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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第55回 第45章 ジェファーソン邸 (前半)

 私は緊張し切っていて、右手と右足を同時に前に出して歩いていた。喉が渇いた。ブルー・ハワイか何かを下さい、目の色が青くなるまで。このお屋敷の最大の特徴は異国風の外見ではなく天井の高さだった。
 木陰のドアの横の壁には交通信号を模した3色の超小型LEDが埋め込まれていて、私の接近を察知したらしく青信号が点滅し始めた。すると、次にそのすぐ下に変な液晶掲示が現れた。
「ご用の方は、ここで腰に両手を当てて左右に3回振ってください。はい、ワン、ツー、スリー」
 何なんだこのうちは?
 すると、掲示が英語に変わりかけて消え、無礼なことに、「下手くそ。今出ます」という文字に変わって、厚い重たそうなドアが内開きになった。私はバラの花束を渡した。いきなり球根という訳には行かない。
 今日も気楽そうな服装で現れたセシリアの父は、本心の反映かどうか分からない笑顔で私をリビングルームに通した。二十代後半のジュディー・オングが笑顔でゆっくり両腕を挙げていく仕草を見せた訳ではない。そこには一家の自慢のマントルピースがあった。滅多に使ってはいないが、使う時のために薪が置かれている。これを入れるバケツは夫婦げんかの際には自動的に蓋が被さってロックされる。このマントルピースは英国大使館付きの技師に設計・施工させたものであった。ところが、横に火掻き棒が立てかけて置かれていたのを見た途端に、私は身震いがした。これは危険そのものの道具であり、凶器にすら見えた。
 セシリアの父、デイビッドは私にソファーに座るように勧めてから口を開いた。「私は娘のセシリアに幸せになってもらいたいんです。どんな父親でも心からそう望んでいます。片手で抱き上げられるほどあんなに小さくて、その少し後、腹話術ごっこにちょうどいいサイズの時期もあったのに、一体いつの間にこんなに大きくなったのか、(悪)夢を見ているような気がします。この分だと、そのうちに、カバぐらいにまで成長を遂げるかも知れません。朝目覚めると自分が甲虫に変わっているのではなしに、夕暮れ時に家に帰ってリビングのドアを開けると、そこは動物園だったのでーす。(札幌の円山動物園が旭川の丘の動物園に対抗するには、ペンギンに雪の上の散歩をさせるのではなしに、ハードル競走をさせてみればいいのです。「ヒーヒー、ゼーゼー、息が苦しいっす、目が回るっす。走らされすぎて、脚もこんなに短かくなっちゃった」)。
 セシリアにはやはり結婚して子どもを産んで育ててもらいたいです。できれば4人、男女2人ずつが理想です。想像するだけで涙が滲んできます。父親になった私が今度は爺になるからですよ。その孫たちが小学校に入って4年生ぐらいになったら、こっそり麻雀を仕込んでやりたいですが、きっと妻とセシリアからどやされるでしょうね。(「良いではないか」)。でも、麻雀は手をどう作って行くかを常に迫られる高度な戦略ゲームですよ。人生を選ぶ際に不可欠の教養と言ってすら差し支えありません。結婚観にも好影響を与えるはずです。
 しかし、丸原さん、そうした結婚相手は誰でも良いわけではありません。40億人の中で、私自身を除いて(まあ、しょってるわねえ)最上の男性でなければなりません。端的に申し上げましょう。あなたは、セシリアの将来の夫候補の一人です。なぜなら、セシリアはあなたに強い関心を抱いているからです。相手が私の娘であれ他の誰であれ、将来あなたが妻を迎えて、その女性との間に娘が生まれた、と仮定してみて下さい。それが今の私の立場です。その娘がどのような『虫』、いや、男性と結婚することを望むだろうかです」
 この辺りまでは、セシリアの父は至極まっとうな内容を、まだ19歳になったばかりのガキでしかなかった私に敬語まで使って話していた。だが、「虫」の私は少なくともほ乳類に昇格させてもらわなければならなかった。これは、鯉の滝登りである。登り切ると、そこにはメーキャップで紫色とピンクが交互に点滅するネオン眉毛を描き加えたクマがニッコリ笑顔で口を大きく広げているはずである。あぐー。これは闘いなのだ。だが、私はまだそこまで深く考えもしないでセシリアとのデートを楽しんでいるだけだった。デイビッドはどの程度の作戦を練っているか分からなかった。
「そうですね、あなた、お酒はお好きですか。私は、アル中こそが世の中で最低・最悪の人間だと思っているんです。人生、どんなに辛いことがあっても、酒に逃げてはいけないんです。酒を飲みすぎたら、職を失うかも知れないし、車に轢かれて死んだり、寒い地方だったら凍死するかも知れません。家族をも地獄に突き落としてしまいます。と言って、経験上、まったく飲まない人間というのも何だか面白みが欠けているように思われてなりません。すると、私の娘の夫には堅い決意と理性に基づいて自らを厳しく律しながら、時折適度な飲酒をする人間が最適です。何も飲まないより、少し飲んだ方が人間関係も円滑になるでしょうし、健康にもいいでしょう。会話も弾みます。
 次に職業とお金の問題です。セシリアが交際する相手が、すでにどのような生業に就いているか、あるいはこれから就こうとしているかが、実生活では一番重要です。世の中お金がすべてではないからこそ、そのお金に人生を制約されたり翻弄されたりすることは決してあってはならないんです。不運にして難病に罹ることは、確率がごく低くてもあり得ないことではありません。その他の疾病や負傷にしても、保険適用のない先端治療を受ければ辛くも生命を救える場合があります。逆に言えば、お金がないがためにみすみす家族の命を奪われたり、自分自身が人間として耐えがたい状態で生き長らえることを強要されることになります。このような例外的な場合まで想定しないのは、無責任で破滅的な思考です。すると、セシリア自身とその結婚相手には国民平均所得の最低5倍は必要です。20倍以上ならもっと結構です。私にまで利益が及んでくることが期待できます。そして、100倍以上と分かったら、娘をどんとはね除けて私自身がその人物の養子に迎えてもらいます。
 また、政治的にどのような信念の持ち主かも大事です。しかし、何と言っても、あなたの酒に対する決意ないし方針は是非とも今の段階で伺っておかなければなりません。酔って妻を殴る男は、刑法、刑事訴訟法の適用を排除して公開辱めの刑に処すべきです。両手をそれぞれタオルで丸くくるんでおいて野球拳をさせるとか。酔った妻に殴られる夫の方は考慮から外しておきましょう」
 そうか。女性の父親と会うというのは、剣の果たし合いなのだな。だったら、相手を斬って捨てるか、峰打ちに留めるか、自分が腹を切らされるかの3択しかないのだった。
 デイビッドはボクが未成年者であることを知っていた。しかし、ボクも多くの18歳、19歳の学生のように時々だけだが少量のアルコールは飲んでいた。(高校時代、すすきので飲んだ長靴型の容器にたっぷり入った地生ビールはおいしかった。右足の分と左足の分を次々に飲み干したものだ)。先ほどまでの説明は落語の枕だったのだ。耳に柳家小三治の声が聞こえた。あの噺家は北海道に来ては大型バイクで旅行していたのだ。
「はいっ、そうです」
 デイビッドは続けた。
「そこで、あなたが酒にどう向き合うかを試させてもらいたい。日本人の4割以上はアセトアルデヒドを分解するALDH2が欠けているか、あっても弱く生まれています。これは本人たちの努力では克服できないのです。そうでなくても、無闇矢鱈に酒をあおって、途中から見苦しい振る舞いをするようでは娘のボーイフレンドとしては落第です。第一それでは娘を守ることができなくなってしまいます。そこで提案ですが、今晩は酒をとことん一緒に飲んでみませんか。あなたの飲酒のマナーと飲酒限度を私に見極めさせてくれませんか?」
 出たー!!

第45章 ジェファーソン邸(後半) https://note.com/kayatan555/n/nbbbddb3f1d43 に続く。(全175章まであります)。

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