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水曜日のひだまり vol.2 見ること

いつもは3階の息が詰まりそうな研究室にいるが、水曜日は朝から5階にいる。空が開けて、それだけでも気持ちがいい。
やってくる学生は1年生だ。そして、ここに入学するまでに散々描いてきたであろうデッサンの授業を受けに来る。だが趣旨は全く別のものだ。受験戦争に勝つためのそれではなく、すべて忘れてこれから作品作りの基礎になりうるためのデッサン。描くことよりも見ることが大切であるということを学ぶデッサン実習だった。
片足を引きずりながら現れた白髪のおじいさん先生を見て、学生は安心したように近くの友達とまた小声で談話し始める。
最初に渡されるのは、幾何形体の石膏だ。一見簡単だが、奥が深い。学生たちはこんなの簡単だとなめてかかっているが、その内、深みにはまっていく。固くて冷たい白い石膏は意外と難しい。描けば描くほど目がおかしくなっていく。先生が選んだのは正六面体と角錐、または球と円錐。そのどちらかを学生は選ぶ。シンプルであればあるほど難しい。
先生は言う。
「片目で見るのではなく、両目で見ること。」
一瞬教室が静かになる。まるで普段気にも留めていないが、これが厄介だ。片目で見れば左右、どちらかに偏ったとしてもクッキリと遠近をとらえることが出来る。言わば、平面的にとらえることが出来るから、少し描きやすくなる。でも、両目だと広がっていく。そのものが立体であることを両目の位置から捉えるからだ。左右どちらの面も薄っすらと視界に入る。遠近はボケていくから捉えにくい。でも、全てのものは立体であって平面ではない。それをしっかりとじっくりと両目で見て、広がっていく遠くをどこかで見極めて描かなければならない。
学生が描くデッサンは、とても上手かった。元々へたくその私は感心した。でも、受験の為のデッサンに蝕まれていた。たぶん、きちんと見て描いていない。見慣れた幾何形体は見なくてもうまく描ける。でも、それでは駄目だと次第に気づく。
やることも、描く形もとてもシンプルだが、難しい。私だってうまくは描けなかったし、今も下手だと思う。
でも、不思議と人の描いた絵だとだんだん見えてくる時がある。
見ることは、とても簡単で難しい。

先生と出かけた先で、先生の古い友人に出会った。
「君は、見えるものと見えないものと…どちらが『本当』だと思う?」
そう聞かれて、
「見えないもの…では?と思っています。」
と、すぐに答えた。学生の時から制作していた作品は、見えないところに『本当』があるのでは…ということを形にしようとしたものばかりだったからだ。私の中では当然の答えだった。
精神科の医者だというその先生の友人は、
「へえ。そうかぁ?ぼくは見えるものしか信じない!見えるものが全て!」
と言った。同意をされるかと疑わなかった若い私は、少し困って先生を見た。すると、くすりと笑ってこう言った。
「君をためしているんだよ。どちらも『本当』とちがう?」

今、あれから随分日が経って、同じ質問をされたら「見えるもの」と答えるだろうか。『本当』は、見えないものにあるのではないかと今でも思っているが、見えないものは見えるものに影を落としている。見えるものに、『本当』の何かしらの尻尾はある。だから正確には、見えていないから見えないのであって、見えないものにだけ『本当』があるとは言い切れない…。
深い!わけわからない!…そんなこと考えてたら、まだまだ、デッサン力が私には備わっていない気がした。
「君をためしているんだよ。どちらも『本当』とちがう?」
と、また先生に笑われそうだ。
どちらも『本当』なんだな…。それを見るんだ。見ることが大切。ただ見る。油断すると、良く見もしないで最初から決めつけて様々なものを見てしまう。何の決めつけもなく、ただ見ること。それで見えたものが『本当』。それで見えなかったものは、それも『本当』。
見えなかったのはデッサン力が足りないだけなんだ。

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