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アーティストご夫妻岡田裕子&会田誠さん:クリエイティブ・ペアレンツのインタビュー第17回(第2弾)

岡田会田ご夫妻は、それぞれが独立してアーティストとして活躍されると同時に、プライベートだけでなくアート活動の中でもパートナーシップを持ち、協働を続けられています。また、息子さんも一緒に家族で結成したユニット「会田家」の活動と在り方も、アート界に一石を投じるもので、家族やパートナーシップを考えていくうえで多様な可能性を示しています。今回は、会田家の日本の学校教育に対して実感すること、それが都現美の“檄”の表現に成っていく過程、家族が示せる民主主義のベースを伝える大切さについてまで話していただきました。

O: 「私も実家がサラリーマン家庭なのでわかるのですが、お父さんは何をしているか子はよくわからないということ、あるじゃないですか。父親は会社で働いているので、家庭と仕事は別の場所ときっちり分けていて。家族の在り方は色々なのでそれはそれで良いと思うんです。でも我が家の場合は職場と家庭が全然分断できない。仕事も二人とも同じ業種ですし、結婚当初から共通の友人の若手アーティストやら関係者が、わいわいといっぱい家に訪ねてきたりしていました。私が海外で展覧会があった時は、やむおえずでもありますが、幼い息子を一緒に海外に連れて行って仕事。表も裏も全部子どもも一緒に居る、みたいに生活していたんですね。みんなに勧めるわけではないけれど、うちはそれで良かったかなと思いました。本人(子ども)には、それは良い面も悪い面もあるのだろうけれど、大人の刺激を小さい頃から受けていて、結果、美術に対する理解は自然に身についていきましたね。しかし現実とのギャップが彼には大きすぎたのか、最初は、小学校の生活が本当にうまくいかなくて・・・」

A: 「わかるけど、基本的にあれは生まれつきだよ。」

O: 「それはそうだね・・・。」

A: 「やっぱり幼稚園あがる前の保育園の時点から、集団に馴染めなかったし」

O: 「そうそう」

A: 「うちの教育方針とか、俺たちが美術家だからということでもないよ。」

O: 「ほぼほぼ、そうなんだよね。」

A:「生まれながら決められていた性格だよ。」

O:「小さい時から言われていたんだよね。児童心理士さんに、この子はちょっと違う、みたいに言われていて。同じ年齢の集団で対応すべきことと、彼の成長過程で頭の中で起こっていることの折り合いをつけるのが難しいというハンデを抱えていたので、社会・・・学校も社会ですし・・・集団行動に重きを置く社会と馴染んでいくのにすごく時がかかってしまった。小学校三年か四年ぐらいまで、校舎の中で普通学級ではないところ、特別支援学級というのがあるんですがそこに在籍していたり。そこでないと小学校という場にいられないということが続いたんですね。でも小四ぐらいからグッと社会性が発達した感触がありました。これは児童心理士さんからも彼の場合はそのように成長するのではないかと言われていて、結局その通りになったというか。小四とか小五で、小学校で集団とともに特に問題なく暮らすということができるようになってきて、今に至ります。それまでの時間がかかって、大変でしたけど。」

A:「僕自身が子どもの頃からそうだったし、多分治ってなくて、息子自身も治ってなくて、何か社会生活に欠落していることがいっぱいあるんですけど、僕も息子とはタイプが違うけれど、僕も治ってなくて」

O:「私も少しおかしいしね。」

A:「治ってなくても生きていけるのをこちらは知っているので、ま〜これくらい軽い軽いと。ADHDとか発達障害というかなんというかわかりませんが、これくらいならば社会人になれる、ということを自分の体験でわかっていたので自分はあまり(息子のことを)心配していなかったです。」

O:「子育てってすごい体験だと思いました。若い時は、自分が努力さえすればなんとかなると思っていた。例えば努力したらなんとかアーティストになれたし、努力したらきっとなんでも困難はクリアできると思っていたのです。でも、息子の小学校の時のこの学校不適応の体験は、悩みの日々で、どんなに努力しても自分が思うようには物事が良くならないということがあると身に染みました。努力も報われない日が延々と続くんだということがへこんだというか。でもそのような(実は当然な)ことを知らなかった自分を恥じたというか、人生勉強になったなと思いました。でも長い時間が経って今は、息子も生きることをうまく立派にやっていると思うし。良いところも引き出せたと思うので。時間がゆっくりと経ち、物事を大きな目で見て過ごすことが大事なんだとわかりました。こういうことは子どもと家族として暮らす事がなかったら、わからなかったと思います。」

—学校に合わないから変とか、みんなと同じでないから変というのは、とても日本的というか、MITの伊藤譲二さんとかフリースクールとかではもうなくてアン・スクールとまで話していて、学校に行ってることが学んでいるということで固められることは脳にとってとても危険だから、アン・スクールとかやっています。その中で社会性をどうするかは一つの課題かもしれませんが、学校というのは頭を一つの方向に固める場所でもあるので、自分が馴染めないということを出されていることは、実は自然なのかとも思います。これからAIが発達して多くの決まったことはAIがやっていけるようになると、人間はどこの部分をやっていけるでしょうか。人間は一つの物差しからはみ出たところ、アーティストが同じことしていたら価値にならないように、人間の価値もそうなっていくのではないかと思います。会田さんがおっしゃっているように、日本が経済的にも社会的にも低い方向に流れていて、先進国というのは一人当たりのGDPが世界30位までをいうそうですが、日本は現在27位だそうです。いまの子どもたちが大人になった頃、20年後には現在ある職業の80パーセントがなくなると言われている時代にどうするのでしょう。これをやってください、という一つの物差しが与えられてきてそのことに馴染んできた人たちが、AIがそのことをするようになった時にどうするんだろうと思います。だから寅次郎さんが馴染めないということは大事な点で、岡田さんがおっしゃっているように長い目で見れることはすごく大切で、親はすぐに明日の学校、今の今が大事になってくるのですが、岡田さんと会田さんが寅次郎さんの成長を長い目で見てこれたことは貴重ですよね。

お二人とも今の社会の状況がおかしいのではないかということを作品に取り込まれていると思うのですが、社会、世界、地球とそれぞれ同じではないのですが、先ほどお子さんがゼロからと話されていましたが、今後をどのように考えられていますか。

A:「あまり教育方針とか、立派に語れることはなくて。子どもを育てたというか一緒にいて確信を新たにしたことですが、基本的に生まれた時から子どもは性格とか性質とかかなり決定づけられて生まれてきているなという思いがあって。いわゆるDNAとかいうやつ遺伝子という意味で。こちらがこう育てばいいと思っていても、コントロールできるところは少ないという思いがあって。なので環境はなるべく本人にとって悪くはないという環境を整えておいて、あとは勝手に成長するのがいいと。あるいは家庭の外での影響、友達とか学校とかあるけれど。あいつ(寅次郎)だったらネットとか毎日のように触れているし、外からの僕らも知らない刺激で変わっていくのだろうけど、それらもコントロールはできないと思っていたんです。息子がもっと小学校居られないほど合わなければ、確かにフリースクールとかも考えられたかもしれないけれど。日本の学校にギリギリ通えるようなかたちもあったんで、あまりラディカルにはしなかったですね。日本社会に色々問題があり、日本の学校にも色々な問題があると思いつつ、何か日本社会からあまりに離れてしまうと、まあ今後長い人生まずいかなと僕はちょっと思っちゃって。やっぱり日本語でものは考えてるし、だから日本人という条件は付いて回るだろうから、というわけで僕はあまりラディカルじゃないんですよね。」

O:「日本の教育に関しては、本当に考えさせられます。それについては作品にもしてきたんですけど、教育に対する疑問とか問いとか。それはもちろん寅次郎が学校生活に苦労していた幼少期も背景にあって。私自身もそこから色々な気づきや違和感がありました。自分がちょっと変わった学校にいっていたからかもしれないんですけど、これが日本の公教育なんだと初めて実感したというか。子育てを通じて、やっぱり国は子どもや学生の教育や成長にもっと予算をつけて、子どもたちを日本社会が大事にしてほしいという強い思いがあります。もちろん十分な教育が行き届くように今だってやっているという意見もあるとは思いますが、私は日本の教育の現場への問題はしばしば感じた。例えば、40人近くの大人数のクラスを一人の担任が一手に担っているように思えます。これはもっと予算をつけて少人数にした方が良いに決まっています。これだけ子どもが大勢だと一律一斉指導でないとしっちゃかめっちゃかになってしまいますよね。そうするとどうしてもその型にはまらない子どもたちは、個性だよねと受け入れる余裕もないし、もっと辛い立場に追い込まれてしまうというか、居場所として難しくなってきてしまう。今、フリースクールなど公教育以外で過ごして学ぶという選択肢なども多少増えてきましたが、そうはいっても現実はなかなか環境もうまく整えられないケースも多いかと。不登校児も、ものすごい数いらっしゃると思う。もっとそういう子たちを包括的に支えられる、システムの多様性があって良いのではないかと思う。それは本当は全体にとっても豊かな育ての場になると思うんですね。少子化だし、生まれた子どもたちは、ますます社会みんなで大事にしていかないといけないと思うし。

そういえば、息子が幼い時に幼稚園や公園遊びを観察して思ったんですけど、自分のものと他人のもの、所有者をしっかりと分けて認識する躾は幼児から始まるんですね。このスコップはなに子ちゃんので、このバケツは私のだよ、とかね。「貸〜して」とかいえないと絶対にダメ。それは当たり前の社会のルールなんだけど、でも、本当は、みんなで遊ぶならみんなのものだね、でもいいよなと。社会の中での子どもの存在に例えれば、寅次郎は我が家の子だけど、でも社会の子でもあると思うんですよ。子どもが家庭に居る居ないもしばしば話のネタになりますが、一つの世帯に子が居ても居なくてもそれはその人のライフスタイルだからさまざまで良いと思うんですね。もちろん独身で暮らしている事だってある。ただ、どこかで生まれた子どもはその家族の大事な子でもあるけれど、社会全体にとってもすごく大事な子であるから「みんなの子」って思えるようになりたいなと。そういうのをもっと大事にできるシステムがあったら、公の子どもの支えかた、システムや予算ももっと配慮されていくのではないだろうか。

で、今の公立学校は充分に予算が確保されているかというと、決してそうは言えないと感じました。うちみたいに集団行動の苦手な性質のある子どもを抱えていると、小学校の先生の愚痴を聞く場面が多かったんですよ。オタクのお子さんのおかげで困ってますという話で学校に呼び出されたりとかするから。担任の先生が、うちの子のせいで自分がどれだけ1日過ごすのが大変かを語るんです。大勢を1人でみているから目が離せない、いうことを聞かない、落ち着かない子がいると集団が乱れる、気も休まらない、私は休み時間にトイレに行く暇もないんですよと。なんかそれを、こちらも、申し訳ないですと言いながらうんうんと聞いたりとかするんですけど。で、やっぱり先生たちは、あんまりいい待遇じゃないところで仕事をしているなとも同時に感じたりしました。そういう環境自体改善しないといけないんじゃないかなと思います。これはほんの一例ですが、子育ての現場への理解とそれに対する予算、大事だなと思います。」

− 現美で開催された第3回目の会田家は、寅次郎さんがそれまでの2回とは違って10代の微妙な時期であったと思います。私も息子たちが10代の時は、大変で海外で仕事に出た時、同じ年頃の子どもを持っている人には、どんな様子か、聞いていました。その多くが大変で苦労しているという返事でした。

O:あの時は、夏の子ども展の企画として、会田家で展示をどうですか、というお話だったのでした。基本的には展示室一つを使って、基本的には自分たちで何をするかを自由に決めて良いという提案だったんですよ。で、さっきも話したように<教育>をテーマに展示しようとなりまして。私はその頃、千葉大学WiCANとも<教育>をテーマにしたアートプロジェクト「教育×アート=?」などを一緒にやったり、若手のダンサーと映像作品「EXERCISES」を制作していました。これらの教育をテーマにした作品というものは、一般的にはアートとして評価されるのが難しいのかもしれないよ会田さんから議論の中で言われたこともありました。しかし現代美術館の「おとなもこどもも考えるーここはだれの場所?」への参加の際は会田さんの方から、会田家で話が来たんだし、岡田さんが長年追っていた<教育>をテーマにした展示にしてみようよ、と提案があって、じゃあそれでやってみようかと。」

[千葉大学WiCANの活動,「レディオ栄町2057」栄町通商店街にあるアートセンターWi-CANにて、50年後の日本のラジオを制作、実際にアートセンターにラジオブース設置と展示発表をし、ここから商店街に放送も行った(2007年)]

[「EXERCISES」( 2014 年), 岡田裕子, シングルチャンネル・ビデオ( 8分 48 秒) Single channel video (8 min. 48 sec.), 日本のラジオ体操のパロディー。 ストレスフルな社会に打ち勝つための オリジナル体操を考案した。, ©︎OKADA Hiroko]

A:「でも展示物は3人それぞれの個人で制作した作品が色々とあったと思うのですけれど、真ん中に“檄”というのをぶら下げた、あれだけが3人の共同作品だった。会場の真ん中に何か会田家としての象徴的な作品が必要だなと思っていて。息子にどうしようかと聞いたら、彼は当時川崎市の公立の中学校に通っていたんですけど、まっ、御多分にもれず普通のことですが、学校への不満をタラタラと言っている時期でした。他の生徒も様々な不満はあると。で、息子が、都現美では何かそういうことを作品で表現したいと言ったんです。でも、実在の川崎なんとか公立中学の先生に対して文句言うとかは違うだろうと思って、それは、学校教育の総本山の文部科学省に文句を言うのが一番根本的かと思って。じゃー文科省への文句をみんなでどんと作ろうと言うような流れでした。」

O:「だから一番最初は“檄”としてではなく、原案があって、中学の友達からいっぱい学校についてのアンケートを取ったりして、何を現場で子どもたちが考えているかを作品にしようかなみたいなこと寅次郎が言っていたんです。でも、そこから、会田さんが、三島由紀夫の“檄”は知ってるか?それ風で3人で書こうよと言い出して。文章の内容は、中学生たちからアンケートをとることはしなかったけれど、中学生が学校生活について考えているようなことを断片的に日々メモを取ったりしてました。それらメモが集まったいっぱいのバラバラの文章をシャッフルして檄文にしたんだよね。」

A:「ただあれは、僕から言うと“檄”に書かれた文章が何か素晴らしい内容とか言うよりは、こんな、いちファミリーの不満を、こんな風に大きく書いて見せてもいいんだよと、民主主義のサンプルのスタイルを見て欲しかったみたいなものなんです。内容は、特に穿った意見があるわけではないんですね、あれは。」

O:「うん。でも展示したらなんか大騒ぎになっちゃって」

[会田家, 檄, 2015, 布、墨, 509.2×180cm, 撮影:宮島径, ©︎AIDA Family]

− それだけ日本の社会がおかしいと言うか、民主主義で発言すると言うこと、違う発言をすると言うことにものすごくセンシティブになっているというか、これを恐ろしいなと感じていますけど。会田さんは一人で話して回るサラリーマンはいらないと言うようなこともされてましたよね

A:「一人デモマシーン。素朴な作品です。」

一人が発言することが大事にされていくと言うことが、子どもを大事にすることにつながっていくのかなと岡田さんの話から思いました。そして会田さんが、お子さんとも一緒にそれを家族3人で発言しようと言うこと。それは今大事なことで、それができなくなっている社会を恐ろしいと日々感じています。何か発言したらひどいことが返ってくるのではないかと思ったり、facebookのイイねとかツイッターを押すだけでも考えてしまうほど社会というか権力が迫っているなということすごく感じます。若手アーティストもセッティングされたところに乗っかることが多いから、表現にここまででやめておこうというのが見えるものが多かったりするのですが、そんな中で岡田さんと会田さんが大事なことはきっちりされていて、それもユーモアを持ちながら、ピリリとくることもありながら、それを言える人がアーティストの中でも少なくなっているなと感じています。それは小さい時からそうなるようにされていて、大学生になると言わないほうが良いかもと言うことが70〜80パーセントあるのかなという事を美大でも感じます。“檄”と言うのが内容もそうですが、言いたいことがあったらいってみようというのが一番生きていく上での根本なのかなと思います。

− 会田家3人で“檄”を作る時は、色々な言葉を交わしたんですか?

A:「そこそこ、夕食を食べながら、雑談風にしたけれど。そのアイデアを練ってる頃は、だんだん迫ってきた都現美の展示どうするという、それがだいたい家族の食卓の会話だった気がします。」

− その会話の中で3人の意見が何か違ったりしましたか?それともそんなこと考えているのかとお互い納得してしまう感じですか?

A:「まず妻と僕の作品は、別々で発表しているものなので、家族展に相応しいもののチョイスはしました。それらはソロ活動という感じで、お互いに勝手にやるという感じです。息子の作品をどうするかというのと、家族3人で作るものをどうするか、ぐらいが食卓の議題でしたけれど。」

O:「ただ“檄”に関しては、あれは一つの文章になっているように見えるんですけど、実はいっていることはちぐはぐなんだよね。思いついたままに考えたメモを、コラージュしているんですよね。だからよく文章を読むとわかると思うのですけど、全体に整合性があまりない。」

A:「考えを合わせてはない。」

O:「それぞれ3人から出た意見があって、対立した意見も並べて書いちゃってるんです。心一つにして考え方を合わせようというのはしていない。もともと我が家にそういうのが無いんですけど。だから私たちは選挙で誰に投票したとかお互いに言わないよね。一緒に投票には行くけど家族の中でも誰に投票したかは言ってはいけないという会田さんの教えによる会田家ルールがあるので。」

− それぞれで考えるというのが基本なんですね

O:「でも考えが似てたりすることは多いかも」

− お子さんが18歳になられて、お子さんがいることが自分に取ってどういうことだったか、その道のりは自分に取ってどうだったと思われていますか?

O:「わたし的には、本当に良かったなと思っています。あまり昔のことを後悔することは性格的にもないんです。もちろん子どもがいなかったら、あんな時にあんなことも、こんなこともできたし、キャリアアップできたかもしれないと想像することもあるのですけど。良かったことー自分の中で勉強になったこととか、良い敬虔だったなあとかーしかあんまり考えない。子育て上の反省は色々ありますけど。

子どもが産まれて何年かは焦ってたと思う。女性アーティストは子どもを産んでも続けられるのよということを示さなければという気持ちが先に立っていたので、一生懸命やりすぎたかもしれないとか。今になると思うのは、当時もっとのんびりしてればよかったかもなとか。子どもが小さい時ってすごく幸せな時間のはずなのに、バタバタしちゃって、のんびりした気持ちを持つ余裕があれば、子どもと向き合った子育て時間をもっと大切にできたかもとか。そういう振り返りはありますけど、息子も19歳で、とりあえず大きく育ってよかったな、ホッとしちゃったような気分。みなさんも子どもを育てているとあると思いますが、何度も悩みや大変なこともありますが、それも込みでなんとか育って良かったな〜というような。

子どもが大きくなると、色々な昔のことを忘れてしまうんですよね。私の場合、当時作品に残したりはしていましたけれど。でも、大変だったことって過去のことになると忘れてしまうから、だから教育問題の解決が進んで来ないのかな、とも。子どもの家族って<教育>について切実に考えている人がたくさんいると思うんですけど、疑問や問題点に気づきがあっても、子育ては忙しすぎて、上手く声を上げたりすぐに動いたりする時間がなくて、行動ができない。子どもが大きくなると、子育て終了みたいな結果オーライみたいな感じで、終わっちゃって、根本的な解決に社会のために動いてみたいという熱も失われてしまうのかも。自分自身にもそういう部分があります。社会がもっとこうだったら子どもたちにも、より良かったはずだという当時の思いを、今後も忘れないようにしなきゃなと思います。」

− こうだったら良いと思うことを一つ話してもらえますか?

O:「やっぱりすごくストレスが溜まっている感じがするんですよね。小・中・高校とありますが、特に中学などの子たちが。これは、寅次郎が言ってたんですが、公立中学の職員室が地獄みたいな雰囲気で、先生も顔色悪いし「僕たちに不幸を感染さないでくれ!」って愚痴を言ってました。それって先生たちが悪いのではなくて、なんか職場環境の問題なんだと思うんですよね。学校に行きたくなくなっちゃう子の気持ちもわかるし、先生もどんどん鬱になって居なくなっちゃうし。まずは先生も、もう少し働くことが快適な場所にできたら良いんじゃないかな。」

− どうしたら良いのですかね?会田さんとか一人学校にいたら、学校に行きたくなくなってしまった子たちも行きたくなるのでは。岡田さんがご飯作ってくれてたりしたら・・・

O:「校長先生が変わったら学校の雰囲気は変わるって思ったことはあります。校長先生がゆるくて優しい雰囲気の学校に転校したら、生徒も先生も穏やかだったりってことはありました。」

− 会田さんが校長先生やったら

O:「会田さんの家系は、もともと教師が多いんですよ。お父さんも新潟大学の教授で、お母さんも高校の理科の先生だし、親戚も地元の校長先生だったり。」

A:「美大で四年ほど非常勤やりましたけど、やってみて僕は全然向いていないといいますか。生徒にいい影響も職場を改革することもできず、これはダメだと思って逃げてきました。」

O:「会田さんは最近はお断りしてしまってるものね。美大の教授職のお話を」

A:「教育は、やはり難しいです。」

− 学校という枠の中でするのは難しい、限りができてしまいますから

— イリイチが唱える脱学校社会に興味があるのですが、会田さんが枠のないところで若手と関わっていたら、アーティストが続けて行く勇気や感性を渡されると思います。ダンボールで一緒に作品を作っていたりする機会の方が人にとっての気づきや変わるきっかけになったりして。社会のシステムのルールで学校という言い方されてますけど、生きる上での宝がどこかに埋め込まれるには、システムでないところが大事なのではないでしょうか。会田さんが学校のシステムに乗っかっていたたらどうなのか、と思ったりしますが、岡田さんのように社会とのバランスを取りながら多摩美できっちり教えてられて、そこで出会った人たちが岡田さんを通して会田さんに出会って、育っているアーティストが見えたりします。

[会田誠+21st Century Cardboard Guild, 「MONUMENT FOR NOTHING II」, (2008年~), 制作風景:「会田誠展 世界遺産への道!!~会いにいけるアーティストAMK48歳」鹿児島県霧島アートの森、2014, (c) AIDA Makoto+21st Century Cardboard Guild, Courtesy of Mizuma Art Gallery]


(第3弾につづく)

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"連載『クリエイティブ・ペアレントへのインタビュー』シリーズ"

子どもがクリエイティブに生きるには、

クリエイティブな生き様に触れることが一番です。

しかし、これは子育てだけでなく、

わたしたち、親やすべての世代のひとに言えることです。

クリエイティブな生き様にふれることで、

こんな道、こんな生き方があるんだ

と励まされたり、確信をつよめてさらに自分の道を歩いていけます。

このnoteでは週末を中心に、いろいろなクリエイティブ・ペアレントの方のインタビューを連載しています。




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