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絵のままの絵で

ある審査での短い講評。絵の技術面に対しての評価は悪くなかったけれど、「言葉による説明がもっと欲しい。」との趣旨の言葉が繰り返し書いてあって、ちょっと残念に思った。プロの、絵を扱う人が、そんなにも言葉を必要とすることに。

アメリカ屈指の美術評論家、ジョン・キャナディ氏は、生前、「絵には作品名がない方がいい。作品名があると、見る側がそれに左右されてしまう。自分の目で判断しているので、僕は展覧会へ行っても、作品名はみない」と言っていたそう。ギャラリーからの説明も受けない(自分の判断が鈍るかもしれないから)、作家本人に会うこともしない(情が移るかもしれないから)。自らを律した厳しい目で作品をみて、批評をしていたとある本で読んだ。

私もそんなふうに絵を見て欲しかったな、と思った。一般の人じゃない、プロのキュレーターなら尚更、言葉に頼ることなく、自分自身の目で、そして画面に対して真摯に向き合って、きちんと絵に対して意見をして欲しかった。

以前入選したコンペのレセプションで、絵に対する自身の言葉を述べる一幕があったのだが、票を入れてくれた審査員の方が、「審査の時、絵しか見ていなかったから、タイトルや言葉を聞いて驚いた」と言っていたのを思い出した。そうだったんだ、と私もびっくりしたけれど、それを聞いてとても嬉しかった。

文章を書くことは好きなので、説明しろと言われれば、いくらでも書いてしまうと思う。でも、絵の全てを説明しようと思ったら、どこかで嘘をつくことになる。辻褄を合わせるために。説得力を出すために。その絵に付加価値をつけるために。

心から自然に出てきたテーマが溢れ出すこともある。気持ちを全部絵にのせて、それでも言い足りないこともある。でもそれ以外で私はできるだけ絵を説明することをしたくない。絵のままの絵で勝負したいし、絵をこれからもずっと、純粋に大好きでいたいのだ。

もし今度美術館やギャラリーで絵を見る機会があったら。プロフィールやタイトル、説明書きを見る前に、ただそこにある絵と向き合ってほしい、感じて欲しい、想像してほしい、だれの意見も聞かず、自分の感じる感覚に身を委ねてみてほしい。歌詞のないメロディーを、ただ聴くときみたいに。

それでも、本当に何も感じないと思ったら、その絵にそれだけの魅力がないのだと思う。その判断を大切にしてほしいし、その時に少しでも何かを感じてもらえる絵を、私は描きたい。

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