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82年後の12月8日に

2023年12月8日。
東京は晴天。12月というのに最高気温は20℃近い暖かさ。
今年は紅葉も落葉も遅めの印象。
まだ楓が色付ききっていないけれど、日頃散歩する公園でやはり深紅の美しい色が目に留まる。

ふと見上げると、穏やかな夕陽。
広場からは子どもたちが駆け回って楽しそうに遊んでいる声が聞こえる。
ベビーカーを押しつつ、ヨチヨチ歩きの子どもと手を繋いで歩くお母さん。

何て幸せな空間が広がっているのだろう。
この幸せな空間をまた来年も変わらずに感じることが出来るのだろうか。


82年前の12月8日未明、太平洋戦争が始まった。
真珠湾攻撃があった事実の方が知られているけれど、その数時間前、マレー半島での上陸作戦が展開され、その2ヶ月後にはシンガポール陥落。更にはインパール作戦の展開…と日本はマレー上陸作戦から3年8ヶ月に亘り、泥沼の戦争を東南アジア一帯で繰り広げることとなる。

私の祖母は昔から、戦争の体験をよく話してくれる人だったので、12月の初旬になると「真珠湾攻撃があってね…」という話から始まり、「戦争なんていいことは一つもない。絶対しちゃいけない。」とひとしきり話して聞かせてくれるのが常だった。

祖母の戦争体験は日本人としての視点から語られるものだったけれど、その後、ミャンマーやマレーシアで暮らす機会をたまたま得た。
そして、彼の地で戦時中どのようなことが起きていたのか、日本側の視点だけではなく、日本の歴史の授業では殆ど教わることのない、日本軍による残虐な行為の数々や統治の実態、そして結果として多くの命が犠牲になってしまったことなど、侵略された側の東南アジアの人々にとっての出来事も少しずつ知るようになった。

現地で過ごしてみると、身にまとわりつくじめっとした空気の中で、何とも言えない当時の人々の筆舌に尽くし難い苦しい日々が実感を伴って僅かながらにも想像できるようになってきた。
人種という垣根を越えて、熱帯雨林の中に放り出された人々はどんな日々を過ごしていたのだろう、戦時中どんな理不尽なことがあったのだろう、どんな想いで命を落としていったのだろう…と想いを巡らすようになった。

その後日本に戻ってから、両家の祖父が大戦中どのような境遇にあったのかを知る機会があった。
父方の祖父は徴兵され一時期南方に赴いていたが、終戦前に病気のため日本に戻っていた。
母方の祖父は終戦間際に予科練生で、もう少し長引けば特攻隊として出撃していたかもしれなかったらしい。
父も母も戦後の生まれなので、両家の祖父が大戦中亡くなってしまっていたら、父も母も、そして私も生まれていない。

大戦から80年近く経ったこの21世紀に、今、私が生きていられるのは、本当に偶然で、多大なる犠牲の上に、戦争のない世を作っていこう、と戦後の日本が歩んできたからに他ならないことも実感するようになった。

東南アジアでの生活を経てから、大きな命の繋がりの中で生きていることに感謝し、手を合わせることを12月8日にはするようにしている。


今日、新聞を開いてみても、テレビを見ていても、太平洋戦争に関する報道が少なく、自らインターネットで記事を探さなければ中々目に入ってこない状況だった。

太平洋戦争はどんどんと遠い過去の出来事となりつつあるけれど、あなたの命はどこからやってきたのでしょうか?
お祖父さん、ひいお祖父さんの世代は確実に戦争の時代を生きていたはず。

12月8日がこれからも、自らの命がどこからやってきたのか、そして、今私たちが生きている奇跡に感謝し、ご先祖様に想いを馳せる日であったら良いな、という願いを込めて、太平洋戦争開戦から82年後の今日の出来事を記録します。

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