見出し画像

魅惑のクレープ・シュゼット

『クレープ・シュゼット』とは、今ではケーキ屋さんとして全国に名の知れた、ある喫茶店の伝統メニュー。

小さな私の五感を一斉に刺激した魅惑のデザート。

小さい頃、毎週のように週末になると祖母の家へ行っていた。母には祖母から援助してもらうというミッションがあったそうなのだが、幼い私や妹には週末の小旅行…そして、おばあちゃんに会える!楽しい時間でしかなかった。

父は設計士でその後独立をしたが、見習い期間が長すぎた。その間の母の苦労は計り知れない。母がプライドの高い人ということもあるだろうが、子供の私には、それほど貧しさは感じなかった。貧しくても悲壮感が生まれない創意工夫があったからだと思う。

その創意工夫の中に、お金の使い方がある。勿論、節約せざる負えない生活費の中で、やりくりするのは絶対だ。しかしその分、時間と労力を費やし、可愛い洋服を作ってくれたし、料理上手な母が作る料理は、安い食材でもどれもおいしく仕上がった。それだけでも十分悲壮感は生まれない理由ではあるが、母は極まれにではあったが、お金の余裕がないにも関わらず、特別な空間や雰囲気もプレゼントしてくれた。その一つが『クレープ・シュゼット』だ。

今はもう無くなってしまったが、駅に直結した百貨店の片隅に喫茶店があった。絨毯が敷き詰められた店内は、足音が響かず、厳かな雰囲気が漂っている。子供が簡単に足を踏み入れるような空気ではない。黒いスーツを着た少し年老いたウェイターさんに、奥のテーブル席へと案内される。大人たちがお喋りに花を咲かせている横をスーッと通り、私も妹も静かに席に着く。テーブルには紺と白のテーブルクロスが交差して敷かれ、白い陶器にブルーの花が散りばめられたシュガーポットや、シルバーのフォークやナイフが置かれている。

母は迷わず、三人で一つの『クレープ・シュゼット』を注文した。

しばらくすると、優しく微笑む先ほどのウェイターさんがワゴンを運んできた。何が始まるのかとワクワクいると、なんとここで『クレープ・シュゼット』を私たちの為に作ってくれるというのだ。特別な感じがした。ここからはもう、パフォーマンスを見に来たようだった。

ウェイターさんが実に手際よく、きれいな所作でクレープを焼いていく。さわやかなオレンジの香りがしてきたと思うと、今度はそのオレンジ果汁で煮たクレープにリキュールを注ぐ。すると、青い炎がふわっと立上る。

ジュワッという音と共に、オレンジの香りが深くなり、青く揺れる炎がきれいで、驚きと喜びと早く食べたい衝動と…色々な感情が一度にいっぱいになった。間違いなく、当時の私は『幸せ』を実感していたはずだ。一口食べれば、オレンジの香りが口いっぱいに広がり、鼻から抜けていく。オレンジの果汁を含んだクレープに更にトロトロとまろやかなソースが絡む。美味しい!美味しい!美味しい!

小さな私の初めての魅惑の味『クレープ・シュゼット』。

電車を待つ間のちょっとした時間を特別なものにしてくれた母に感謝。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?