思いをしても、その結果、たくさんの人が喜び、幸せに感じてくれたら、苦労はすべて吹き飛び、自分自身も幸せな気持ちになれます。自分が発信するその先にたくさんの読者の方がいる。その方々に幸せを届けたい。そう思うようになってからは、徹夜が3〜4日続いても、理不尽なことがあっても、精神的にきついと思うことはなくなりました。現在は年をとって2~3日徹夜が続くとヘロヘロになり自分のためには頑張れませんが、協力してくれた方々、その先にいる方々のためだと思えば頑張れます。

2001年は2冊のMOOKで編集長を経験し、仕事にとって大事なことを知ることができた、とても有意義な1年でした。そして日韓ワールドカップが開催された2002年へ。このビッグイベントの影響が、私の身に及ぶことになるとは、このときはまだ知るよしもありませんでした。

つづく

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