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良い自分と悪い自分

私は一般的に言うと寂しいタイプの生い立ちをしてきた人で、それはそれは捻くれているのです。

ひねくれている自分にはっきりと気がついたのは中学生の頃でしょうか。

私は母親と生活をしていなく、尚且つ母親はひどい女だと植え付けられて育ったもので友だちが普通に話す母親の話にすごく敏感になってしまって、顔が引きつっていたんだと思います。

中学生という時期に、みんなが幸せそうに話す家族の話がとても嫌で、だけど、顔が引きつる私に気を使って母親の話を話さないようにしてくれる優しささえも嫌で、きっと全てが嫌だったのだと思います。

人の家族を羨んだり、嫉妬したり、もうそれはそれは嫌な感情で心は埋め尽くされていたのですが、表面では良いこのふりをする自分に腹が立っていたんです。
いや、いい子のふりをしたいというか、本当の私はいい子だったのだとも思います。

だけどどうしても嫌な感情が出てきてしまって、その度に「なんで自分はこんなに嫌な性格なんだ」と自分を責めていたんです。
それはそれは自分が嫌いで仕方がなかったんです。

自分には言い分があるのに何も聞かれず怒られていた私はいつも「私はこう思ってたのに!!なんでわかってくれないのよ!」
と、自分にも言い分があることを言える場所がなかったので自分と話していました。


だけど、なんとなく中学に行くと嫌な自分が炙り出される感じがして苦しくなってきたんです。
「なんで自分はこんなにひねくれているのだろう」と毎日自分と向き合う日々。
「本当の自分はこんなにひねくれているのだろうか」と考えていくうちに、自分と話すことが増えていきました。


嫌な自分を見た時
「本当の私はそうやりたかったの?」
「いや、やりたいわけないじゃん」
「じゃあなんでやったのよ」
「悔しい気持ちは止められないんだもん、しょうがない。」
「でも、あれはやるべきではなかった。なんならあんたそれ続けてたら愛されることはないよ」

ってな具合にいつも、斜め上で客観視してくれている自分と話していたんです。

この“もう一人の自分”と話しているという感覚を知ったのは友だちと話している時でした。


「かよちゃんっていつも自分を客観視してるよね。なんか多重人格っぽいのかな?」

と言われたことがあったんです。


おうおう。すごいワードをずいぶん軽く伝えるじゃんって思ったのですが、私の中では別人格ということは一切なく、あくまでも常に見ているもう一人の私がいる感覚なんです。

どちらかというと「善(導く)の私」と「悪(現実)の私」がいて本当の私だったり、本当の私が求める私にどう向かっていくかみたいな話をするという感じ。


ある行動をした時、「悪の私」と、その行動は自分にとって心地いいものではなかったよねと釘を刺す「善の私」がいて、さあ、二つの自分を知って今後の私はどうするかという問いを毎日毎日繰り返しているのです。


その癖は今もなお続いていています。


自分の嫌な自分を見ることは実は本当に辛いこと。本当の気持ちは知りたくなかった…なんてこともある。
「なんて自分はひどい人間なんだ…いない方がましなのではないか」なんて思うことすらあった。

見たくないものに蓋をしたり、上書きする時期もあって良いと思うのですが、そこを自分が受け止めてあげられたら、自分が一番救われるのではないかと思っています。


居心地の悪い自分でいるより、居心地のいい自分でいた方がすごく幸せだとわかったから。


「これが辛かったよね、あれ辛かったよね。うんうん。でもこれはしちゃダメだったよね。あとはどうするかは自分で決めてね。」



という感じで、気持ちを受け止めたあとは比較的ドライな善の私。笑

それは、結局は自分が本気で変わる(向き合う)と決めないと変わらないということを自分が一番わかっているから。

私はそうやって自分と向き合い続けて20年は過ぎていると思いますが、まだまだなりたい自分へは遥かに遠いです。トホホ・・・

でも、一生懸命そこに向かいたいと願ってもがく自分はいいなって思っています。

理想にたどり着くことが目的ではなく、そこにどう向かおうかを向き合いもがくことが大切というか。理想なんてどんどん更新されていきますしね。



そして、子どもたちには(大人にも)存分に自分の気持ちを味わって欲しいし、誰かに自分の気持ちをわかってもらったり、自分が自分の気持ちわかることでしなやかに育って欲しいと思っています。



悪い自分も良い自分のあっていい。


それに向き合うことが「生きる」ということなのでしょうか。どちらもあることがいいなと思っています。

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