ドラマチック


友人とお酒を飲んだ。久しぶりに会う友達が漫画みたいな歳の取り方をしていると嘘みたいで笑えてきてしまう。歳をとるにつれみんな顔つきや表情の作り方、物事の捉え方、果ては髪型や服装の好みまで年相応に変わるものかと面白くなる。特にツーブロックでシチサンに分けた髪をワックスで遊ばせていようもんなら爆笑である。男性の方が社会に出てオシャレを好きになる人が多い気がしているので尚更だ。本当は女性でも面白いことはあるけれど、具体例があまりにも具体的なのでここでは置いておく。

笑ってしまうのは嬉しくもあるからで、そうなっても私と話してくれるという事実によって生まれる気持ちである。変わっているのに変わらないという矛盾と同一性に安心してしまう。出会った頃の私たちが失われていないのは貴重ということを知ったからかもしれない。こう書くと、私も多少は大人に変化しているのだなあと思う。人と会うことはすごいことだ。

大人なので、大抵お酒を交わしながら話す。ビールの美味しい季節で、壊れたエアコンの下炭酸の痛みを感じながら飲み下すと、どうしようもなくうまい。筆舌に尽くしがたいとはまさにこのことである。嬉しさにニヤつきながら話をする。今回会った友人はいわゆるエリートであり、本人も自分の人生にそんなに不満がないのが悩みだと語っていた。フラフラ不安定に生きている私はそんな友人に嫉妬しながら、なんだか王道漫画の主人公みたいねと話を返した。だって、上手くいきすぎるというのもある意味ドラマでしょう。対して私の軸のない人生の話をすれば、彼はドラマみたいだと呟くのだ。一般に、他人の人生とは文字通り劇的なものなのだろう。人と交流するのはお互いの「劇的」な人生を字義通り承認し合うためなのかもしれない。

とはいえ、交わされる言葉のほとんどは現実的な話題に関することだ。仕事で面白かったこととか、どこどこの夫婦が家を買うだとか子供を産むとか、彼女との結婚を考えているとか、逆に今から結婚相手を探すのって難しいねとか、仕事を変えようと思うとか、年相応な他愛もない話である。仰々しい話ばかりし始めたら友人関係は破綻するのではなかろうか。そもそも飲みながら真剣な話ばかりしてはいられない。常に丁寧で明確なのはカード会社の決裁報告ぐらいで十分である。意識も話題も曖昧で良いのだ。朦朧としつつ半分ニヤニヤしながら与太話をするために私は人と会っている。

一方で話題そのものは具体的事実とオカルティックなものに分類されることが多く、限られると感じている。前者は上述のようなもので、後者は占いや運命の出会いなどについてである。流石に運命の出会いについて論じる人は限りなく少ないが、占いというコンテンツの話題性については驚きを禁じ得ない。人生史上ものすごい追い上げようである。多分、仕事という限りなくシビアで現実的なことが人生の中心になっていくのに対して、占いという限りなく曖昧で感性的なものを心の盾として持っておくことが今を生きることを保証してくれるようになるのだろう。神社仏閣を訪れるのもその一つかもしれない。現実と異世界のバランスなのだ。私は軸もなく曖昧な生活をしているので、多分本当に他人事として話を聞くことができるんだと思う。現に恋人との生活や結婚について話してくれる人が多いのだから面白い。今後とも個人を特定するような情報は漏らさないつもりなのでガシガシ話してもらって構わない。これは友人各位への私信である。平均より観劇は好きなので、観客になるのは得意なのだ。

というわけで酩酊しながら友人と談笑していた。10年近くの仲のためお互いの交友関係も重なったり、まあ少し詳細に分かっていたりする。いわゆる勝手知ったる仲という感じで、お笑いやマッチングアプリの話などしてガハハと笑うわけである。昔よりも気持ち表情が明るくなった彼を見て私は元気で何よりと思い、彼は私の絵が上手くなった(けど色付きの絵は相変わらず奇妙でよくわからない)という話をした。そしてお互いいい相手は見つけるのは難しいね、多分結婚できないわ、などと軽口を叩けるだけ叩くのである。「異性」の「友人」だから話せる話なのだ。

不意に徳利が倒れた。高い音である。響く音である。幸い食器は割れず酒も零れなかった。多分質が良かったのだろう。ただ、走者一掃タイムリーツーベースのようないい音がして、隣の席の女性が驚いてしまったようだった。しきりに音が大きかったね、大きかったね、大丈夫か、と言ってくる。相当動揺したのかもしれない。店員さんが倒してしまったものだったので別に私たちは大して悪くないのだがなんだか申し訳なくなって、困り笑いをした。すると突然女性が真顔で、しかし目を見開きながら、「あんたたち、再来年結婚するよ。」と言ってきた。私たちは完全に困惑した。急展開すぎるからである。第一再来年という間隔が妙に生々しい。そしてしきりに私の頭の上を見るのだ。三秒に一回は見ていたようだった(友人談)。守護霊でも見えていたのかもしれない。実際、女性の同席者も「この人は見える人なんだよ」と言い、生暖かく微笑むのだった。なんだか不気味になって、酒も尽きたことだったのでお会計をして店を出た。

あれは一体何だったのだろうか。女性の言ったことが「事実」かどうかはさておき、散々曖昧さと生活の話をしていたが、逆に言えばそれは希望に溢れる生活ということであるということを思い知らされた。だって明日も明後日も再来年も、何が起こるかわからないのだから。オカルティックな彼女から提示された、希望のようなものかもしれない。




※この話はフィクションです。実在の人物、団体、事件等とは一切関係ございません。

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