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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第160回 第126章 医師としての父を回顧する

 父が亡くなってからの2年の間に私は高校に進学していた。札幌の大都市化を背景に鉄道の南北で学区が二分されていたころは、うちの中学からは受験が制度上認められていなかったのだが、その後学区制の複雑化による弊害を緩和するために、全市で一区に戻っていた。その恩恵で、私はサファイア高に願書を出し、幸い合格でき、父が首席で卒業した同じ高校の後輩になったのだ。そのことを父は知らない。難関の入試の合格者の中で塾に行かせてもらえていなかったのは、たぶん私ひとりだけだった。こうして高校生になってから父の3周忌の法事をうちの寺で行った。身内以外に案内状は送らず、お寺の行事予定にも発表していなかったのに、私たち家族も知らない元患者さんたちが120人近くも泣きながら参列してくれた。私が詰め襟の左側に生徒会長のバッジを付けた中学校の制服で出席した父の葬儀の際に、それぞれ2年後の予定表に「丸先生3周忌。お花。合掌」という予定を書き込んでいたそうなのである。急遽、手漉き和紙の最高級品の芳名帳を用意した。達筆の高齢者が多く、父と正反対に字の下手な私は恥じ入る思いだった。
「丸原先生には難しい手術をご担当いただきまして、こうして再び歩くことができるようになりました」だとか、「高額医療費の件で鑑定意見書をいただいたお陰で、本来は出なかった保険金が出て命拾いをしました」だとか、父に感謝している、との言葉が続いた。何人もの参列者が、「もう私たちは高齢ですので、次の回は出られないかも知れませんが、天国に行きましたら、直接先生にお礼を申し上げられます」と話して帰って行った。父が名医であったかどうかは知らないが、良医ではあったようだ。実の息子である私が知らなかった父のそうした面を知っていた患者たちに、私はずるいぞあなたたち、とやるせない思いを抱いた。私は生前の父とほとんど話らしい話をすることができなかったのである。
 私の小学校の入学式の時、父は前日午後4時過ぎに出された出張命令に引っ掛かって欠席し、卒業式では急患の緊急手術依頼が来て中途退出して行った。ボクが壇に上がって卒業証書を受け取る数人前だった。宿題を一緒にやってもらった記憶もないし、運動会にも学芸会にも一度も来てもらえなかった。その度に、「今度な」「来年な」と言われ続けたのだが、結局、今度も、来年もなかった。
 字が父の名前を冠した字体として市販されてもおかしくないほどの上手さだったのに習字も教われなかった。人生戦略の策定にも関わってもらえなかったし、受験対策指導も何も受けることができなかった。ボクが自転車に乗れるようになったのも、たまたま同じクラスの友だちがその父親から習っているのを横で見ながら自分で何度も転んで痛い思いをしてであった。医師の人生って何なんだ。家族は深夜まで放ってばかりで、自分の命を削ってまでしてアカの他人にばかり親切にしている。日曜も休日も正月さえ、うちにはなかったのだ。わが家は、災害救護班待機所のような有様だったのだ。
 この集まりに来てくれた東京の叔父・叔母夫妻から、あの帆船の由来について、プレゼントしてくれた当時の話を聞くことができた。4方向から撮影した船のカラー写真も譲ってもらえた。見た途端に私は叔父の胸に抱きついて泣いた。そんなことをしたのは、後にも先にも一度もなかった。あの襲撃を受けた日の悔しさが蘇ってきた。動かなくなった父の胸部を思い出した。この親戚は、私の順調な成長具合と、まだ小学生とは言え、学校の成績が札幌でも旭川でも学年トップを通していることが誇らしくて、人間国宝だった横浜の船大工職人に頼み込んで特別に作ってもらったのだそうだ。
 学年1番の成績だった国民学校を父親の急死で即日やめさせられて、食い扶持減らしのために親元から遠く離れた土地に、継ぎの当たった下着と、おかずも何もないおにぎり2個と竹の水筒だけを入れた風呂敷包み1つを肩から背負わされて、停車場まで誰の見送りもないまま4里の夜道を歩かされ、ひとり2等列車の片道切符で追い出され、親方にたびたび殴られる丁稚奉公に入らされて以来70年近く続けていた生業を終えて老人福祉施設に入居する前の最後の仕事として引き受けてくれたのだった。何年も乾燥させた最高級の檜材を基本に、可動部には桜を使うとか、構造上誰の目にも触れることのない部分にも匠の技を駆使し、配慮を加えた。しかし、その心血を注いだ、高価で海外の美術館に買い上げられてもおかしくないほどの傑作は、どこの誰だか分からない人間に壊されてしまった。その帆は、北海道の短い夏空の下に吹く、誇らしい風を受けて船を前に走らせる光栄な役割をただの一度も果たせなかった。
 古代のインドや中国や中南米でも、中世の欧州や西アジアでもどこでもいいが、通りを歩いていて、落ちていた金貨を見つけて拾い上げた者もいれば、物陰に潜んでいた追い剥ぎに襲われて命を落とした人間もいただろう。人間の運不運は紙一重である。
 島根、鳥取などと並んで、大地震の可能性が低いと予想されている上川盆地の中心都市旭川は、あえて言えば首都候補地のひとつですらある。戦前、弘前などと同様に師団司令部が置かれていたため街の格が高かった。十分な面積の土地、豊かな後背地、水、森林その他の資源に恵まれていて空港もある。美瑛、富良野も旭川の医療機関に大きく依存している。北に偏しているが、ベトナムの場合にも、首都所在地は国土の北の方のハノイであり、南の大都市・ホーチミン市でも中部の旧都フエでもない。アメリカの首都も大陸の東側で、南部への配慮から、ニューヨークでもフィラデルフィアでもない、もう少し南のワシントンDCに定められている。旧ロシア帝国に至っては、広大な版図のほぼ西端でバルト海に面したサンクト・ペテルブルクが2世紀以上も帝都だった。まして、インターネットにより従来の地理的制約が大きく崩れてきている現在、一国の首都がその国の中心近くに存在していなければ不都合な場面は減ってきているのではないだろうか。
 ところが、長年国の中心だった近畿から見れば、この日本列島の一番北の主要な島は北東に位置しており、風水によれば、この方位は鬼門とされている。すると、父は自分にとって決して向かうべきでなかった不吉な方角に生涯に2度も連続して進んでしまっていたことにならないか。つまり、まず生まれた京都から北海道へ、そしてその道内で札幌から旭川へである。これら後者のふたつの街のいずれにも別に何の罪もなかったのだが、その札幌で生まれ、旭川に行かされた私としては、風水の主張は無視できないと感じざるを得ないのも事実である。
 私はあと数年で、父が亡くなった年齢になる。そこから先は想像が困難である。息が詰まる思いがする。あのとき小学生だった私が父より年が上になる? どういうことだ、それは? 吉行エイスケはわずか34歳で亡くなった。その妻、あぐりはその約3倍も生きたのである。私は平均余命より少なくとも10歳は長く生きたい。父さん、あの日、公園に行ったのは、オレがそう頼んだのか、それとも父さん自身が決めたのか? 虚しく、哀しくなる。体中の筋肉がこわばり、モーフィングで見る間に50歳も老ける感じがする。
 この先結婚するようになったら、その妻にだけは聞いてもらおう。顔を両手で覆わず、嗚咽せず、呼吸困難にならずに話せる自信がつけばだが。
 さあ、もう、この話はやめよう。せっかく夏を迎えているのだ。しかも4連休も取れて今日はその初日だ。最終日は夏至、父の誕生日だ。

第127章 硯海岸へのドライブ継続中 https://note.com/kayatan555/n/ncb481dce7646 に続く。(全175章まであります)。

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