無理なこと、優しい人、便利な道具

この間友人がInstagramにペット専用アカウントを作っており、光栄なことながら私もフォローしてもらえた。ただ残念なことに私は友人の飼っているペットが苦手なのだ。そのペットが苦手とかでなく、ただ単にその種類の動物を見るのが苦手なだけ。そんなことを日常的に表明することなんてないので、私がその動物を苦手だなんて誰も知らない。
 なのでフォローされた時は焦った。前述の通り周知するようなことではないので、当然友人も私がその動物を苦手であることをしらない。それに、純粋に私に信頼を置いており、相互でフォローして、ペットをみてもらえたら嬉しいなという100%悪意のない気持ちでフォローしているに違いないのだから、無言で放置するのは友情に亀裂を入れる気がする。だからと言って無理にフォローをしても自分にダメージがいくだけだし、相手にもなんだか不誠実な気がする。つまり、迷ったのだった。
 最後には私は誠意をとった。「私はあなたのペットになっている動物が苦手なのでフォローできません」と伝えたのだ。これは偉かったのではないか。友人も優しい子なのでそうだったのね〜!と気を配ってくれた。ありがたい。こういう優しさがあると思ったから「無理なこと」を伝えることができたんだろうなあと思う。
「無理なこと」を伝えるのは基本的には難しいと思う。自分にとっての「無理なこと」は相手にとっての「好ましいこと」「当たり前のこと」だったりするからだ。そうなると、優しく受け入れてくれる人だけでなく、不快に感じたり、許せなかったり、中には怒ってくる人もいると思う。それは人が自分以外全員他人だから逃れられないことなのだと思う。
「無理なこと」の他にも「自分はこうなんだけど、相手には理解し難いこと」も上記のような現象に巻き込まれている。なぜなら、思考を楽にするための、言ってしまえば偏見を持つ人を相手に、「あなたの便利な道具私には適用されません」と宣言することになるからだ。つまり、相手が楽に生きるための偏見という道具を奪って一から思考してみてください、ということになるからだ。自分の苦手なこと、それ以外にもプライベートなことを伝える時、それ自体に勇気がいるのは、このような道具の取り上げと、それによる相手への負担について考えてしまうからではないかと思う。少なくとも、今回の私はそうだった。
 実際のところ、道具を取り上げるというのは相手にかなり不審な気持ちを持たせる。それに、それまで培ってきたカスタマイズした偏見をゼロに戻します!宣言をされて、ブチ切れる人もまあいるのだろうとは想像がつく。これでいいと思ってたものにダメ出しをされるとキツい。まあぶっちゃけブチ切れるまで行くとコミュニケーション能力が大して高くないのだろうと予測できるが、違和感を覚えたり、負担を感じたりすることは普通だと思う。
こう考えると、相手の当たり前に自分の当たり前をぶつけるのはものすごく力を込めてするものだし、当然勇気が必要になる。そう思うと、あんまり当たり前のことなんてないと思って過ごしていた方がいい。それに、多分この考え自体も完全に偏見に基づいているから、意識しすぎたところで無駄なのだ。人間はみんな便利な道具を作って生きているから。

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