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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第78回 第64章 クラブ新設

 英語でhorned moonともいう三日月はイスラム教の象徴である。三日月湖はcrescent-shaped lakeやoxbowであり、石狩川が右に左にグレまくって蛇行した際に各地に複数形成されていたクロワッサンの形をした水域であった。それらの大部分は河川改修工事で直線化させられてしまったため消滅した。だが、その理由は不明だが、江別太に近い場所に比較的大規模な三ヶ月湖がただ1箇所残っており、そのほとりに我々の大学が立地したのであった。この極小の湖ないし大きめの沼は流れから切り離されてしまったとは言え、アラル海のように干上がって行かないだけの水量があった。ベルリンの壁に取り囲まれたかのように出口なしのアクアビオトープに閉じ込められた各種の魚やその他の生物がその後も豊富に生き続けたため、開学から数年間は、給料の安い助手や事務職員らが、釣り糸を垂れて魚を釣ってはタンパク源にしていた。ほおかむりをして学長も横に並んだ。
「私、日本式の管理職は苦手でしてね。残った人生、臨床研究だけしていたいんですよ。あのままアメリカに残るべきだったなあ」
 当時まだ貧乏だった学生たちが、そのアメリカの雑誌を参考にして手作りで最初のディンギーを作ってみた。遠目にはちゃんとしたヨットの形になっていて、内輪の完成記念式典の写真も残っているのだが、誤訳をしてしまったのか、船体を木造モルタル塗りにしたため、進水式でそのまま海底に沈んでしまった。これで初代主将の名前は永久に呪われることとなった。その名前を早矢吹法螺男(はやぶき ほらお)と言った。そそっかしさで知られ、病変した組織には手を付けず、隣の健康な臓器をちょん切ったとして誤診で訴えられ、法廷闘争をしている間に打ち合わせのためにチェコ製の中古モペッドで訪れていた先の弁護士事務所で急性心不全でおっちんでしまった。
「わたし、成功しないんで」
 このような頓挫から、初めは海に関係ない活動しかできず、せいぜいどの運動部にも共通する基礎体力をつける訓練の他は、幼稚園のお遊戯のように折り紙でヨットを作る程度しかできなかったそうである、というのは事実ではない。実際には創部後、まだあまり気温が下がっていない時期までに意外な幸運が続き、ほどなくして中古の一艘が格安で購入できることになった。そのため、ごく初歩的ではあったが操船の練習ができるようになったのである。もしあなたに何かやりたいことがあったら、ともかく始めて見ることが大事である。そうしているうちに、きっと何とかなるものである。人生は慎重であるべきだが、失敗の可能性にばかり気を取られていると、誰にでも容易に突破できたはずの程度の低く薄い壁にさえ前途を阻まれてしまう。ゼロはいくつ足してもゼロのままだが、100分の2でも3でもプラスの成果を積み重ねて行くと事態は好転して行く。
 数年は不自由をかこっていたが、ある元部員の両親が経営する大病院から節税目的か多額の寄付の申し出があり、当時の価格で1,200万円もするクルーザーが入手できた。どうだ、自分の行っている大学に医学部があるっていいだろう。これで大学当局が動き出して、石狩湾北沿岸のある寂れた地所を購入して、正式に大学のヨット部艇庫を建設することとなった。
 北海道は、本州と樺太・シベリア、オホーツク海、カムチャッカ半島を結ぶ渡り鳥の移動経路上にあり、その西海岸の一部である石狩では留鳥だけでなく各種のあまり見慣れない野鳥たちを見かけることができる。そのため、普段から双眼鏡や「遠めがね」を手にしたバード・ウォッチング愛好家たちが数人のグループを作ったり、単独で、イソスミレ、コウボウシバ、エゾナミキ、ハマヒルガオなどで覆われた近くの斜面や砂丘の陰や林の中に息を殺して潜んでは、上空を含むばらばらの方角に目を凝らしていた。
「あー、すーぐ逃げて行くんだもん」
 石狩と同じ日本海側の京都府・丹後半島には、天橋立と並び、伊根の舟屋(Iné-no Funaya)がある。狭い湾の大部分が陸地で囲まれる形で守られていて波が穏やかなため、水際に建物を建てて1階からすぐに船を出し入れできる便利な構造になっている。我々の艇庫の艇庫もそうなっていたら、出動命令一下消防署の2階の穴から、かつては使用されていた滑り棒に沿って一気に下に降りるように、滑り台で斜めにするりとヨットやクルーザーに乗船して出港できたのだが、こちらは直接外海に面した海岸なので、そのような建て方は採用できなかった。
 当時はまだ周辺に1軒も家がなかった。それをいいことに、この艇庫付近は数年間、部員たちの事実上のヌーディスト・ビーチ化していた。
 大学の受験生募集パンフレットにも、我々ヨット部員とモデル事務所から派遣されてきた女性がこのクルーザーに乗った「潮風、規律、青春」という写真が頻繁に登場するようになった。出演料代わりの寿司に釣られてのことである。ヨットは、かなり受験生や新入生にアピールするようである。その証拠に、我々は運動部の中でも3番目に部員の多いクラブに成長した。
「オラオラ、ヨット部様のお通りだい」
「すぐ調子に乗るんだから」
 入部希望者は、みな同じ質問をするのであった。
「あの子は今何年生ですか?」
 知りたいのはオレたちの方だった。
(きっと学長も)。
「いいえ、何をおっしゃるウサギさん。私はつきたての餅のように潔白・無実です」
(ツーン)。

第65章 ヨット対戦(前半) https://note.com/kayatan555/n/n37ac6aabf2cd に続く。(全175章まであります)。

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