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欅坂46論「第三の永遠」

①欅坂46を論じるにあたって

 欅坂46はアイドルです。しかしこの文章はアイドルそれ自体については語らず、学校やクラスメイト、社会や大人のような相手と戦ったアーティストグループをその本質として彼女たちを捉えていこうと思います。したがってこの文章は伝統的なアイドル論ではなく、いくつかのすぐれた楽曲を世に問うた「作家論」の形をとっていくことになります。

 そうしたスタンスを採用するのは欅坂というグループの特異な出自が理由です。
 アイドルとは第一にアイドルファンのために存在するものです。この定義に異論はないと思われますが、デビュー作で異例のヒットを記録し、本来の支持基盤であるアイドルファン以外へと浸透することに成功した彼女たちは、上に述べた定義を外れ不特定多数の聞き手、とりわけ既存の社会秩序にたいし苦悩や生きづらさを感じる若者たちの声を代弁する存在となりました。

 よって彼女たちが、新規のアイドルファンの獲得ではなく、つねに高品質でメッセージ性の強い楽曲を送り出し続けることになったのは論理的必然だったと言うべきでしょう。おかげで欅坂は「笑わないアイドル」といった認知の広がりをベースに、アイドルファンに訴求する伝統的なアイドル像を塗り替えつつ唯一無二のポジションを音楽シーンにおいて築きあげました。美しい花が枯れて実を残すように、自身を巨大なアンチテーゼとしてアイドルという古い枠組みを刷新し、自分たちを熱烈に支持する「欅坂ファン」のために楽曲を送り出す存在になったわけです。

 冒頭に述べたアーティストグループという評価は、まさにそのような弁証法にもとづく独自性を根拠としています。言い換えるなら彼女たちは、アイドルであってアイドルではない何者かに変容したのです。そうした認識を前提に、欅坂というグループが何をなし遂げ、いかなる境地を切り拓いたのかをこれから掘り下げてみたいと思います。

②反抗=戦いのあり方

 欅坂を象徴する楽曲には、つねに何らかの戦いが刻印されてきました。世間に流布するパブリックイメージに即していえば、彼女たちは大人や社会に反抗を呼びかる存在で、こうした特徴は欅坂の根幹をなすものとして理解されていたりします。

 ですがひとくちに反抗といっても、そのあり方は移り変わる時代の影響を受けるでしょうし、かつてのそれとは大きな隔たりがあるという見方が妥当ではないでしょうか。

 例えば三〇年前の反抗の主体は群れる若者たちでした。カリスマ的なアーティストの出現に呼応し、彼の歌う少年少女たちは徒党を組んで日々大人たちに歯向かったものです。不良という群れを形成し、既存の秩序をかき乱すようなふるまいを日常的におこないました。そのとき若者たちは何よりも強さを志向し、殴り合いに勝つための暴力を身にまとっていました。そうでなければ、強い力をもつ大人たちを凌駕することなどできなかったからです。

 ところが三〇年の月日が経ち、欅坂の歌う少年少女たちはあからさまな強さを志向しなくてよくなっています。かつて粗野だった日本社会は、遵法意識がいたるところに植えつけられ、結果として熱量の低めな穏やかな場所へと変化したからです。若者と大人はもはや野蛮な強さを求めず、かわりにクローズアップされていったのは、群れをなすよりは孤独を選び、強くなるどころか傷つきやすさを抱え、繊細で打たれ弱い無数の少年少女たちです。

 欅坂が送り出すのはそうした環境における反抗の提示、すなわち戦いの呼びかけでした。たとえ社会が洗練されたものになったのだとしても、戦いのベースとなる不満や怒り、それらを生み出す対人関係の理不尽さが消失したわけではないからです。それどころか社会が洗練されたぶん、人々を取り巻く秩序のマイナス面も同時に洗練されていったというのが現実でしょう。

 教師の抑圧はなくなりましたがクラスメイトとの協調が困難さを増し、厳格なしつけのかわりに外面の良い親からの虐待が増え、何の取り柄もなければ自分を認めて貰えず、無知なまま社会に出ればブラック労働で過酷に搾取される。何のことはない、遵法意識がどれほど共有されようと、その枠の中で暴力や疎外は生きながらえるし、運や賢さがなければ望みどおりの人生を送ることなど到底できないのです。

 欅坂が歌うのはこうした条件に束縛され、人並みな弱さに特徴づけられた弱者の、弱者による、弱者のための戦いだと言っても過言ではないでしょう。強大な敵が兼ね備えた力に歯向かうべく、自分たちも力の担い手になろうとして能動的に戦いを挑んだ三〇年前の反抗とは異なり、人生を営むなかで否応なく戦いの当事者にさせられる者たちが立ちはだかる障害にぶちあたって苦悩し、人生を損ね、弱さゆえに負けてしまわないための反抗です。

 こうした二つの反抗が同じ形態をとるわけがなく、既存の社会秩序の打倒をめざした前者にたいして、後者は秩序が求める生き方以外の生き方を作り出すための「抵抗」と呼ぶのが適切に感じます。この世界を思いどおりの色に塗り替えるのではなく、世界のなかにどれほど小さくとも新しくべつの世界を構築すること。それをなし遂げたいと願う人々を背に欅坂は楽曲を送り続けてきました。みずからが彼らの同志であることを告げ、戦いの狼煙を高々と掲げたある鮮烈なマニュフェストを出発点に。

③サイレントマジョリティー

 欅坂のデビューシングル「サイレントマジョリティー」(以下サイマジョと略記)は、既存の社会秩序への抵抗を聞き手に送った曲です。その力強いメッセージ性は〈君には君らしく生きて行く自由があるんだ/大人たちに支配されるな〉という歌詞が端的に表しています。とはいえ注意深く分析すると、同曲は大人たちの支配にたいする抵抗を単純に呼びかけたわけでなく、むしろ現代社会との戦いがいかに複雑であるかを正確に捉えています。

 すでに見たように三〇年前の反抗の主体は群れる若者たちでした。強さを志向し、実際暴力的な強さを備えていったにもかかわらず、少年少女たちは徒党を組み、群れる大人たちに対抗すべく不良という集団を形成しました。

 他方で「サイマジョ」は、戦いを推し進めていくのはたった一人の自分、つまり個人に見定めています。その最前線は三つの場所に集約され、なおかつきわめて孤独な戦いが想定されています。詳細を列挙してみましょう。

  (1)大人との戦い(社会への抵抗)
  (2)子供同士の戦い(群れへの抵抗)
  (3)自分との戦い(諦めへの抵抗)

 以上三つの戦いをやり抜きながら、夢を掴んでいこう。それこそが「サイマジョ」の唱えた決意表明の核心であり、欅坂の世界観を織りなす土台です。

 そこで注目されるべきは、群れというあり方が明確に否定されている点です。生きづらさを押しつける社会に抗うばかりでなく、かつてなら当然のように求めた集団性にたいしても抗い、自分自身の脆弱な気持ちに打ち克っていこう。〈夢を見ることは時には孤独にもなるよ〉というフレーズが示すとおり、同曲は徹底して孤独を強調します。では一体なぜ、孤独というあり方にそこまで強い関心が寄せられているのでしょうか。戦いを呼びかけておきつつ、最後は孤独に頑張れでは無責任すぎる。それはある意味もっともな意見ですが、答えは「サイマジョ」の中心的主題である〈夢〉の性質と関係しています。

 夢とは何か。ひと言で表すならそれは、自分が何者になりたいかを定めた固有の願望です。現代社会に生きる人々はいくつもの暗黙なルールに縛られていますが、何者かに、すなわち他人から必要とされる能力を持った人間であれという命題はその最たるものでしょう。夢とは他人から必要とされる人間になることで達成されます。そしてそのとき身につけるべき能力のことを価値と言い換えてもよいでしょう。

 たとえばパン屋という職業には、パンをこねて焼く技術が必要とされますが、それによって何の変哲もない小麦粉をお客の求めるパンに変えることができるから彼らは対価を得られます。パン屋は職人的な技術という価値を身につけており、それこそがパン屋が何者かであることの証と言えるでしょう。

 こうした価値の獲得を通じた夢の実現過程は成熟した社会人にとって周知のことです。けれども「サイマジョ」が主に呼びかけたであろう学生はどうでしょうか。

 彼らの大多数はまだだれからも必要とされていない、あるいは生活を成り立たせるだけの対価に見合わない、価値未満の状態にあります。親や友人、恋人や教師は、あるがままの自分を相手にしてくれる。しかし他人は価値のない人間は相手にしない。何者でもない人間を無価値と見なす、そんな残酷な世界が学校や家の外部、すなわち社会の実像に他なりません。

 そして、社会の本当に残酷な点は、こうした価値を手に入れていく過程で、人々を否応なく生存競争に叩き込むことです。パン職人になりたい少年がいたとして、手先が不器用なままなら彼は修行の途中で脱落するでしょう。無事パン職人になれたとしても売れ行きが悪ければ店を畳むしかありません。「サイマジョ」の呼びかけた戦いが集団性を退け、孤独と分ちがたく結びつけられているのは、その背景に厳しい競争があったからなのです。

 競争の厳しい社会で何者かになろうとするとき、どんなに親しい仲間がいても本質的な助けにはなりえません。人生にピンチヒッターは存在せず、〈夢〉を掴むための戦いは独力で頑張る他ないのです。
 殺伐とした競争を生き抜き、勝利を諦めないためには、孤独に耐える強さが必要となります。そして同曲は、夢を叶えようとする戦いの孤独さを前提としつつそれを梃子にして大人との戦いを訴えていきます。

 それを理解するうえで再度注目したいのは、〈大人たちに支配されるな〉という冒頭に挙げたフレーズです。奴隷がいないはずの現代において、どうしてかくも扇動的な言葉が必要とされるのか。その謎解きを通じて欅坂の唱えた抵抗のあり方をさらに掘り進めてみたいと思います。

 「サイマジョ」は夢を見ることの大切さを説きました。ところが実際のところ、何者かになろうとして夢を自由に抱くことは最初から邪魔をされています。なぜなら、社会を構成する大人たちは彼らにとって有益な人間を求めるからです。どんな人間になるべきかは用意されたレールの上に置かれており、価値を手に入れたいのなら、決められた枠組みに従わねばなりません。それは単なる嫌がらせではなく、理由は実利的です。日本の大人が望む人間とは、均質な人格をもち、組織になじむことを厭わない人々です。その理由は従順な人間のほうが扱いやすく、彼らの管理体制にマッチしているからです。

 例えばたくさんの優秀な若者が、給料の高さよりやり甲斐を求めて、芸術家やユーチューバーをめざしだしたら、彼らを雇用したい企業は困るでしょう。また、そうした自由を志向するタイプの人間は組織を動かすうえでしばしば障害となります(せっかく訓練して育てても簡単に仕事を放り出し、退職するから)。そのため大人の側は、豊かで安定した暮らしがいかに素晴らしく重要かを事あるごとに刷り込み、共通の価値観に染まった同類を再生産しようとするわけです。

 先行世代である大人たちにとって都合の良い仕組み、それが社会です。これはいかなる時代でも変わらない人間社会の条件と言えます。そして「サイマジョ」が抵抗するのは、まさにここで述べたような大人の都合にたいしてです。夢という固有の願望を持たないとひとはその仕組みの奴隷になるより他ありません。〈大人たちに支配されるな〉と彼女たちが歌うとき、そこには「君たちよ、自分の人生の主人であれ!」という悲痛な励ましがこめられているのです。

 その励ましがなぜ悲痛に響くのでしょうか。短く補足すると、一旦定まった主人と奴隷の関係はそう簡単に覆せないからです。むしろ現代社会は、富める者に異次元の富をもたらし、貧しい者には低賃金の仕事しか与えられず、両者のギャップは絶望的なまでに埋めがたくなっています。

 よって「サイマジョ」の歌詞もそうした世界を変えていくような抵抗の形を説きません。自分の夢だけを見据え、順番に叶えていき、必ず君が望んだ何者かになってみせようとエールを送ります。いまは夢を叶えるための一途な努力こそが、大人たちの支配、彼らの築いた社会に抗う唯一の方法なのだと。そのためには子供たちの群れに流されたり、容易く夢を諦めたりしてはならないと、欅坂はだれよりも大きな声で人々に宣言したのです。

④欅坂46に普遍性を見いだすこと

 人間がおこなう物事に例外なく共通する性質のことを普遍性といいます。それを基準にして考えると、「サイマジョ」の主題である〈夢〉には普遍性が色濃く宿っていることに気づくでしょう。現代社会という枠を外れても、人間が自由を志向して、その恩恵を享受できる環境に身を置いたとき、必ず立ちあがってくるのが夢であり、「君は何者になるのか」という問いかけです。

 「サイマジョ」はその答えを聞き手一人ひとりに託し、みずから先導する形で幕を引きました。それを踏まえるかたちで、ここで本論の立場を確定させることにしたいと思います。

 この文章には目的があります。それは、欅坂の送り出した楽曲群を読み解きながら、そこに私たち人間が生きていくことの真実を掴み取ることです。ここで述べた真実が普遍性の別名であることは言うまでもありません。本論はどうしようもなく普遍性に憑かれています。なぜならある創作物がすぐれているか否かを論じる際、有力な尺度の一つは間違いなく普遍性の有無にあるからです。

 いま売れているから素晴らしいのではありません。たとえ百年、千年経ったとしても、同じように人間の心をうち、考え方を変え、行動に走らせる。そうした性質を普遍性の中心に置き、欅坂の楽曲群に見出だしていくこと。それが本論の設定したゴールです。

 とはいえ作品というものは、当てた光次第でその姿を変える影のような性質をもちます。手段を間違えば、正確な像をとらえるのは難しくなるでしょう。よって欅坂のなかにある真実を取り出すにあたって、やり方を誤らないように方法論を確立させておきたいと思います。

 これから本論は「サイマジョ」の呼びかけに応じた数名の〈僕〉の行方を追っていきます。同曲の発信したメッセージに感化された若者、すなわちサイマジョの子供たちのたどる道筋をとらえ、その伴走者となるわけです。

 思い浮かべて下さい。たったいまこの瞬間、数限りないサイマジョの子供たちが人生のスタートを切り、走り出していく姿を。「サイマジョ」が勇猛果敢な楽曲だったことも手伝い、覚醒した子供たちの足どりは軽く、その瞳は輝きに満ちています。

 けれども順調に滑り出したように見えるのはほんの短い間でした。確固たる夢を抱くという最初の壁を突破できたとしても、早くも次のハードルが待ち構えています。なぜなら最初に挙げた二番めの抵抗、すなわち子供同士の戦いが、大人という敵対者を押し退ける形で前にせり出してくるからです。

 冒頭の断り書きにおいて本論は、現代の若者の特徴を弱さ、さらにいえば傷つきやすさにあると述べました。「サイマジョ」では問題にならなかった彼らの傷つきやすさが、戦いの場が転じていくことにより徐々に真価を発揮していくことになります。

⑤エキセントリック

 私たちの多くは、個性をもつことは望ましく、人生において大事なことだと教わった人たちだと思います。個性とは最初、どんな形かもわからない原石のようなものであり、大人サイドの期待はそれを成長過程のなかで磨き上げていくことに向けられているでしょう。十人十色といいますが、それぞれに違いが出てくることで良い感じに個性がばらけ、最終的に多彩な色が咲き乱れるだろうと大人はイメージしているわけです。

 しかし、まずこの理解が間違いだといわざるをえません。個性が出ることにも個人差があるのです。強烈な個性もあれば、控え目な個性もあるといった不規則な分布にくわえ、もっと露骨な違いが出てきます。それは優劣です。

 「サイマジョ」に触発された子供たちはどんぐりの背比べ状態でスタートしたのではありません。実際そこに到るまでのあいだ、大人たちの期待する個性のあり方が幻想に過ぎないことを学びとり、それぞれの個性の先にある〈夢〉の獲得がいかに困難かを彼らが一番よく知っています。

 そう、子供たちの一部は「サイマジョ」からスタートした早々に熱が冷めてしまうのです。皆が強い光を放って輝けるわけではありません。子供の棲む世界にも競争原理は働いており、たとえば学力や容姿、運動能力などの指標が序列を生み出すと、それらに手の届かない人々は、自分の取り柄のなさをことさら強く認識するようになっていくでしょう。

 こうしたヒエラルキーの隙間から、子供たちのあいだに群れが生じていきます。もっとも全ての群れに問題があるとは思いません。強い個性、すなわち高い能力をもった人々が同属で群れることは、猫が猫と戯れ、鳩が鳩と餌をついばむのと同じく、自然なことです。けれど人間の子供がつくりだす群れのあるタイプは、これとは性質がまったく異なります。

 彼らの一部は、多数であることを無条件に正しいものと位置づけ、少数を間違ったものとして扱うような群れを形成しはじめます。世間や空気といった要素が幅を利かせだすのも、そうした群れが大きく成長し、人々が群れへの帰属を暗黙に促されたときです。しかも強い個性をもてない者ほど、陰湿な群れの形成に精力を注ぎます。歴然たる優劣と向き合い、心が傷つくことを極度に恐れてしまうからです。

 欅坂4thシングルのカップリング曲「エキセントリック」(以下エキセンと略記)に登場する語り手の〈僕〉は、自分のクラスメイトを覆い尽くす耐えがたい状況に異議を唱えます。群れと化す仲間を見限った〈僕〉の決意を、同曲は実に飄々と歌いあげています。せせこましい人間関係に執着する連中からはみ出して、変わり者と呼ばれても構わない。他人の目なんか気にせず、これからは自由に生きさせて貰うと。

 そんな〈僕〉の置かれた状況をより鮮明にすべく、力なき者たちがつくりだす群れがなぜ〈僕〉の反発を買ったのかを考えてみましょう。

 好意的に捉えれば、「エキセン」の〈僕〉が抵抗した連中も、当初は覚醒したサイマジョの子供たちであったはずです。けれど夢を形にしていくことは常に困難を伴います。身の丈にあわない夢を抱き、現実に直面して下方修正をおこなうめに遭えば、だれしも心が挫けるでしょう。

 したがって〈僕〉も、相手がこの程度の体たらくならば拒絶の意志など示さなかったように思われます。裏を返せば、「エキセン」が歌う子供たちの〈世間〉には、同情の余地なき部分があったことになります。

 歌詞を丹念に読めば、どうやら〈僕〉にも友人らしき者は存在していたようで、その人物が〈僕〉のことをあっさり裏切ったことが暗示されています。けれど〈僕〉が終始いらだちを見せるのはべつのことでした。それはイメージやレッテルで判断し、損得勘定で動く安っぽい人間関係。

 つまり、群れとなった子供たちは真似をしているのです、本来敵対する存在だった大人たちの真似を。人間としての中身と無関係に、学歴や勤務先などの肩書きで褒められたり、なめられたりする大人たち。群れの交わすおしゃべりやラインで持ち上げられたり、ディスられたりする子供たち。いまだ社会へと出ていないというのに、早くも同色に染まっていく仲間たちを見て、さすがの〈僕〉も驚きを禁じえなかったでしょう。そして思ったでしょう、心底許しがたいことであると。

 事実「エキセン」の〈僕〉はこれをもって同胞たりえたはずの者たちとの決裂を選びとります。薄っぺらなヒエラルキーに組み込まれるくらいなら、自分から孤立してやるというわけです。〈変わり者でいい〉という実に軽妙なフレーズは、彼がおもむろに差し出した絶縁状に他なりません。その瞬間〈僕〉は「サイマジョ」のメッセージを貫き通し、ある生き様を戦略的に示してみせたのです。そこで彼が選びとった生存戦略をのことを、本論は理性的回避と呼ぶことにします。

 変わり者であることを受け入れ、群れから自由になること。こうしたみちを選びとった〈僕〉は、大人に用意された自由ではなく、本物の自由を手に入れたと見てよいでしょう。たとえば、三〇年前の世界なら、自由は勝ちとらなければ手に入らないものでした。それが現代では、生まれたときから親や教師によってある程度自由が保障されており、「サイマジョ」が〈君は君らしく生きて行く自由があるんだ〉と楽観的に歌うことができたのもそれが理由でした。

 ですがそうした自由は万能ではなく、事実、群れに疎外されてしまえば、子供社会において言いたいことをいえず、やりたいことをやれなくなってしまいます。これにたいし、本物の自由とは、大人のふりをした子供たちに支配されず、たとえ孤独になっても自分らしさを守り抜くことだと思います。何しろ〈僕〉には夢を叶えていく使命があるのですから、益のない戦いに余計なエネルギーを消耗している場合ではなく、本物の自由を通じて願望を実現するための努力に差し向けなければなりません。

 理性的回避とはそうした合理的判断にもとづく行動です。つまらない子供たちの群れに抵抗し、彼らとの戦いから降りること。同時に「エキセン」において見逃せないのは、同曲の〈僕〉が自分の把握する自分と周りが認知する自分との食い違い、いわば同一性の拡散に反発を覚えていたことでした。

 これらは自分がどんな人間で、周囲がどんな存在かを見失った状態と言えるわけですが、子供たちの群れに三行半を突きつけることで〈僕〉はこうした混乱した自己像、及び他者像を安定した形で取り戻せたはずです。くり返しになりますが、それらの行動は理性の産物に他なりません。淀みのない見晴らしのきいた世界でこそ自由は両翼を思いきりはばたかせられることを、〈僕〉はこのとき心の底から理解したことでしょう。

⑥理性的回避という生存戦略

 ここまでの読解で、欅坂の世界観の土台の上に立つ骨格が見えてきたように思います。夢を叶えようとする若者は、障害になるであろう大人、子供の群れ、自分という三つの敵と戦っていかねばならず、そうした戦いは彼に孤独を強いる。なぜなら戦いの背後には競争原理が横たわっており、競争に勝ち抜くには対人関係の同調性に足をすくわれ、貴重なエネルギーを無駄遣いしてはならないからです。したがって夢という願望を叶える過程で発生した無益なイベントは理性的に回避すべきである。

 しかし本論の考えでは、「エキセン」が提示した理性的回避には見逃せない弱点があります。すでに予告していたとおり、現代の若者たちは強さを志向しないかわりに弱くて傷つきやすい性質を抱えています。そうした特徴は「エキセン」の語り手も例外ではありません。「サイマジョ」は確かに、勇ましい口調で三つの戦いを若者に呼びかけました。しかし本論の考えでは、欅坂においてもっとも独特な要素は、戦いを必要なものと無駄なものに峻別し、後者を切り捨てていく理性的回避のほうにあります。

 現に欅坂の楽曲群を俯瞰することで、こうした考えがただの思いつきでなく、「エキセン」の語り手が出した答え、すなわち理性的回避が単発の表現でないことを確認できます。代表的な二曲を取りあげましょう。

 一曲めは「語るなら未来を…」(以下カタミラと略記)です。
 この曲の主題は喪失と未練です。歌われた詞を要約すると、失ったものは元には戻らないのだから、未練を捨てて未来に意識を向けろ、という教訓が同曲のメッセージだとわかります。大切なものを失う切実さを扱った反面、ひどく割り切った姿勢に理性の働きが読みとれます。

 二曲めは「風に吹かれても」(以下風吹かと略記)です。
 この曲は信じることと愛することを切り離した大人のラブソングです。傷つくことを避けるため、主体的選択はとらない。かわりに風が自分を運んでくれる。その流れに身を任せることができれば、人間不信にとらわれた〈僕〉でも人並みな恋を楽しむことができる。

 これらの曲はともにひとつのことを恐れています。人生の選択で傷が深まり、その傷が二度と癒えないものになってしまうような事態を。未練の放棄を歌った「カタミラ」は、過去にこだわることがそうしたリスクを抱え込む危うさに着目し、未来に意識をむけました。空疎な恋を求めた「風吹か」は、裏切りという最悪な出来事が起きても決して傷つかない仕組みを心の周囲に張りめぐらせました。欅坂の曲に出てくる登場人物たちは、人生の過程で深刻な計算違いが起きることへの警戒心、もっといえば拒否感をその行動原理のなかに隠しています。理性的回避という同一のモチーフを採用した曲が複数のタイトルにまたがっていることからも、それが欅坂における通奏低音の一つであることは疑う余地がないでしょう。

 理性的回避がはらむ弱点とは、こうした生存戦略の破綻として現れます。「エキセン」の〈僕〉は確かに、学園生活における自由を手に入れました。けれどもそうした自由を手にした者が遠くない将来、べつの争いに見舞われることは避けがたいと思います。人間関係とは死ぬまでうざったい揉めごとの連続であり、そのたびごとに理性的回避を続けていけば、回避は逃避と区別がつかなくなり、やがて何かしらのエラーを引き起こしてしまうのではないでしょうか。

 本論は先ほど「エキセン」の読解を通じ、「サイマジョ」のメッセージから出発した子供たちが陰湿な群れを形成していったことを取りあげ、彼らを堕落させたのは優劣の有無だと述べました。これとは対照的に「エキセン」の〈僕〉は、群れの都合に絡めとられず、おそらくは夢の実現にむけて邁進していったことでしょう。ですが、そうした対比は、ある一つの条件を前提にしています。堕落のみちを逃れた〈僕〉は、理性の働きにもとづき無益な争いと縁を切りました。しかしそれは彼が優劣という現実の壁に挫けなかったこと、すなわち人並み以上にすぐれた能力の持ち主であったことを暗に意味しているのではないでしょうか。

 人間は飛び抜けて優秀であれば、群れを避け、どんなに孤独になっても、必要な成果を出し続けることでより上位の群れ、大人たちの営む社会に居場所を見つけ、そこでおのれの願望を達成することができます。しかし、もし同じように理性的回避を身につけながら、「エキセン」の描いた〈僕〉とはまったく異なったタイプの少年、たとえば〈僕〉ほどすぐれていないどころか、むしろ何ひとつ取り柄のない若者が主題となっていくとすればどうでしょう。

 くり返しになりますが、すぐれた者は群れから逃げて孤独になっても生きていけます。つまりここから明らかなのは、理性的回避とは本来、孤独になっても自立でき、自分の悩みは自分で解決できる、相対的な強者の戦略に他ならなかったということです。しかし「サイマジョ」によって覚醒した若者たちの大半はそうではありません。すでに指摘したとおり、彼らは弱さに特徴づけられており、その大多数は努力をしても大して強くなれず、些細な言動で傷つき、失敗に怯え、苦悩する者たちばかりだからです。

 「風吹か」において指摘したように、理性的回避を得意とする〈僕〉は信じることと愛すること、すなわち信頼と関係性の結びつきを切り離し、人間にたいする信頼を基盤としないまま他人と付き合っています。しかし弱くて傷つきやすい者たちは、徹底した人間不信にたどり着くことができません。つねにだれかに頼りたい、甘えたいという気持ちが捨てきれられず、孤独になったことで生じる苦悩をいつしか持て余すようになるでしょう。

 そんな〈僕〉に待ち受けているのはいったいどんな未来でしょうか。次は、理性的回避が招く最悪のケース、もはや〈夢〉を見ることもできなくなって、絶望と嘆き、恨みと自己嫌悪にまみれたある敗者の足どりを追ってみたいと思います。

⑦ 大人は信じてくれない

 悲しみに暮れたひとりの少年が涙を流しているとします。このとき、少年の涙は心の叫びに等しく、彼は単純に悲しいからではなく、悲しみを他人に気づいて貰いたいから泣いているのです。ところが彼の期待に反し、悲しみに気づく者は一人もおらず、涙の理由に注意をむけられることもありませんでした。その結果、少年はある発想に到ります。悲しみとはすなわち、心の痛みです。その痛みさえ消してしまえば苦しみから解放されるに違いないと。

 少年が思いついたのは、自分自身を傷つけ、心の痛みを上書きすることでした。しかし人間がおこなう自傷行為の半分は、周囲の目を引くことが本当の目的です。少年はそこまでして、彼をとりまく大人の目を引きつけたかったわけですが、少年の暗い衝動はまたしても頓挫します。物言わず思いつめた様子の彼を、大人は心配してくれるようになりましたが、その対応はあくまで条件反射に過ぎず、無理解な優しさは少年をより一層苦しめていくのでした。

 得体の知れない鬱屈によって自分は殺されようとしているのではないか。少年は自分の置かれた状況に不安と恐怖を覚え、自分のいなくなった世界に思いを馳せます――。

 こんな救いのない状況を描きだした欅坂の曲が「大人は信じてくれない」(以下大人と略記)です。同曲の語り手である〈僕〉は、ひと言でいえば孤独にさいなまれています。そして彼は、自由と引き換えに孤独を得て、その孤独をしっかりと引き受けられた「エキセン」の〈僕〉とは異なり、周囲の支えがないと自立できない弱くて傷つきやすいタイプの少年です。

 うざったい人間関係を回避したが、それが何を意味するのか洞察できるほど賢くもなく、孤立無援へと陥った〈僕〉の姿は、理性的回避がもたらすエラーの典型例と言えるでしょう。そうした未来の閉ざされた若者の存在は、欅坂の世界観においても特殊な立ち位置にありますが、彼の苦悩を解き明かすうえで重要なのは、「大人」の描きだす〈僕〉の悲しみはいったい何が原因なのかという点です。

 このような観点に立って同曲の歌詞に目をむけると、直接的な答えこそ明示されないものの、そこには〈夢なんかひとつもない〉という注目すべき文言が置かれています。欅坂の世界観における〈夢〉のあり方を踏まえれば、悲嘆にとらわれた〈僕〉の逃げ場のない状況を二通り思い描くことが可能でしょう。

 ひとつめの状況は、〈僕〉はいまだ夢を掴みきることができず、人生のスタートラインにすらつけていないという可能性。そしてもうひとつは、具体的な夢を抱く段階まで進んだものの、その入口で早々と挫折した挙句、肝心の夢を手放してしまったという可能性。

 いずれにしろ明らかなのは、サイマジョの子供たちにとって、こうした状況は彼らを突き動かす競争に立ち後れ、失敗の烙印を押されつつあるということです。〈僕〉の悲しみは、何より大事な使命だった夢を叶えていくどころか、それを取り逃がしてしまい、レースの途中で足を止めてしまった不甲斐なさから生じています。その結果〈僕〉は周囲の助けを欲するようになったのですが、彼の嘆きに気づく者は一人として現れず、やがて〈僕〉は声にならない声で憎悪を投げかけるようになります。〈大人は信じてくれない〉〈僕が絶望の淵にいるって思ってないんだ〉と。

 こうした苦悩の源となっている孤独は欅坂の世界観にとって避けがたいものであることはすでに述べましたが、「大人」という曲が明らかにしたのは、それが絶望へ到るためには周囲の大人たちが〈僕〉の思惑に背くといった、ある種の裏切りの発生が必要条件になるという点です。彼らは少年が絶望へ到ろうとする苦しみを信じようとしません。少年の抱く切実な期待を捉え損ねるという点で、大人の悪意なき態度は事態を悲惨な方向へと押しやってしまうのです。

 とはいえ残念なことに、こうした顛末は自業自得とも言えます。〈僕〉がおこなった理性的回避の特徴は、信頼と恋愛を切り離したりするように、人間関係の基盤に不信感が埋め込まれている点でした。そうした戦略のメリットは、たとえ恋愛に失敗しても傷つかずに済むことでしたが、そこには同時にデメリットがあります。それは信頼感のなさゆえに相手を信用し、心を許しながら頼ることができないことです。さらにいえば、心を開かないがゆえに相手の干渉を無意識に拒み、結果的に他人とのあいだに信頼関係を醸成することができなくなってしまうことです。

 救いの手をともすれば干渉と感じ、信頼関係を築こうとせず、不信感の塊となった者をいったいだれが信じるでしょう。信頼とは一方的なものではなく、困ったときは助け合うといった互恵的なものであります。つまり〈僕〉の絶望を大人たちが信じてくれないのは、大人の側の無理解が原因であるという以前に、人間不信に凝り固まった〈僕〉の側に問題があると言わざるをえないのです。

 欅坂の楽曲群を見渡すと、傷つきやすい心をもち、他人に不信を抱く若者が絶望へと転じていく主題は「自分の棺」という曲でも扱われています。同曲と「大人」は、語り手が絶望へ到るみちすじは同じとは限りませんが、たどり着く場所はたいへんよく似ています。両者はともに、絶望した自分たちを救ってほしいとはもはや思っていません。彼らは願いはたった一つです。もし絶望が晴れることがないのであれば、自分で自分を跡形もなく壊し、この世界から消えてしまいたい、ただそれだけなのです。

 他人と信頼関係を築いてこなかった報いで、〈僕〉の実存は破滅へとむかおうとしています。その状況を第三者目線で捉え、少年のとっている他責的な態度をとがめ、窮地を招いた責任は君自身にあると言ってやることは的外れではないでしょう。本気で救いを求めていくのなら、まずは心を開くべきだったはずだし、人見知りするような性格が原因ならそれから目をそらさず改善しておくべきだったはずです。

 ですが実際はそう簡単に済む話でもありません。あらためて「大人」の歌詞に目をむけると、そこでは〈大人は判ってくれない〉〈自分が子供の頃を忘れているんだ〉という指摘がなされています。

 ここから読みとれるのは〈僕〉の期待感には判然とした理由があったという事実です。人間不信へと陥った〈僕〉にもわずかではあるが信頼感が存在していたのです。周囲の大人たちもかつてはサイマジョの子供たちと同じ境遇に身を置いていたはずです。だとすれば、同じ苦しみに溺れる〈僕〉の声なき声に必ずや気づいてくれるのではないか。そんな祈りのごとき微かな予感が、大人が自分に振り向いてくれるという〈僕〉の期待を形づくっていたわけです。

 救って欲しかったのではない、せめて気づいて欲しかった。「大人」の歌詞に見え隠れする独りよがりの裏には、こうした切実な感情が秘められていたのです。しかし祈りは届くことなく、〈僕〉はサイマジョの子供たちに課せられた使命をはたすことなく、人生の途中で躓くという汚点のみが残りました。人生に躓くなどと抽象的に言いましたが、つまりは夢を叶えることに失敗し、敗北を抱きしめようとしているのです。その結果として「大人」は、語り手である〈僕〉の自傷行為、その先に自殺の可能性すらほのめかしているのですが、たとえそうした破滅を回避できたとしても彼がもう一度戦いの最前線に復帰することは困難に見えます。敗北を抱きしめる行為はいわば敗北それ自体に負け、心が挫けてしまうことを意味するからです。

 もしそこに到る前の段階なら、彼は夢に執着する未練を断ち切り、人生を前に進められたかもしれません。しかし心が挫けてしまったのだとしたら、もはや理性的回避をするまでもなく、戦いはそこで終わりです。サイマジョの子供たちは夢を掴みとり、叶えていく、そんな戦いを生きてきました。けれど、戦いが終結を迎え、それにより最大の目的を失ったとき、彼らはどのような運命をたどるのでしょう。自分を殺すという選択をまぬがれたとしても、そこから這い上がれない限り、幸せは遠ざかる一方です。

 欅坂の世界観はそうした状況に即した明確な答えを用意しています。敗北に負けた自分を殺すこともできず、絶望を飼い馴らした〈僕〉は挫折にまみれた青年期を通り過ぎ、かつて心から恨んだ大人へと成長していきます。そして半ば予想どおり、彼は悪になります。現代社会に潜む匿名の悪に。

⑧月曜日の朝、スカートを切られた

 欅坂の楽曲群のなかには、具体的な属性を有しつつも名も無き悪を描いた作品が存在します。ファーストアルバム『真っ白なものは汚したくなる』のリード曲として世に送り出された「月曜日の朝、スカートを切られた」(以下月スカと略記)です。

 本来この曲は本論の検討材料にならないはずでした。語り手は女子学生の〈私〉であり、〈僕〉が織りなす世界観の連続性から外れていることが理由です。にもかかわらず、ここで「月スカ」を取りあげるのは、その物語のなかに〈僕〉の存在が強い筆致で描き込まれているからです。

 「月スカ」の語り手である少女は「サイマジョ」の系譜に連なる〈僕〉同様、大人社会に反感を抱いており、そうした感情を内なる怒りとして秘めた暗い激情家として描かれています。同曲の中心にあるのは、そんな風変わりな少女が受けた一種の性犯罪です。

 少女はある日、通学電車の途中で何者かにスカートを切断されました。その事件を少女は静かに受けとめ、大人への皮肉を並べ立てたあと、最後は自分を傷つけた犯人に痛烈な罵倒を飛ばします。

 歌詞にぼやかしがあるため、少女の放った罵倒が現実の行為か、それとも心のなかで起きた出来事かを判定することはできません。ですが正直なところ、どちらが正解でも構わないと思われます。なぜなら「月スカ」を理解するうえで重要なのは、少女の戦いを詳しく掘り下げることではなく、彼女のスカートを、歌詞の文言で言えば〈憂さ晴らし〉を目的に切った陰湿な犯人の側だからです。

 ここで先述した匿名の悪と「月スカ」がつながってきます。具体的な属性を有しつつも名も無き悪。彼こそは、「大人」の語り手として絶望を嘆き、大人を恨んだが、結局のところ自分の命を絶たずに済ませた〈僕〉のなれのはてなのです。

 突拍子なく聞こえるかもしれませんが、こうした読解は荒唐無稽なものではありません。「大人」の描きだした〈僕〉は自殺を踏み止まることができ、生存をつなぐことができました。しかし「大人」でほのめかされていた死とは、たんなる自殺だけではなかったのです。同曲が暗示していた死は二種類あり、ひとつは自分をこの世から消し去ること。もうひとつは夢の成就を使命とする、サイマジョの子供たちであった自分自身に死をもたらすこと。すなわち「月スカ」の犯人となった〈僕〉とは、大人社会が課した競争に負け、夢を取り逃がした敗者の行き着く姿と重なるわけです。

 それでも社会人となった〈僕〉はまだ、何のあてもなく、現実世界を生きています。夢を思い描くことに高揚していた頃の自分を殺し、中途半端な人生にぶら下がっている彼のことを「月スカ」はこう表現しています。

  死んでしまいたいほど/愚かにもなれず
  生き永らえたいほど/楽しみでもない
  もう持て余してる/残りの人生

 相手の人格すら否定する辛辣な歌詞は、絶望を乗り越えたわけでもなく、ただ漫然と生き延びた〈僕〉のあり方をくっきりと浮き彫りにしています。サイマジョの子供たちとしての〈僕〉はこのときもう死んでおり、この世界にいないも同然というわけです。そうした存在は人々からどのような扱いを受けるでしょうか。

 何者にもなれなかった無価値な大人。そんな価値のない人間を他人は相手にしません。つまり「月スカ」の犯人である〈僕〉は、かつて周囲の大人に苦しみや悲しみを気づいて貰えなかったのと同じく、触れあう人々からことごとくスルーを余儀なくされる存在なのです。その証拠に「月スカ」は、通学電車で少女のスカートを切った犯人の特徴をこう評してもいました。

 無視された社会の隅に存在する孤独/自分はここにいる それだけ伝えたい

 現代社会を生きる人間にとって一番つらいことは何でしょうか。夢を叶えられないことか。不毛な人間関係に巻き込まれることか。

 答えはどちらでもありません。「月スカ」の犯人に落ちぶれた〈僕〉は学生時代、それを身をもって体験しているはずです。大人たちは彼の発した祈りに気づかず、絶望に溺れそうな〈僕〉の存在を無視しました。そうしたつらい過去をトラウマにもつ彼は、同じような痛みに耐えることができません。だからこそ、縁もゆかりもない少女のスカートを切り刻んでしまったのです。〈自分はここにいる〉ことを認めて貰いたい「月スカ」の犯人がもつ心性、及び犯行動機にあたる苦悩とは、他人の無関心に苛まれ続ける人生の鬱屈に他なりません。

 貧困に落ちても福祉があり、暴力の温度も低めな現代社会において、人間をいとも簡単に傷つけるのが、だれからも相手にされない無関心です。なぜならそのとき、ひとは幸せから疎外されてしまうからです。幸せとは、他人との間に相互承認、すなわち有意義で親密な結びつきを与えあうことにあります。「月スカ」の犯人はそうした承認を得られず、おそらくは平凡な余生を送りながら、幸せから遠い場所にいます。彼はそうした現実に耐えきれず、少女のスカートを切りつけました。名も知らない少女と強引なつながりを得て、ほんの一瞬、空っぽの自分を幸せで満たそうとしたわけです。

 こうした身勝手な犯罪は犯人を見捨てた大人たちにたいする逆恨みでしょうか。それとも夢を諦めたことの報いでしょうか。ただ一つはっきりしているのは、存在を切り刻むかのごとき無関心の連鎖がひと一人を同情の余地なき悪にまで貶めてしまう現実です。

⑨「月スカ」の犯人になる者を救うには

 ここまで本論はサイマジョの生んだ子供たちを二種類に分割し、なかでもとりわけ弱くて傷つきやすい少年に焦点をあて、そんな彼が人間関係を理性的に回避した結果孤立無援な状態へと陥る流れを概観しました。やがて大人になった彼は、現代社会を象徴する悪にまで落ちぶれました。度重なる他人からの無関心に倦み疲れ、惰性に生きる他なくなった日々の鬱憤を晴らすべく、溜め込んだ不満をさらに弱い者へとぶつけることで。

 一方で夢を叶え、みずからの願望を形に変える者たちがいれば、他方で夢破れ、あるいは夢さえ見れぬまま大人になっていく者たちがおり、彼らの一部は人生を破綻させ、後戻りのできない奈落へと落ちていきます。これらは実に、ありふれた現象です。どのような社会にも勝者と敗者がいて、その一部は悲惨な結末を迎え、おそらく二度と這い上がることができず、そこに同情の余地はないかに見えます。

 しかしそれは本当でしょうか。「月スカ」の犯人は現代社会が生んだ名も無き悪でありますが、実のところ彼の母体となった現代社会には、誠実な者さえも敗者に、そんな敗者を咎人へ変えていくような、不可避とも言える強い力学が働いています。

 私たちが棲むこの世界は、人類史上もっとも競争の激しくなった社会です。あらゆるシステムが効率を最大化する資本主義の下に一元化され、人間が生きて行くための仕事でなく、金を稼ぐための仕事に大多数の労働者が従事し、人々は金の奴隷になることを余儀なくされています。競争原理は、そうした社会を動かす巨大なエンジンです。そのエンジンはいくども指摘したとおり、サイマジョの子供たちを三つの戦いへと駆り立て、「大人」の語り手である〈僕〉、そして「月スカ」の犯人へと転落した彼を不幸の色に染めていきました。

 先に断ったとおり、本論はそこに同情を寄せたいわけではありません。しかし、サイマジョの子供たちを突き動かす三つの戦いに敗れた者たちは、多かれ少なかれ「月スカ」の犯人と同様の境遇へと流れつき、夢も未来もない余生を送るはめになります。それは確かに身から出た錆と言う他ないですが、その一方でこう考えることはできないでしょうか。

 「月スカ」の犯人は確かに許しがたい。けれどこうした存在になりさがろうとする前の少年たちについてはどうでしょう。やがて犯罪者になる可能性を有しているが、社会に無視されたり、人生を無駄に費やす前の状態であったりすれば、話はいささか違ってくるのではないでしょうか。少なくとも本論はそうした視点に立ち、彼らを救うべく新たな検討をくわえてみたいと考えます。

 なぜそんな提案をおこなうのかと言えば、「月スカ」の犯人は決して私たち一人ひとりと無縁ではないと思われるからです。現代社会の競争原理はいつだれに牙を剥くか計り知れません。努力のはてに夢を叶え、希望の職に就いたとしても、ほんの少しの行き違いで人は簡単に失業者となり、その一部は路頭に迷います。その原因は、競争原理が想定した優劣、つまり能力不足によるものではない場合も多いです。傷つきやすい心の持ち主ほどタフな現実に潰れ、精神的な病理に襲われがちです。けれどそのとき、福祉にできるのは人々の金銭的困難を助けることのみです。

 ここまで議論をつなげば、「月スカ」の犯人が陥った境遇はまったくの他人事と言い切れないことがわかるでしょう。本論は、競争に敗れ去った罪人にさえ憐れみの感情を抱き、彼らの足跡にありえた自分の姿を読みとりつつ、微力ではありますが慰め以上の何かを差し挟みたいのです。

 「月スカ」の犯人は無関心に病みました。競争原理は性質上、そうした生きながらえた敗者を構造的に生み出すわけですが、この世界が本当に良い場所であり続けるには、競争原理に貫かれた社会それ自体に疑問をぶつけねばなりません。サイマジョの子供たちを駆り立てた競争は、他ならぬ人間自身が生み出したものです。ならば同じ人間である私たちは、競争原理のエラーを回収して対策を練る責任があります。

 よってここから一つの課題を設定したいと思います。「月スカ」の犯人のような境遇へと陥らないために人はどうすればよいのか。そうした問いに答えを導くため、ここから競争に対抗するメカニズム、すなわち救済の原理を考えていきたいと思います。競争に負け、社会に悪意をむける存在は文字どおり救いがたいです。けれど、世界を戦いに染める単一の原理に委ねたままでは、敗者の暴発は際限なく続きます。くり返しになりますが、「月スカ」の犯人が私たちの未来ではないと保障する根拠はどこにもありません。競争は確率論的に敗者を生むし、そのとき自分が同じ立場に置かれたら、是が非でも救われたいと強く願うはずです。

 もっとも現実的に見て、競争原理に覆われた社会を抜本的に変えることは困難です。しかし、そうした競争社会の片隅にわずかな余白があるのだとすれば、「サイマジョ」の示した枠組みを逸脱しない範囲内で、救済原理の基盤となるものを掘り起こせるのではないでしょうか。その可能性の中心を欅坂の楽曲群を通じて探りあて、本論の設定した課題に答えていくのがここからのテーマです。

 具体的な手法は、時制を遡り、「月スカ」の犯人を中高生の頃に戻すこと。そこで絶望の淵をさまよう若き日の〈僕〉を救いだし、彼の人生を幸福の側へ引き寄せるにはどのような原理と、それにもとづく具体的な方法論がありえるかを検討してみたいと思います。
 探求に光をあてるにはうってつけの楽曲が存在します。それは「期待していない自分」です。

⑩期待していない自分

 これから取りあげる「期待していない自分」(以下期待と略記)は、欅坂の妹グループであるけやき坂46の楽曲です。この二つのグループは、組織が姉妹関係にあるばかりでなく、その楽曲群はお互いに密接な関わりを有してきました。端的にいえば、二つのグループの曲はしばしば表裏の関係にあり、欅坂が月をテーマにすれば、けやき坂が太陽をテーマにするといった呼応をいくどかくり返してきました。「期待」をこの場で取りあげるのは、こうした意図的な対応関係が背景にあります。

 次に「期待」と欅坂の楽曲群の比較をおこなっていくと、前者の語り手は「月スカ」の犯人予備軍であった「大人」の語り手と多くの点で重なりあうことがわかります。本質的な共通点の一つは彼が人生に失敗した存在であることです。すでに論じたとおり、「大人」の描きだした少年は夢を掴むための競争に敗北し、敗北それ自体にも負け、絶望へとたどり着き、社会へ出て「月スカ」の犯人となりました。「期待」の〈僕〉もまた、うまくいかないことばかりが続く自分を嘆いています。とはいえ同曲に特徴的な要素は、失敗がすぐさま絶望へとむかうのでなく、そこにまず自己弁護が挟まろうとする点です。該当する歌詞を引用しましょう。

  道の途中で躓いて/振り返って見ても何もない/わずかな段差でもあれば/言い訳できたのに…

 こうした惨めな姿は大人に相手にされず、彼らを恨んだ「月スカ」の犯人を彷彿とさせますが、同時に決定的な違いもあります。「月スカ」の犯人がそうしたように、「期待」の語り手も苦悩を晴らすための矛先を求めます。けれども、その思惑は外れ、彼は言い訳の材料を見つけられないのです。

 道の途中で躓いて後ろを振り返ってみたが、そこにはわずかな段差さえなかった。これはつまり、失敗による責任は全部自分に跳ね返ってきてしまうことを意味します。言い訳探しをすれど、原因は常に自分。そんな状況と行き当たったとき、私たちは一方で自分を傷つけないよう失敗を過去に置き去りにし、前へ進むことができます(理性的回避)。他方で、「月スカ」の犯人に到る〈僕〉がそうしたように、無関心な大人たちを糾弾して一時的に鬱憤晴らしをすることもできるでしょう。

 しかし「期待」の語り手は、遥かに不器用でした。そして根っからの正直者でした。彼は失敗を愚直に受けとめてしまうほど要領が悪く、大人を恨めないほど現実をまっすぐに見てしまいます。同曲がくり返す〈青空のせいじゃない/ずっと見上げてたわけじゃない〉というフレーズには、責任転嫁すらまともにできないことへの苦悩が凝縮されています。道に躓いた原因は、見上げた空のせいではなく、自分のせいだ。「期待」の〈僕〉は言い訳を必死に探すほど弱い人間であるにもかかわらず、それを完遂することができないのです。

 ここには簡単に解消しがたいアンビバレンスがあるでしょう。言い訳をしたいが、自分がそれを許さない。けれど、自分が許せない言い訳をまたもや自分が探してしまう。そう、このループには出口がないのです。相反する感情のはざまで彼の苦悩は終わりを見つけられません。

 よって本論は、こうした堂々めぐりからの抜けみちを示すべく、一本の補助線を引こうと思います。欅坂という枠組みを一旦外れますが、参照するのは人々を救うことそれ自体をテーマにした楽曲です。新たな視点が獲得されることで、「期待」のもつ特性が一段とクリアになるでしょう。

⑪「サザンカ」との比較

 SEKAI NO OWARIが昨年リリースした「サザンカ」は、夢を叶えようとする人々に送られた応援歌という点で、「サイマジョ」以降の欅坂の問題意識と通じあう曲です。そのエッセンスを要約すると概ね次のようになります。

 夢を追う〈君〉が失敗したら、それを笑う者が出るだろう。けれどそれは、〈君〉が人生という物語の主人公である証だ。夢を諦めそうになったときは、どうかそのことを思い出して欲しい。

 こうしたメッセージを聞き手に送る「サザンカ」の視点は、泣きながら夢を諦めきれない〈君〉を言葉少なに支える語り手の目線に置かれています。そして歌詞の最終盤、〈君〉の努力が報われたことを喜ぶ語り手の様子が描写され、同曲がハッピーエンドであることが判明します。

 このとき重要なのは夢の成就ではありません。注目されるべきなのは、〈君〉を見守る人がそばにおり、彼が一人ぼっちではなかったこと、すなわち「月スカ」の犯人を追いつめた無関心と完全に切り離されていることが重要なのです。

 その牧歌的な人間関係は、欅坂の描き続けてきた世界観に比べるとなかなか衝撃的な構図ではありますが、同曲について一つだけはっきり言えることがあります。「サザンカ」という曲は、絶望に到る可能性をもった多くの人々を救うことができるかもしれません。ですが、遠くない将来において「月スカ」の犯人になろうとするたった一人の〈僕〉を救うことは絶対にできないだろうということです。
 なぜこのようなずれが生じるのか。明白な違いは、両者における救いが根本的に異なっている点です。

 「サザンカ」が描きだすのは、いつか救われる人のためにある救いです。努力がいかなる結末に結びつこうと〈君〉は輝くものをもっている。同曲の語り手はそのように信じ、夢を掴み取ろうともがく〈君〉のことをすぐそばで見守り続けます。そして、その献身的な行為によって彼の成功は半ば予定調和的に引き寄せられます。つまり同曲では、周囲の祈りが〈君〉を成功へと導くのです。

 たいする「期待」のほうは、もっと殺伐とした環境に身を置いています。失敗は〈僕〉に無価値さを突きつけ、彼は自分が輝ける自信がまったくありません。しかも〈僕〉には、「サザンカ」の〈君〉のように自分のそばに寄り添って、期待をかけてくる人もいません。そのかわりおそらく〈僕〉は、自分で自分に期待し、おのれが人生という物語の主人公になれると信じてきたのです。けれどもう限界だ。そんな言葉にならなかった叫びこそ「期待」の〈僕〉を言い訳に、すなわち終わりなき無限ループにかき立てる原動力だったと思われます。

 他者からの関心、言い換えるなら承認を梃子に救いを得ていく「サザンカ」と比較すると、その敗北感には救いがありません。限界であることを認めてしまえば〈僕〉はもう自分で自分を救えなくなります。それでも絶望を拒み続けるためにとれる手段を「期待」はどのような形で提示するのでしょうか。

 結論から先に言ってしまいます。忍び寄る絶望に抗い、〈僕〉は無限ループの外に抜け出すことに成功します。そんな結末を得られた最大の要因は、〈僕〉が言い訳しない態度を貫くからです。「期待」の歌詞は、言い訳を押し殺す〈僕〉がその一方でどれほど言い訳したがっているかを克明に描いていました。しかし彼をさいなむ果てなきループは言い訳をしないという姿勢こそが突破させました。いったいなぜ、可能になったのでしょうか。

 そもそも、言い訳がなぜまずいのかというと、体面が悪いからではありません。人間が何かをめざすとき、言い訳をすべきでないのは、そうすることで成長が止まってしまうからです。言い訳を許してしまうと、人間は自分自身に課題を見つけだすことを怠り、能力の頭打ちで夢の実現が遠ざかってしまいます。そうなると絶望の予感は否応なく高まり、失敗で負った心の傷がさらに広がっていくのです。

 そう、言い訳はこうした悪循環の入口なのです。〈僕〉はそのことを予感していればこそ、言い訳を押し殺そうと懸命になりました。とはいえ彼は、同時に言い訳を手放せませんでした。ではなぜ、無力感にうちのめされた〈僕〉は言い訳に溺れることなく、責任転嫁に到るみちを崖っぷちで避けられたのでしょうか。

 期待をしない。言葉にすれば、たったそれだけです。〈僕〉は期待することをやめたのです。無限に続く言い訳探しを止め、その先に待ち構える悪循環を退けるために。

  期待しないってことは/夢を捨てたってことじゃなくて/それでもまだ何か待ってること

 このように歌いあげる〈僕〉が期待をやめた理由。それは自分という存在の弱さを洞察しきった結果でしょう。というのも、弱くて傷つきやすい性質をもった者たちにとって、余計な傷をいたずらに増やすことは後々深刻なダメージとなってはね返ってくるからです。しかもこのとき、期待感もまた自分を傷つける要因のひとつなのです。期待が首をもたげるから私たちは失敗に自己嫌悪を催し、自分で自分を傷つけていく。だとすれば、どんなに不本意であろうとも、今だけは期待することをやめるべきだ。〈僕〉の決断は過去の苦しみと自分の弱さを踏まえ、正しく態度変更をおこなった結果なのです。

 そしてむろん、こうした態度変更は、引用した歌詞にあるとおり、〈夢を捨てたってこと〉ではありません。むしろ夢を捨てないために期待することをやめるのです。かわりに〈僕〉が選んだのは受動的な態度でした。何かと出会うことを待つ、偶然にシフトしたのです。おそらく〈僕〉はいくども失敗した末に気づけたのでしょう。それこそが夢を捨てずにいられるたった一つのやり方なのだと。

 「サザンカ」がいつか救われる人のための救いを描いたとすれば、「期待」が提示したのはこの世界のどこにも救いがない人のための救いと言えます。なぜなら〈僕〉の周りには無関心な人々しかおらず、他方で彼は自助努力をなしうるほど、いまはまだ強くないのですから。

 妹グループである、けやき坂との対応関係をきっかけに、無関心に打ちのめされながら、敗北に負け、だれよりも傷つきやすかった〈僕〉の救い方、すなわち「月スカ」の犯人にならないための方法がここに見出だされました。絶望に陥らないためには期待をやめ、未来の出会いを待ち、偶然に身を委ねよ。それは欅坂の世界観にとって重要な到達点です。なぜならそこには、競争原理に取り囲まれながら、四面楚歌となった人間を助けだすべつな原理。救済原理と呼べるものの一端が顔を覗かせていると考えられるからです。

 もっともこのとき、次のような疑問が湧くかもしれません。偶然を待つことが本当に救いになるのか、と。
 こうした指摘は、実のところそれなりに的を射ています。考えてみれば偶然とは、日々移り変わる天気のようなものです。「期待」の語り手が頻繁に空を見あげ、反対に俯いたりしたのは、彼が気まぐれな性格の持ち主だったからではなく、彼の心理が天候のような偶然性にたえず左右されていることの表れでした。偶然はときに人を翻弄し、むき出しのままでは救済原理の中核には据えにくいものです。

 したがって救済の確かさを引き出すためには、偶然の確かさも同時に引き出していく必要があるでしょう。救済原理のメカニズムをより強固で安定したものにするためには、「期待」の到達点からさらに先へ、考察を進めていかなければなりません。

⑫二人セゾン

 元々のスタートラインに立ち返ると、本論の目的は欅坂の楽曲群に商業的な売上といったその場限りの評価を超えていくもの、すなわち普遍性を見出だしていく試みにありました。そして、主要な楽曲を読み解くことを通じ、目的と合致する概念、普遍的と呼ぶにふさわしい思考の枠組みを掘り起こすことができたと思います。

 現代社会に生きる者全てに突きつけられた夢。そうした夢を効率よく叶えていくために採用される理性的回避。夢を叶えられない者が期待をやめ、受動的に待ち続ける偶然。これらはどれも、私たち人間の営みである人生を、自分の意志をもって、すなわち人生の主人となって生きようとする行為を根本から規定する概念です。

 夢を抱けなければ、大人に支配され、彼らの奴隷となる。理性的回避ができなければ、子供たちの争いに巻き込まれ、無駄なリソースを失う。偶然に身を委ねなければ、言い訳とその抑制という無限ループに陥り、絶望に抗えなくなる。

 とはいえ忘れてはならないのは、これらの概念が自由の行き渡った現代社会の内部に含まれている点です。裏を返せば、生まれつき深刻な身分差別のある世界では気ままに夢を見ることなどできないし、そうした差別にもとづく争い、厳然たる序列がもたらす抑圧は回避できるものではありません。また偶然にその身を委ねたとしても、閉鎖的な村に生まれ、外部との交流がなければ、新たな出会いとめぐりあうこと自体が困難になるでしょう。

 よってここから検討されるべきは、現代社会への適応にすぐれつつも、同時にあらゆる時間軸を超えていき、どれほど社会構造が転換しても人間とその人生を強く牽引し、ときに救済の礎となる概念であることが望ましいと言えます。

 そうした条件にかなう楽曲に、欅坂の3rdシングル「二人セゾン」(以下セゾンと略記)があります。季節を題材とした同曲から導き出される概念は、欅坂の世界観を埋める最後のピースとなります。またそのピースのことを「セゾン」は永遠と呼んでいます。手はじめに同曲でもっとも印象的な歌詞を引用しましょう。

  一瞬の光が重なって/折々の色が四季を作る/そのどれが欠けたって/永遠は生まれない

 先んじて述べるとこの文言は、サイマジョの子供たちが人生で出会うだろう真実の一つを表現しています。背景に隠されているのは、いまだ晴れることのない〈僕〉の苦悩であり、「セゾン」においてそれは失恋という形で描かれます。

 失恋とはいわば失敗した恋であり、愛をめぐる競争に敗北したことと同義でしょう。つまり「セゾン」の〈僕〉は「期待」の語り手と同じく敗北にうちのめされ、自分の失敗を悔いながら、出口の見えない場所へと迷い込んでしまったのです。彼は悲嘆を押し殺しつつも深く傷つき、忘れがたい恋人との思い出を抱えながら、絶望の足音に怯えています。

 欅坂の楽曲群に目を移せば、同じく失恋を視野に入れていた「カタミラ」は、恋人への未練に益がないと判じた結果、それを綺麗に断ち切るべく理性的回避をおこないました。しかし「セゾン」の〈僕〉は哀しみという感情、恋人をうしなった喪失感などを、合理性によって裏づけられた生存戦略で割り切ることができません。「セゾン」の永遠は、こうした理屈を超えた生々しい悲哀のはてにその姿を現します。

 最初から核心部分に触れますが、「セゾン」及び本論の示す永遠はたんなる無限ではありません。具体的に言うとそれは、移ろいゆく時のなかで大切なものが消えてしまうことへの抵抗です。つまり人間が永遠を求めるとき、そこでは有限なものの喪失と、喪失に抗う意志の働きが問われているのです。

 勘の良い人なら気づくと思えますが、ここには「サイマジョ」が告知した戦いのもう一つの形態、四番めの抵抗が刻印されています。新たな項目としてまとめるなら次のようになります。

 (4)人生との戦い(死への抵抗)

 多少大げさに聞こえるかもしれませんが、「セゾン」の〈僕〉は永遠と関わりながら、失恋がもたらした傷を癒すべく、図らずも自分の生死と対峙します。その理由を簡潔に説明するなら、人間が生きて行く際に一番消えて欲しくないものとは自分の命だからです。自分が死ねば、全ては消えてしまう。したがって人生における大切なものとその消失に抗うとき、永遠という概念が私たちの生死と関係をもつのは必然でしょう。「セゾン」が示す永遠とは、ときに人間の全存在を問うてくるほど強い意味をもった概念なのです。問題はこうした大きな括りが「セゾン」における苦悩、すなわち失恋の痛みに思いわずらう〈僕〉をどうやって救い出せるかです。

 そうした救済原理を「セゾン」の内部へと求めていく前に、永遠という概念が実際は三つの形態にまとめられることをあらかじめ明示しておきたいと思います。それらは段階が進むにつれ、概念としての洗練度を増し、最後に「セゾン」の描きだす第三の永遠がサブカテゴリー全体の頂点に立ちます。論より証拠です。まずは永遠の第一段階へと視点を移していきましょう。

⑬第一の永遠「永遠の白線」

 永遠の第一段階に相当する楽曲を、またしても妹グループであるけやき坂の曲に求めます。文字どおり「永遠の白線」(以下白線と略記)と題された同曲は、これから掴み取る夢、目標の位置を示す道標として永遠を用いており、それは無限に続く道のはてに置かれています。というのも、ここで登場する〈僕〉は、限界に直面した瞬間自分の成長が止まり、夢が阻まれてしまうことを恐れているからです。それゆえ彼は、校庭に引かれた白線とその先に設定した永遠というゴールをめざすべく、自分自身を鼓舞するのでした。

 ここにはいっけん空想的に見えつつ、その空想性に溺れない理性の働きが感じとれます。なぜなら〈僕〉は、希望のはてにある夢が、本当は脆くて崩れやすいものであることを正確にとらえているからです。該当する歌詞を引用します。

 そう人は誰も皆/自分から諦めてしまう/よく頑張ったと/言い訳ができればいいのか

 この歌詞には、夢を損なうのは自分自身であるという、「サイマジョ」が描いた三つめの戦いと抵抗が凝縮されています。したがってこのとき、「白線」における永遠とは、彼自身が設定した目標、すなわち夢という大切な願いが消えてしまうことへの抵抗そのものだと言い換えられます。

 けれどもしそうだとすれば、疑問が残るのではないでしょうか。冷静な現状認識を携えた〈僕〉がなにゆえ永遠という概念を空想的に用いるのだろうかと。理性に重きを置くならば、夢の実現可能性を吟味したうえで、挫折感に結びつく戦いを慎重に回避する身ぶりがあってもよい気もします。

 というのもおそらく、〈僕〉はその大きさゆえに、途中で夢を諦めかけています。理性の声に耳を傾け、一瞬我に返ったように〈白線 そんなに引けない〉とつぶやき、本音を洩らしてしまうのです。それでも彼は歌詞の最終盤、自分で自分を励ましながら、戦いの再開を心に誓います。彼方に待ち受けるリスクに足をすくわれず、理性の囁きを退け、夢というゴールを最後まで抱き続けること。そうした思いの強さを再確認するまでが「白線」の描きだすハイライトです。

 もっとも一連の流れにおいて、彼の下した判断に確たる根拠は与えられていません。その理由は、同曲の〈僕〉が失うものをまだ何も持たないからです。

 伝統的に私たちは、日常的な価値判断、すなわち値札を貼って金銭で取引できる物のことを美と呼び、金銭で価値づけできない日常を超えでた物のことを崇高と呼んできました。こうした対立にもとづくなら、〈僕〉の内面に起きたことがおおよそ理解できるでしょう。彼の夢は決して小さくないものに思えつつ、実際のところ〈僕〉は夢の価値の大きさをこの世の全てを凌駕するほどの位置、喩えるなら自分の命と同等のものになぞらえているのです。グラウンドに引いた白線のように夢はまだ途上であり、〈僕〉はその欠片さえ掴みとっていません。ですが、裏を返せば、失うものが何もないからこそ彼は信じられるのです。自分の夢は人生全てを賭けるに値するという崇高な価値判断を。結果的に〈僕〉の精神は否応なく高まるでしょうし、それは人生をがむしゃらに前進させる高揚感へとつながるはずです。

 心の切り替えひとつで一切の現実的なしがらみを断ち切ることは、失うものが多すぎる大人には真似できません。けれど若者は、夢といった対象の価値を通常想定されるより高い場所に設定し、現実を振り切ることができます。なぜならその価値は、究極的には自分だけがわかっていればよく、他人と取引する代物ではないからです。いったんその感覚を学びとれば想像力は自由に働くことができ、矮小な自分と広大な世界を結びつけ、空のはてのごとき高みを夢想してそこにゴールを設定できるわけです。

 こうした「白線」のあり方をまとめるならば、同曲が示す第一段階の永遠は、空想的かつ崇高な考えに裏づけられた概念だと言えるでしょう。その夢へと一直線にむかう姿勢は清々しく、勇ましい。だがこれにたいして後に述べる「セゾン」の永遠は、もっと現実的で夢想とは程遠い特徴をもちます。

 現実的な永遠とはどういったものを意味するのか。それは先に述べたような有限なものが消え去ること、すなわち死への抵抗の有無です。「白線」をいま一度引き合いに出すならば、同曲の語り手はある意味命懸けで、彼にとって夢の喪失は死に匹敵するほど巨大な意味をもつでしょう。しかしそこで描かれた永遠は具体的な実体や有限性はともなっておらず、あくまで彼が夢想した空想の産物に過ぎないという点で、死への抵抗としては不十分なものと言わざるをえないのです。

 本論が論ずる永遠は三つあり、「白線」のそれはまだ入口に過ぎません。ならばもう一つステップを踏んだ先にある、第二段階の永遠はどのようなかたちをとるのでしょうか?

⑭第二の永遠「不死鳥」

 第二の永遠を掘り下げるにあたり、再びSEKAI NO OWARIを参照したいと思います。

 取り扱う曲の題名は「不死鳥」です。この楽曲は、第一の永遠と同様に、〈僕〉の語りを基盤に置きながら彼の願望としての永遠を歌っており、同じく喪失への抵抗を描きだしています。では何が異なるのかというと、第二段階の永遠はそれが空想ではなく、現実に存在するという前提に立ち、作品を構成している点です。

 「不死鳥」はロボットと人間である〈僕〉の恋愛をテーマとしています。具体的に言うと、ロボットは不死身です。つまり彼女は永遠を生きる存在と言えます。そしてその事実は〈僕〉を悲しませます。なぜなら永遠を生きることができない〈僕〉は、いつしか愛するロボットと別れる運命をたどり、二人はひとりぼっちになるからです。そんな世界など、たとえ天国があろうと意味がない。だから〈僕〉は不死鳥に願うのでした。〈僕に永遠を与えてください〉と。そして祈るように歌うのです。もしもその願いが叶うなら〈僕は君と永遠になる〉だろうと。

 しかし同曲は最終盤に転調を起こします。ロボットの視点から見れば、これらの構図は真逆であったことが明らかになるのです。彼女は永遠などいらないと言います。むしろ欲しいのは死であり、それこそが〈今を大切にすることができる魔法〉だと健気にも口にします。それを受けて〈僕〉も考えを変えていき、永遠を生きるロボットである〈君〉に死が訪れることを願いはじめます。そして彼は結論づけるのです。だれかを愛することにおいて一番大切なのは、いまこの瞬間におけるつながりとその尊さで、はてなき永遠ではないのだと。

 「不死鳥」で対立しているのは、無限と有限です。そして後者に軍配があげられました。そこにはどんな意味が隠されているのでしょう。少し図式的ですが整理を試みます。

 第二の永遠は現実として扱われると本論は言いました。「不死鳥」における不死のロボットという存在は永遠を現実の一部とみなすために召喚された装置です。そんな装置に支えられた「不死鳥」は、最終的に恋人に死が訪れる世界を肯定します。二人で生きる時間がずっと続いて欲しいと願いたくなるほど、つまり永遠を求めるほど愛しい恋人がいたとしても永遠はいらないと。なぜなら「不死鳥」の語り手は、いまこの瞬間の尊さに気づくことができたからです。有限こそが幸福の条件である、それが〈僕〉の出した結論なのでした。

 しかしこのとき、永遠が完全に否定されたのではありません。それどころか彼が得た有限性の価値は、不在の永遠に支えられていると見るべきです。どういうことでしょうか。

 確かに人間にとって永遠は存在しません。ですが人生が有限だからこそ、いつかは失われるもの、この場合ロボットの恋人と過ごす、いまこの瞬間が輝きを放ちます。本当は永遠なんてない。けれどそれゆえに私たちの生きる世界は、恋人と過ごす時間や思い出を色褪せないもの、すなわち永遠にしてくれる。そして二人のいまこの瞬間における頼りない結びつきを宿命のごときものへと高めてくれる。

 こうした有限こそが永遠になりえるのだという認識こそが、第二の永遠の真骨頂です。永遠は人間にとって不在でしかない。しかしそれがたとえ存在しなくても、心から喜ばしく思う出来事やともに過ごす恋人の何気ないしぐさが、まさにその不在によって永遠の一部に感じられるのです。

 以上に述べた認識は、いっけん真実に見えます。ですが本当は、不在を媒介にある論理をうち立てており、まったく偽りなきものと判じることはできません。

 不在の神のような、ある種の欠落を中心に論理を立てることを一般に否定神学と呼びます。人間とはたとえ現実に存在していなくても、それを必要とする限り、むしろ不在の事実こそを根拠に思想を正当化してしまいます。否定神学とは、そのとき用いられる正当化の論理です。有限だからこそ永遠が生まれるという信念は、まさにこうした否定神学を根拠としているわけです。

 したがって第二の永遠は空想的でないという理解は、否定神学のベールを取り去ると実は不在を媒介とした無根拠なものだとわかるでしょう。「不死鳥」における永遠は、有限を無限に転倒させる願望に取り憑かれ、その現実性を損なっています。つまり同曲の〈僕〉は一度は有限性に軍配をあげたように見えつつも、本当は死んでも無限を手放す気はなかったのです。彼は、恋人を失いたくないがために、永遠という死への抵抗を利用することで、二人の愛を死後にも残そうと企てたのです。

 世界に永遠はなく、有限こそが永遠だ。こうした認識はいっけんするとロマンティックに映るかもしれません。ですがこのとき、否定神学的な、すなわち本当は存在しない第二の永遠を受け入れた「不死鳥」は、有限な物事の積み重ねに意識を払いながら、実際は二人の分ちがたい愛、宿命のごとき結びつきに引き寄せられます。その結果、出会いや告白、揉め事や仲直りといった偶然に属するはずのものたちが必然という宿命の光をおびる一方で、宿命とみなせない偶然は人生からどんどん排除されていくことを本論は見逃すことができません。偶然が必然に転じるような生き方は、予測不能な変化を否定する点で一種の現状維持、万能な自己肯定とも言えるでしょう。なぜなら人生のイベントを受け入れ可能な偶然とそうでない偶然に峻別し、前者にのみスポットライトをあてていけば、人々が経験する出来事はおしなべて永遠の彩りをまとうからです。しかしこうした態度に見出だされるのは、必ず訪れるだろう悲喜こもごもの思い出を愛でる懐古的視線であり、混沌とした未来を切り拓いていく姿勢とはまったくの真逆だと言わざるをえません。

⑮第三の永遠とニーチェの悲劇

 世界と個人をなし崩し的に結びつけ、人間の営みから偶然と変化を奪い、未来すら懐かしむ態度を植えつけること。そのような仕組みほど、「セゾン」の永遠とかけ離れたものはありません。またどちらにしろここまで述べた二つの永遠は、私たちにとって真の意味で有益なものと言いがたいです。永遠とは、移ろいゆく時のなかで大切なものが消えてしまうことへの抵抗だと述べましたが、第一の永遠はそれをまだ手にしておらず、第二の永遠は手にしたものを死んでも離そうとしない。これらはともに欠損を抱えており、永遠としては不完全なものです。

 しかし第三の永遠、つまり「セゾン」の描きだす永遠は、どちらの要素にもくみしません。それは現実的でありながら、大切なものの喪失から生じ、偶然を必然とはみなさない。それはすでに予告したとおり、失恋という状況に根ざしています。「セゾン」の物語は、失敗した恋を描く。そしてその導入部は、時系列順で言うと次のような挿話からはじまっています。

 語り手である〈僕〉は他人とまじわらず、同級生から孤立しながら生きてきた。携帯音楽プレイヤーを聞くことで両耳を塞ぎ、周囲を拒絶していた。そんな〈僕〉にたいしてある日、後に恋人となる〈君〉が現れ、突然〈僕〉のイヤホンを外すという行動に出た――。

 これらを欅坂の世界観に照らし合わすと、理性的回避を常套手段としてきた男子生徒が、想定外の恋に落ちていったという筋書きが取り出せます。合理性がもっとも嫌うのは予測不能な対人関係です。けれど理性の警戒網をくぐり抜けた〈君〉は、イヤホンをそっと外した程度で〈僕〉の心を奪い去ってしまったのです。

 上に述べたようなストーリーはしかし、そこから悪い方向へと動きます。〈僕〉を理性から解き放った恋は、四季を一巡しかけた頃に〈君〉の転校で終わりを迎えたらしく、出会いの瞬間と同じかそれ以上の偶然でもって、二人は離ればなれになったことが暗示されています。

 「セゾン」の描きだす第三の永遠は、こうした恋人の喪失に抗おうとする結果、前面にせり出してきます。一度失われた恋は元に戻りません。しかしそんな悲しい結末を〈僕〉は受け入れることができないのです。

 このとき注意をむけたいのは、第三の永遠という抵抗が悲劇とともに立ち現れてくることです。
 哲学者のフリードリヒ・ニーチェは、理性的な神と熱情的な神を対として、両者の性質を併せもった悲劇を最高の芸術形態としました。ニーチェによれば、古代ギリシア人は、理性的で勝ち誇る神々の世界を造形芸術という形で創造しました。その目的は、生存の高みをめざす過程で生じた苦悩を否認し、自分たちを理性的な存在として肯定することにあったといいます。

 もちろんこうした現実否認は、本当の自己肯定、つまり救いをもたらしません。そのことを理解するニーチェは、真の救済とは、音楽芸術に象徴される熱情的な神の力で、理性の覆い隠したベールがはぎ取られることから生じると説きました。それによって理性と熱情はせめぎ合いますが、両者はやがて調和へと到り、人間に真の救いをもたらします。古代ギリシア人たちはこうした仕組みを悲劇という芸術を通じて完成させ、ついに長年押し隠してきたみずからの苦悩を肯定するとができたのです。

 これを本論の言葉に置き換えると、合理的な対人関係を営む語り手が、恋という熱情に駆られ、苦悩にまみれつつも最終的に救いを得るようなものです。その構図は、まさしく「セゾン」の物語がたどろうとする道そのものでしょう。なぜならサイマジョの子供たちは、ニーチェが描きだす古代ギリシア人と同一の心性に貫かれていると考えられるからです。

 前者は坂の上の雲のごとき夢を叶えようとしながら、その過程で失敗や絶望に襲われる。後者は神々を仰ぎ見てその高みをめざすが、そのための困難や神を冒涜した罪に苦しめられる。このとき理性は、そのどちらにおいても、人生で受けた傷を覆い隠して、自分の気高さをあくまで勝ち誇りたい。欅坂の楽曲群の場合、それはもっぱら「エキセン」や「カタミラ」のような理性的回避という形をとり、孤立をむしろ名誉としました。古代ギリシア人の場合、造形芸術を創り出すことで理性的な神々をこの世に顕現させ、そこに自分たちの姿を投影しました。

 ところがニーチェの悲劇は、そうした神々のもとに抑圧された熱情の神がいたことを暴きたて、それこそが人間を動かす力の源泉としたのです。同様に「セゾン」においても、秒速で落ちた恋は〈僕〉のあり方を変え、理性を押し退けるほど激しい熱情が溢れ出しました。そして失恋を経験することで、心の傷を最小限にとどめる回避を許さない、いまだ汲み尽くせぬ〈君〉への悲哀に満ちた恋心が残りました。

 このような構造において本論が求めたいのは、「セゾン」における苦悩、失恋の傷に苦しむ〈僕〉をどうすれば確実に救えるのかという問いへの答えです。設問に答えていくヒントは、「セゾン」の描きだす苦悩が葛藤の形をとることにあります。失恋を受け入れれば救われるのか、断固として抗い続けることが救いとなるのか。この葛藤の特徴は、どちらを選んでも苦悩が解消するとは限らない点にあり、一歩間違えば〈僕〉を袋小路に陥れかねないことです。

 これまでの議論を踏まえると、こうした葛藤には「期待」が描いた無限ループの罠が重なります。言い訳をしたくて堪らないが、同時に言い訳を許さない〈僕〉の内的な衝突。「期待」の場合、偶然を待ち続けるという態度変更がこうしたループをかろうじて止めました。ならば「セゾン」においていかなる働きが同様の役割をはたすのでしょうか。

 近年進んだ脳研究によれば、人間の外部から入ってくる外的情報(五感)にたいする注意と、内側から湧き起こる内的感覚(思考)にむける注意はちょうどシーソーのように一方が増えれば他方は減るという相関関係にあるといいます。

 以上の知見を「期待」にあてはめると、語り手の〈僕〉は偶然という外部情報に意識を傾けつつ、内部の葛藤をクールダウンさせようとしたと理解することが可能です。そしてさらに重要な点は、こうしたアクションは「セゾン」においても同様に機能していることです。具体的な歌詞を提示します。

  道端咲いてる雑草にも/名前があるなんて忘れてた/気づかれず踏まれても/悲鳴を上げない存在

 失恋に傷ついた少年が風景に注意をむける。それはどこか気休めにも映る行為ですが、「セゾン」の語り手は、こうした道端の雑草のような人間から無視される事物にたいして並々ならぬ関心を寄せます。葛藤をクールダウンさせるという観点から見れば、そこには感情を言葉で処理することには限界があり、いっそ答えを頭で考えるのは止めるべきだ、という発想が垣間見えます。そしてこのとき意識をむけるべき外部情報の一つに選ばれたのが道端の雑草という、実に些末な事物なわけです。

 とはいえこれは、単純な風景の一部ではありません。「セゾン」の語り手である〈僕〉は、普段は意識にのぼらないものたちに風景以上の存在感を見いだしていきます。〈一瞬の光〉が重なって四季を作り出すものたち、「セゾン」はそれを永遠と呼びました。それは季節を構成するものでありながら、道端の雑草と同じく私たちの外部に置かれているという点で、人間の内部で暴れる葛藤を冷ますものと言い換えることができます。

 ここで「不死鳥」があくまで恋愛のあり方に執着したことを思い出して下さい。「セゾン」も恋を取り扱う限りにおいて、同じ立ち位置にあるはずです。よって素朴に捉えるなら、第三の永遠のあり方は第二の永遠の別バージョンと見なせなくもないです。なぜなら主題を恋愛に限定すると、人生でもっとも尊いものは〈一瞬の光〉が示す有限のなかにあり、そこからは永遠、つまりどれほど時が経っても色褪せないものが生まれ、人々の人生を照らし出すという答えが導き出せるからです。むろんそのとき、恋人と過ごす大切な時間のみが〈一瞬の光〉となり、それは変えがたい宿命となる。ですが注意深く見ていくと、「セゾン」の永遠はそうした宿命を超越しています。なぜなら第三の永遠とは、永遠を構成する一瞬を恋人とは無関係な事物に、それこそ道端の雑草との出会いにおいても見出だそうとするからです。

 あらためて整理すると「セゾン」の描きだす悲劇は、内的葛藤(熱情)と外部に永遠を見いだす眼差し(理性)の共存として理解できます。そこに熱情しかなければ、第二の永遠になるでしょう。けれど「セゾン」の世界には、個人の枠にとどまる宿命を超え出たもの、道端の雑草として表現されたような〈一瞬の光〉たちが外部にわだかまっており、それは人間の外側にありながらも内側とバランスをとることで、私たち一人ひとりに変化を与えていく。つまりこのとき、熱情の激しさにもかかわらず、熱情と理性は揺れ動くせめぎ合いのなかで調和しはじめているのです。なぜなら〈僕〉は〈君〉との思い出を超え出た事物、道端の雑草のような熱情と無関係なものを理性的に認識し、それも永遠を構成する〈一瞬の光〉として自分のなかへ受け入れようとしているからです。ここには第三の永遠の働きが、すなわち人間の外側と内部のバランスをとり、両者を同調させ、調和をもたらす仕組みが機能しています。もしニーチェが言ったように、熱情と理性の調和こそが苦悩の肯定につながるのなら、これはいわば、葛藤を解消する答えが出ないまま、苦悩を受けとめるための答えが見つかった状態と言ってよいでしょう。

 本来求めた答えが出ないまま救われようとしている。本論はそうしたアクロバティックな答えを出そうとしています。ですが、突飛なことを言おうとしているのはではありません。なぜなら苦悩を受けとめるための答えとは、能動的に導かれたもの、つまり意志決定にもとづく解答ではないからです。世界の本質はむしろ人間を受動的にさせる。〈一瞬の光〉とは端的な外部、すなわち予測できない偶然の出会いそのものであり、それらは葛藤を解き放つ答えがなくても、人生に驚くほどダイナミックな変化をもたらし、人間を新たな存在へと変えていきます。第三の永遠と触れ合う体験を経た〈僕〉はこうした働きをリアルに感じとったはずであり、おそらくはそこで得た鮮烈な実感をこめて〈生きるとは変わること〉と歌いあげたのです。

 私たちは第三の永遠に取り囲まれた世界に生かされており、そのおかげで変化というものを享受し続けている。〈僕〉を葛藤から解き放つような答えは導かれないままです。けれど彼の理性は常に外部を眺めやり、そこに日々永遠の表れを見つけだしながら、心に溢れる熱情と調和させ、悲哀を癒していくのです。

 振り返ると本論は、現代社会を動かす競争原理を下敷きとしつつ、それに対抗しうる救済原理を求めて「セゾン」へとたどり着きました。そして理性と熱情のせめぎあう悲劇を伏線とし、それらの調和こそが苦悩の肯定に結びついていくことを示しました。同曲の描きだす第三の永遠は、葛藤がもたらす堂々めぐりを生存戦略による回避でやり過ごしたり、それを宿命と割り切ったりするのとは異なる形で〈僕〉に変化をもたらし、そうした変化自体が苦悩を肯定する力となっていきます。そこに悲しみを解消するだけの答えはありません。けれども悲しみを癒す変化はもたらしてくれます。ここに「偶然に身を委ねよ」というメッセージの残響を聞き取るのは誤りではないでしょう。

⑯この世界に何を残すか

 現代社会に生み落されたサイマジョの子供たちは、競争と対人関係に明け暮れ、窮屈な人生を余儀なくされています。けれど、そうした子供たちが自分の外部にある儚い存在、無数の一瞬に気づくことができるようになりました。「セゾン」はそうした変化、事後的にもたらされた人間的成長を切実に歌いあげます。その成長がはたして何を意味するか、答えは自明でしょう。競争に勝つために昨日より強くなったのではありません。人間との関係を超越した、あらゆる一瞬に満たされている世界とのつながりを通じて、自分という存在の在処をはっきりと掴みとれたのです。

 「セゾン」は最後のフレーズに〈僕もセゾン〉という謎めいた歌詞を残していましたが、そこに秘められた意味はもはや明らかでしょう。自分もまた季節なのです。目もくらむほど長大な時間において輝く〈一瞬の光〉の一つなのです。「期待」や「不死鳥」が扱った主題は個人のレベルにとどまっていました。しかし「セゾン」の主題はより広い外部にむけられています。無数の偶然が行き交う場所で、新たな出会い、新たな愛を待ち続けていくこと。そこには〈君〉を宿命とみなす態度はありません。〈僕〉もまた季節であること。個人的な利害、恋人との間に築いた二者関係を超え、たえず新たな自分へ変化していくこと。さらには、偶然を待ち受けるばかりでなくそれらの、すなわち永遠の一部になっていくこと。そんなあり方こそが、「セゾン」の導き出した〈僕〉の姿だと言えるでしょう。

 自分を永遠に見立てつつ、世界と関わっていく行為。そんな能動性が発揮されるとき、本論が四番めに掲げた戦い、死への抵抗が本格的に機能しはじめます。

 たとえば世界は、ほんの気まぐれに私たちを死へと到らしめる。このとき人間は、それをある種の敗北と見なすでしょう。死は全てを奪い去る。どれほど幸福に満ちた人生でも最後は負けるのです。なぜなら人間は皆、必ず死ぬからです。どれだけ間違いなく人生を構築し、夢を叶えながら成功を収めようと、人間は皆破滅を抱えた悲劇の主人公なのです。

 この認識は圧倒的に正しいと思われます。ですが「セゾン」が示した第三の永遠とは、突き詰めて言うならそうした破局的な結末にたいする抵抗に他なりません。つまり同曲は、私たちにたいして問いかけているのです。もし自分が死のうとも、消えてしまってはいけないものがあるのではないかと。自分という個人の枠を超え、外部へと開かれたもの。だれかと共有できるもの。時代を超えて受け継がれるべきもの。君たちの考える普遍性。それが何かと問いかけているのです。

 個人の人生を超えたものを思考し、形や行動に変え、後の世代へと残すこと。それらは絶えることなきリレーにも見えますが、だれが一番になるかは問題ではありません。問われるのはそこで何を受け渡すかです。よってこのとき、人間だれしもがこのリレーの当事者となりうることが理解できるでしょう。また同時に、競争原理からはみ出した救済原理の正体がここにあることにも納得がいくはずです。なぜならこの原理は、人間の人生に意味を与えるからです。たった数回の失敗でその意味が減じることはありません。いくどだって立ち向かって、死に抗うことができます。一つの競争に負けても、べつの競争へシフトすれば、同じくらい大切なものをこの世界に残していけます。欅坂の世界観は競争原理に貫かれていました。けれど、それとは相反する救済原理が担保されていたことも、「セゾン」とそれが描く第三の永遠によって明示できたのではないでしょうか。

 人間とはいったい何を残していくべき存在なのか。このとき「セゾン」は、永久に探求されるべき謎を私たち一人ひとりに問うていると思います。人間という種に刻まれた消えることのない刻印を。

 普遍性とは何かを考えるにあたり、それは時代を超えていくものだと本論は捉えました。たとえ百年後でも、千年後でも、人間の心をうち、考え方を変え、行動に走らせるものだと言いました。「セゾン」の突きつけた問いも同じです。それはどれだけ気の遠くなるほどの時間が経とうと、その時々を生きる人を悩ませ、大いに苦しませるたぐいの問いです。

 無限にも匹敵するような死への抵抗の連鎖は、ある意味呪いという他ないです。しかしそうした呪いを解き、人生に意味を与える鍵の存在を「セゾン」は私たちに教えてくれました。その鍵を平等に見つけだすための地図は、もうここにあります。呪われた人生に喜びをもたらす鍵の地図がそこにあります。

 失敗にうちのめされ、苦悩する、一人ひとりのそばに。そしてまだ見ぬだれかのために。

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