見出し画像

『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第77回 第63章 医学部に入り、ヨット部入部

 私の放った渾身の火矢が武蔵野台地で祝福の炎に包まれたあの日から丸4年が過ぎ去ろうとしていた。祖父、母、兄の家族全員が卒業式に来てくれた。父さん、オレのこの卒業証書見えるか。父さんの名前が1文字入っているよ。オレは、このオレは、憧れの黒澤外国語大学を卒業したんだ。これから黒外出身者の端くれとして、綺羅星の如くの人脈形成可能性には、目が眩く感じるほどである。
 ボクは、高2の時の約束に従って外国語専攻の大学の次は医学部に進学しなければならなかった。そのため、もちろん時間がごく限られてはいたが、黒澤外大在学中も受験対策として数学、物理、化学の基礎学力を温存・維持するように努めていた。各科目の最新の学習参考書を買い揃え、これまた買い替えた真新しい問題集の最重要問題を解き、そのノートを写メに撮って祖父宛に送らされていた。小うるさい監視だったが、この執拗で非妥協的な干渉も功を奏して、卒業後都内の予備校に1年間という最短の期間通うだけで合格することができた。物理と化学の勉強は、日本語でやると名詞の単数・複数の別が基本的に表示されない欠陥があるため、途中から英語で書かれた問題集を手に入れて解いていた。これで、この2科目は理解しやすくなった。だが、あの看板だけ派手な予備校、あの授業内容と低い天井で授業料290万円は高すぎなかったか? 教室内の酸素不足を感じたほどである。
 蕾の数が毎年目立って増えていた通学路沿いのハナズオウは、あの年の春も紅紫色の花を咲かせた。ピカピカの新入生だったときから数えると6回目の華やかな光景であった。空港周辺で偶然ほんの数分間だけ降った明るい春の雪に見送られ、ボクは十分に慣れることができない状態に慣れていた東京を後にした。今回は包帯ぐるぐる巻きのすし詰め航空に乗るのではなく、自分で操縦するオートジャイロで凍り付きながら、渡り鳥の群れと並行したり、その中に巻き込まれたりしながら本州上空を北上して、北海道に「帰国」した。西荻窪にはしばらく来ることはないだろう。
 世界中で大都市化が進んでいるが、西荻窪駅が1922年にでき、関東大震災の被災者の移住、飛行機会社の立地がこの付近の人口増を促進した。5年しかいなかったとは言え、数多くの著名人が住んできたこの街の住人だったことは一生誇れる経歴だろう。Nishi Ogikuboは、ボクにとっては生まれた札幌に次ぐ第2の故郷と言ってよい。
 現在もそうなのかは不明であるが、80歳を超えてもなお現役バリバリのマンガ家である東海林さだおも仕事場を長年この地に置いていた。サラリーマン経験のない同氏が、なぜ多くの国民の共感を得られる作品群を描き、さらに文をものすることができるのかは謎である。
 現役生に比べて都合5年遅れて医学部に進学したのだが、何と同じ医大を連続受験して5浪でやっと合格して入学してきた受験生もいた。18歳と23歳とではなかば別の生物である。その期間に両生類から爬虫類にまで進化を遂げていたのではないだろうか。普通の人類から出発していたら、エスパーにでもなれていただろうか。何だか、お茶の会で、特別座高の高い客と同席させられたような気がした。躙り口は、リンボーダンスの練習用ではない。背骨がバキッと折れてしまう。
 ボクの入学よりずっと昔のことである。医大キャンパス隣接の三ヶ月湖の端で、近所の子どもたちが風に吹かれながら手製の小さなヨットを水に浮かべて遊んでいることがあった。粘土プールと呼ばれていた場所であるが、その後2度の洪水で決壊してしまい今はもうない。ヨットはバランスの悪い粗末な作りで帆の傾きがひどく、何度も倒れるのだが、それでもそのたびに泣く弟をお兄ちゃんに見える方の小学生がなだめては(上の子は逃げ場所がないんで、辛いんっすから)、なお頑強に船を前に進ませようとしていた。舳先付近には、絵の具を使って書いたような船名が見えた。
 その近くでは、どこかのお爺さんが中国の伝統的な英雄を自分で描いたらしい凧を揚げようとしていた。ところが、風が頻繁に方向を変えるせいで、うまく行かないでいた。よれよれになったステテコ姿で、戸外なのに捨てる間際らしい傷んだ室内用スリッパを履いているのだが、ランニングの隙間から背中に数カ所ミミズ腫れが見え、痛々しい。すると、その奥方らしい女性が革の鞭を振り回しながら近付いてきて大声で言った。
「このクソじっこ、あんたの60年のだらしない生き方で、わたしの人生滅茶苦茶にされてしまったわ。一体、どうしてくれるのよ、え? 答・え・な・さ・い・っ・て。ええい、これでもか、これでもか」
「あー、オレが悪かった、 オレが悪かった。痛いっ、血が出てくるぞ」
 どのような曲折を経れば、このような夫婦が生まれるのだろうか。すると、順風になったのか、凧の方は急に角度を変えて翻り始めた。
 この様子を見ていた学生の1人が、「俺たちもやってみないか」と言った。凧揚げでも、ステテコでも、まして鞭でぴしーの方でもない、船遊びの方である。これが我々石狩川三日月湖医科歯科父ちゃん一杯薬科大学ヨット部の発足の元となった事件であった。言わば創世記である。

第64章 クラブ新設 https://note.com/kayatan555/n/nf591f230f475 に続く。(全175章まであります)。

This is copyrighted material. Copyright (C) 2018-2024 by 茅部鍛沈 Kayabe Tanchin « Kayatán », 新 壽春 Atarashi Toshiharu. Sapporo, Hokkaido, Japan. 石狩湾硯海岸へ接近中は、新 壽春の登録商標です。All rights reserved. Tous droits réservés.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?