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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第79回 第65章 ヨット対戦 (前半)

 アインシュタインの趣味はヨットとバイオリンだった。その相対性理論を学んだことがあるか否か不明のヨットマンたちは、すれ違う対戦艇の乗員たちに光速でガンを飛ばす。
「なめンなよ、うーうー」
 このスイス国籍を終生保持することになった理論物理学者がベルリンのプロイセン科学アカデミーに移ったのは1914年春であった。日本では短い大正時代に入っていた。その年の7月、「半分イギリス人」のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は北欧へのヨット旅行を楽しんだが、その平和は続かなかった。皇帝に限らず、元々限られた富裕層の人々の遊びとして始まったヨットではあるが、すでに世界中でより多くの人々が日常的に楽しんでいる。海に囲まれ、各地に湖もあるわが国においても、それは十分可能ではないだろうか。
 風との対話、ないし「タイマン」、これがヨット競技である。シカトされることもある。ヨットは安上がりなスポーツである。車よりずっと安い。動力源はふたつ、風とあなたのポンポンの贅肉。つまり、ただなのだ。
 我々は、医大在学中は、函館と札幌の間に位置する内浦湾を主会場とする「東アジア・北太平洋大学高等専門学校ヨット選手権大会」(The East Asia and Northern Pacific University and Technical College Yachting Championships)に向けたトレーニングを地元の石狩湾北沿岸で続けていた。湾を斜めに横切って、小樽・祝津沖まで往復することも頻繁にあった。これは恐いんざんすよ。でも、高島漁港が目の前にあるので、付近の店では新鮮そのものの魚介を食べることができる。ホタテ、ニシン、ホッケなどの炭火焼きも刺身も押し並べて美味しい。
 内浦湾は噴火湾ともいい、楸邨が次のように詠んでいる。

 茄子漬や 雲ゆたかにて噴火湾 楸邨

 暑寒別岳沖を北に時計回りに回って増毛に行って、地元産のリンゴを買って帰ってくることもあった。紅玉が絶品である。あの酸味。普通の店では売られていないのはなぜだ。どこでも甘い品種しかお目にかかれない。その貴重な紅玉をせっかくヨットで運べる量、目一杯買ったのに、入れた薄いポリ袋が帰りに金属部品と擦れ続けて破れてしまい、タッキングの失敗でマストが大きく揺れた拍子に大半が海を流れていったことがあった。ああああ、気をつけろよ。こうなるんだったら、出航前に港で1個ずつ食べておくんだった。すぐに歯が痛くなるけど。
 リンゴ農家の娘さんだという売り子の高校生が色白の美人でびっくりした。原宿ならスカウトマンが歩道にばったり倒れてみせてスカウトしますよ、あれほどのレベルなら。その子のまだ高齢とは言えない祖母の説明では、リンゴの収穫期前から、何か別の商品を並べてマーケットをやっているそうである。我々部員たちは期せずしてお互いの顔を見遣って、深くうなずいた。瞬時に合意が形成された。全員の脳という脳が希望で満たされた。
「あの、わしら、リンゴの芯でも、トイレットペーパーの芯でも、海底ケーブルの芯でも、死んでも買いに来ます」
(きっぱり)。
 試作品の山羊チーズはまだ生産量が少なすぎるので、地元の住民以外の口に入る可能性はまずない。悔しいではないか。もっと作ってたもれ。Authentic Mashike goat cheese, 良いではないか。いくらでも売れそうである。ここ周辺のアカシアの花の蜂蜜は高級品である。質が高いだけでなく、しっとりとした味である。
「先輩、来週から小樽じゃなくて、増毛に遠征する回数増やしません? 薄い毛も増えるかも知れませんし(「Sさんだぞ」)」
「君らがそこまで言うのなら、しょうがないな」
(そこまでって、まだひとことしか言ってないのになあ。どうしてすぐ賛成します、せんぱーい?)
「あの可愛い子ちゃんの前で顔赤くなってませんでした? タイプですか?」
「バカ言え、夕焼けのせいだ」
「まだ午後2時ぐらいだったのになあ」
「実は、メールアドレスとスマホの番号聞いておきましたけど。じゃあ、このメモ破って海に捨てていいですね」
「あ、バカ、形のあるものは捨ててはいけない。オレに見せろ。オレはたくさんの人間の筆跡に関心があるんだ。別に付き合おうなんて言ってない。こっちに寄越せ」
「しょうがないですね」
「あれ、これ、随分大人の字だ。旧字体に歴史的仮名遣ひまで使ってる。婆様の方をナンパしてどーすんだよ」
(「あら、恨むわ、わたし」)。

第65章 ヨット対戦(後半) https://note.com/kayatan555/n/na3a5a4aad262 に続く。(全175章まであります)。

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