見出し画像

男性が忘れていること、いや、覚えていること

先日、図書館で仕事をしていた時の話。

ノートパソコンなどを持ち込める電子機器席は比較的空いていて、私は一番端の席で仕事をしていた。図書館なので飲食禁止。ふたの閉まる入れ物での水分補給はかろうじてOK。おやつなどしたい時は、席を立って外に行く。

夕刻が迫り、さらに人は減ってくる。すると何を思ったか、私の隣の席の中年男性が何やら食べ始めた。袋に手を突っ込み、口に突っ込んではまた取りに行く。チーズの香りが漂ってくる。

冗談じゃない。ここは図書館だ。

しかし、ここで私は声をかけられない。注意などできない。相手は男性。図書館で堂々とお菓子を食べるような男性だ。注意したら怒り出すかもしれない。明確に怒り出さないまでも舌打ちや睨むくらいはするだろう。

受付にいる職員に注意してもらうか。でも、私が席を離れて、しばらくしたら職員が注意しに来るわけだ。私が教えたと察して、「おまえ、チクったな」とキレられないだろうか。

ここで、私は気づく。彼の向こう隣の席がすべて空席であることに。近くにいるのは私だけ。隣にいるのは女の私だけ。

これがもし、私の席にいるのが男性であったならば、彼はお菓子を食べただろうか。堂々とチーズの香りを漂わせただろうか。女なら睨めばよい、怒ればよいと考えてはいないだろうか。そもそも、女ならば怖くて注意できないだろうとなめられてはいないだろうか。

考えるにつれて、胃がむかむかしてきた。考え終わる頃には腸が煮えくり返っていた。

最近いろいろあり過ぎる。痴漢やレイプ、セクハラの告発と、それに対するくだらない言い訳と、理不尽すぎるバッシングとプレッシャー。ここまででいっぱいいっぱいだったのに、医学部の点数問題まで。

#metooは燃え広がる 。この火は消えないだろう。

しかし、この火に対抗して炊かれた炎はさらに大きく、告発者にとどまらず、似た経験をさせられた大勢の女性たちの心を焼いている。やけどの痛みはひり付いてなかなか治らない。性被害の経験者は、性被害の事実だけでなく、告発した時の痛み、告発してくれた他者の痛みまで背負っていかねばならない。

私の心も相当にひり付いていて、小さな出来事にも「もし私が女でなかったら?」「これは私が女だから?」と考えさせられる。そのたびにやけどの跡には新しい痛みが走る。

図書館でお菓子を食べた彼に、私は結局何もできなかった。自分の大好きな大切な空間である図書館が汚されようとしているのに、私は何もできなかった。

お菓子を食べ終わった彼は、本棚へ本を返しに行った。お菓子をつまんだ手をズボンに何度も拭いながら。(我が家の子どもたちは、図書館に入る前にトイレで手を洗っていく。食べたか食べないかに関わらず。)汚らしくて、さらに腸がよじれる。

先日、どこかの駅で、女性車掌が殴られた事件があった。詳しくは知らないが、殴った男性は、相手が男性車掌であっても殴っただろうか。女だから、抵抗できないだろうと踏んで、殴ったのではないだろうか。

男性は忘れている。かつて自分が小さかったことを。小さかった頃の無力さを。小さいが故の恐怖を。見上げるほどの体格差がどれほどの力を持つのかを。だから、女性が日常的に感じる無力感とその悔しさを理解することができない。

いや、覚えていて、今や大きくなった自分の体格を利用して、周囲を威圧し、恐怖させ、物事を意のまま操ろうとしている者もいるだろう。それとも、覚えていることで女性の無力感と悔しさを理解できる男性もいるのだろうか。

中学生になり、母の私の体格に近づいて来た息子たちに、私は言う。「小さかった時の怖さを覚えていなさい。大きなこの人は自分になんだってできてしまうと感じた恐怖を覚えていなさい。子どもと女性の無力感を支えてあげられるようになりなさい」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?