幸せの見えかた

久しぶりに映画館で映画を観た。

観たかったやつがリバイバル上映すると知り、今度こそ観にいこうと決めていた。
Netflixでも観れるのかもしれないけれど、これは映画館で観たかった。

主人公の毎日を描いているだけなのに、なんだかじーんときた。

主人公の家にはお風呂がないらしく、銭湯に行っていた。
東京の銭湯。
スカイツリーが近くに見えるくらいのところ。


あー、この感じだったなぁ。東京の銭湯。
昔を思い出した。

「そういえば、あの頃お風呂なかったんだった。」


はじめて自分のお金で借りた部屋にはお風呂がなかった。
”風呂なし、トイレ共同”ってやつ。

ほぼ毎日、住宅街の中にある銭湯に通っていた。
365円とかだった気がする。
違ったかな。

恵比寿駅の東口を出る。

会社帰りに行く時は、恵比寿駅東口を出た裏道にあるところ。
スーパーにも寄れて便利だけど、終わるのが早い。

帰りが遅くなった時はガーデンプレイスの方にある銭湯。
住宅街の中。
こっちの方がちょっとだけ遅くまでやっていて、遅くなった時はこっち。


当時、アパレルブランドで働いていたから、
展示会の前とかはどちらにも絶対間に合わなかった。

他にも、
税務調査とか、決算とか、
賞与とか、
日常業務以外のことが起こった時もお風呂に間に合わず、
台所で体を洗ったっけ。

あと、飲み会。
仕事の付き合いでの飲み会や、
社長がそこそこ有名なDJなもんだから、
会社主催でクラブでイベントとかやっちゃってまぢ迷惑だった。

私の風呂どうしてくれるんだ。と思いつつも、
あの頃の私はいろんなことを感じる能力が乏しくて、
本当のところ自分がどう感じていたか、
実はあんまり記憶にない。


というか、
実感がない。


”今思えば”
という言葉で語ることはできるが、
感情としての実感はなく、
自分が犠牲になることも当たり前に受け入れていた気がする。



お風呂のためにも私はけっこうなことをしたな。

彼の家はその最たるものだった。
喧嘩するとお風呂に入れなくて困った。

あれからもう25年以上たっているなんてびっくりだ。



銭湯に行くと、
決まっておんなじ人たちが来ていて、
20代らしき人は私一人だった。
もちろん、10代らしき人もいなくて、私が最年少な感じ。

その中に毎回会う40代であろう女性がいて、
この人独り暮らしなんだろうな。と勝手に想像していた。

髪型がクルクルパーマで印象的だったので、
あだ名をつけていたわけではないが、
私の中の”あの人”は
”パーマの人”となっていた。


その人には、常連さんで仲良しの同世代も何人かいた。
どうも職場が同じらしく、
時々「〇〇さんが〜」「そうよね〜」とか話しているのが聞こえてきた。


その頃の私は、
社会性とか、愛想とか、
そういったスキルを持ち合わせていなくて、
その人たちと話をしたことはもちろん、挨拶さえしたことがない。


正直に言うと、
なんとなく、彼女たちを”惨めな人”のように見ていた。


そして、
こんな風に思っていた。


”私の40代はこうなりたくない。”


独りで住んで
銭湯に来なくちゃいけなくて

頼れるパートナーがいなくて
独りで孤独に生きている。

毎日が幸せじゃない。



なんにも知りもしない、
他人の人生を勝手に評価していた。


そんな風に見ていたのは、その時の私が孤独だったからなのだろう。
今ならそれがわかる。



私はよく日帰り温泉に行く。

山間にあるその温泉は露天風呂もあって、
外に出ると電車の近づく音が聞こえる時がある。
見上げると、山の中を2両の電車が通っていく。


「のどかやな〜」

お風呂に浸かると
「あ”〜しあわぜ〜」と声が漏れる。

隣に入っているマダムと目が合う。

お互いにっこり笑って
「気持ちいいですね〜。」

「お風呂は幸せよね。」

「ほんとに。」

見ず知らずのマダムたちと会話が弾む。

どこに住んでいるのか聞かれたり、
孫の話とか、
亡くなった旦那さんの話とか聞くこともある。


そんな話をしながら、
「お風呂は幸せね〜」と
お互い何度も口にする。


幸せ。

こういうのが幸せ。


お家にお風呂はあるけれど、
頼れるパートナーはいなくて
猫はいるけど、
人間は一人で住んでいて

特段キラキラした生活ではない。
自慢するような出来事も起こらない。

淡々と、
ただ淡々と日常を生きている。


でも、幸せ。

私のこと、好きだ。


今の私が
あの時の”パーマの人”を見たら、
きっとこう思うのではないか。

”幸せそう”


あ、今日もきている。

お仕事終わって、
同僚とポップに愚痴を言って笑い話にして、
そうやってまた笑って明日を迎えるんだな。

楽しそう。


同じ人との同じルーティン。
同じ笑顔。
同じ笑い声。


今の私にはきっと、
”日常”
が美しく見えるだろう。



なんにもない日常が
かけがえなのない幸せだと知るまでにはたくさんの時間がかかった。

あの頃の私は、
大切なものがなんにも見えていなくて
幸せというものがまったくわかっていなくて

なんにも知らないのに、
一丁前に人生語って、

人より苦労してます、
あなたたちとは違うのよ、って顔をしていた。
(と思う。)

銭湯のシーンは、
そんな未熟な私を思い出させた。

恥ずかしくて胸がチクリとした。


今なら
”パーマの人”
に、笑顔で挨拶をして
「今日もお疲れさまでした。」
と頭を下げるだろう。

きっと、
お互いにっこり笑って、
「今日もお風呂は気持ちいいですね〜」
と言って笑い合う。

そして、
「明日もがんばりましょ〜」
と笑顔で別れる。


彼女はどうしているだろう。

今は私が山間の温泉で話すマダムたちと同じくらいの歳だろうか。


もう一度彼女に会いたいと思った。

きっと私のことなんて覚えていないだろう。


今も、
彼女が幸せでありますように。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?