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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第80回 第65章 ヨット対戦 (後半)

 この関西出身の上級生は、この日は標準語で喋った。方言の度合いの強い地方出身の人間が標準語を使っているうちは、他人にペルソナを見せているだけである。ところが、同じ運動部で頻繁に顔を合わせているうちに、そのペルソナを鉄のカーテンのように堅く維持して行くのは次第に困難になって行く。ハンガリー・ピクニックのように、大雨の降った後の崖のように、さらに一押しあれば本心が顔を出してしまう危険を内包して行くことがある。対処困難な事態に突然遭遇して狼狽した瞬間や、本心を吐露する際には方言丸出しとなることが多い。別に悪くも何ともないことであるが。
「好いとう」
(水筒?)
 道内の予選には、函館から網走まで8校のチームが参加している。長年、網走湖、能取湖、オホーツク海がホームグラウンドのチームが強かった。網走市は市街地からすぐにヨットやカヌーを出せる好条件に恵まれている。寿司はもちろん美味である。予選会場は数カ所持ち回りであるが、我々が出場した年度は小樽であった。我がチームはこの段階は乗り越えて、本選の出場資格を得た。年度により異なるが、本選では、日本国内の大学・高専に加え、南西はインドネシア、シンガポール、ベトナム、パラオ、グアムから台湾、韓国、カナダ、ハワイ、南東はカリフォルニア州そしてメキシコまで最大36チームが勝利を競っている。
 北太平洋と銘打っているのに、なぜかチリの大学から加盟の打診があった。でも、不思議ではない。思い当たることがあるのだ。ある国際学会で会ったチリの医師が、「チリ国民は、自分たちが北半球で一番南にある先進国だと考えている」と言っていたからである。承認するためには定款を修正し、レースの名称も「東アジア・環太平洋大学高等専門学校ヨット選手権」に変更する必要がある。どうやってヨットをはるばる室蘭沖まで運んでくるつもりなのか分からない。一番楽なのはチリの海軍か空軍に頼むことだが、どうなるか。どこかの航空会社が協力するだろうか。ハエ男方式を使って物質転送するのだろうか。ビーン。あっ停電になった。なーにが出ってくるか、恐ろしくて蓋を開けられない。いっそ溶接して封印してしまおうか。
 我々は新設医大の時代からすでに50年は経っているので、そろそろ優勝して、イノッチの番組で取り上げられたいと密かに狙っていた。そうすれば、学長表彰も受けられ、豊かな同窓会からの部への活動支援金もより多く配分してもらえるのではないか、と算段していた。
 しかし、方向転換のたびにブームに頭をぶつける初心者の段階を過ぎても風の読みが頻繁に外れ続け、なかなか操船に習熟できずに、仲間たちと一夏中飽きもせずに熾烈な基礎訓練を繰り返したものだ。部で酒を飲んでいても、突然先輩の一人がロープの各種の結び方をやってみせろと強要したりするのである。
「結ぶのが一瞬遅れても、お前死んだところだぞ。ちゃんと練習しておけ。手術の時にも役立つし」
「そんなあ、せっかくほろ酔いになってるのに。それに、カタカナばっかりで覚えられないっすよ、ヨット用語。咄嗟の時に意味が分からなくて死んじゃいますよ。全部分かりやすい漢字を使った日本語に訳してくださいよ。きっとうまい言い換えができるようになるでしょう。京都から遠い地方ほど古い単語や言い回しが残っているので、それも参考にして、大和言葉も取り入れて、昔の単語を復活させて現代風に生かしてみたらいいじゃないっすか。目指せ、新ヨット用語集」
「おま、進路間違えたんじゃないか。医者になるより言語学か何かやった方が成功するんじゃないか」
「そんなことないですよ。ちゃんと医学を修める覚悟を固めてこの大学に来てます。それに医学部を出て医者をしながら作家になった人たちだって相当多いじゃないですか。ああ、言語学で思い出しましたよ、古英語じゃ、表現の対象をストレートに言わないで、ケニングという代称で遠回しに言い表していたって、英文学の集中講義で聞きました。
『こちらの大学には有名なヨット部さん(うしっ、オレらのことだど)があるということですので海を例に取ってみると、鯨の道って言ったんです。hran-radという婉曲な言い方で、radのaの上にはバーが付くんです。カタカナだと、フラーンラートとなります。今の英語だとwhale-roadに相当しますね』
って言ってました、あの先生」
 ボクらはその「鯨の道」なる場所で、風と波を相手に、春から夏そして秋までの海洋部活の日々を過ごしていたのだ。その鯨たちが波の下のどこをどのように潜航しているのかも知らないままに。
「輪くぐり〜」
「フラーレン編隊〜」

第66章 内浦湾への危険な周航 https://note.com/kayatan555/n/n5dad0e72bf66 に続く。(全175章まであります)。

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