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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第187回 第153章 新しい地名

 ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語、オランダ語、スウェーデン語、アイスランド語(読み方の分からない見慣れない文字が書かれていた)、ヨーロッパのその他いくつかの言語、繁体字の中国語、そして日本語で凡例や地名、解説が印刷されたヨーロッパ、アジア、アメリカや世界全体の地図帳や地図がうちにたくさんあったからかも知れないが、ボクは小さいころから地図が好きになり、毎日放課後に自宅で質の高いコンピュータ用紙の裏に色鉛筆を使い分けて日本列島の模写をしたことがあった。紙を何枚も貼り付けたので、細長い一種の伊能図みたいに仕上がった。これで全部の県の名前が漢字で書けるようになった。大人でもなかなかできないことである。札幌でも旭川でも通学路や他の場所に自分だけの名前を付けてみることも多かった。通りの名前を変えてみようといろいろ試してみても気に入る別名を思い付かなかった時には元通りにした。他の国なら、短い街路にも名前が付けられて、建物にプレートが貼られている。通りに番地も左右規則的に振られているので、誰でも目的地に簡単にたどり着ける仕組みになっている。
 ところが、ボクがその二つ目の大学で入ったヨット部の艇庫のある一帯には地名がなかったのである。そのため、ボクは長年の習慣から入部以来何となく居心地の悪さを感じていた。仮にこの場所の呼称が「石狩湾番外地」なら少し寂しいのではないか。
(「自分、不器用ですから=I’m but a clumsy misfit in the society.”)。
 最も早く名前を付ければ、その名前が万人に受け容れられるようになる可能性があった。それは名誉なことではないだろうか。それでも、特に具体的な名称を考えることも思い付くこともなく操船訓練の日々が過ぎていった。
 そうした夏のある暑い日、ボクは浅瀬で生まれて初めてウィンドサーフィンを試していた。だが、見るとやるとは大違いでうまく行かず、辛うじて10メートルほどよろよろと進んだところで後ろ向きに倒れた。セールの上に前のめりに倒れてはならない。立ち上がって、目を閉じたまま左右交互に耳の水を出していると、脚の回りの海水は急に冷たくなった。温かい水の流れと渦になって、陰陽を形作っているのだった。
 セールの上に浅い池のように溜まった海水を注ぎ落としてからボードを岸に運び上げ、流木として上がっていた太い丸太に座って体を干しながら、同じ学年の他の部員とお喋りをした。お互い入部当時ヨットは初心者であった。この部員は、いつも俳句手帳を持ち歩いている。号は松尾微笑と称しているが、生活の実態は無精である。頻繁に書き付けているのは俳句ではなく詩の方である。医学部に来て本当に良かったのだろうかと思っていたら、その後、在学中にある賞を受賞して詩人としてデビューすることになった。と言って、このボクがヘルマン・ヘッセの創作におけるハンス・ギーベンラートで、側のこの学生がヘルマン・ハイルナーだった訳ではない。
 数ヶ月後に、東京・神田、京都・百万遍を含む全国の書店に発行部数の少ない固い表紙の薄い詩集が入荷し、数日間だけそれぞれの店舗の入り口近くに平積みにされていた。ほとんど注目されもしない目立たない事件ではあるが、あらゆる出版事業の中でも、詩集の出版という企てには特別の潜在的な危険が籠もっている。詩人とは無意識のうちに社会全体にほぼ永続する影響力を及ぼしてしまう可能性を抱えている人々なのであるから。流行歌の作詞の場合もそうだが、その最たるものが、一国家の国歌作詞ないし既発表分の詩の国歌への登用である。数十年ないし数百年に一度の機会に際して、それまでほぼ河原乞食同然の日常生活をしていて、生きているというよりはむしろ端的にぎりぎり死を免れてきたに過ぎなかったかも知れない無名の詩人が突如脚光を浴びて、個々の「想像の共同体」をイデオロギーで統合する英雄に昇格してしまうのである。
 まだボクの耳の中には海水が少し残って温まっていった。眉毛がミニ塩田にならないように、指先で水を拭った。ボクは言った。
「やってみると難しいもんだね。どうしてあれでセールを両手で操作してスピードを上げて走って行けるんだろう」
「松尾」はかすかにうなずいたが、特に話に応ずるでもなく、遠くを見詰めて手帳を開いた。最初は縦書きだったが(モンゴル文字か? 高校の時の東洋史学科を出た先生の世界史の授業を思い出す)、途中から隣のページに横書きで恐らく欧文を綴り出した。英語だったかどうかは分からない。そのようなクールな振る舞いは、いかにも芸術家っぽかったが、きっと前頭葉の方は少し熱を帯びてきていたのだろう。松尾微熱。
(医師になった後でも、きっと詩や俳句にのめり込んだ生活をするだろうと思われた)。
「ちょとまてください。手術の前に一句。発句、発句。ここ北海道独自の季語が作れないものだろうか。うーん」
「先生、後になさってください。オフの日にでもどうぞ」
 私の足の裏の熱い砂は、水分を吸って小さなダマになっては、少しずつ乾いて崩れ落ちていった。足指の数だけ、高さ数ミリの世界最小級の砂丘ができて行く。高い気温と青空に恵まれた日だったのに、陸に上がってビーサンを穿いてから、ボクは少し暗い気分になりかけていた。
 慣れないセール操作で全身の筋肉が強ばったまま海に背中から叩き落ちた時に、鼻には海水が流入して咳き込み、潮の匂いが鼻腔を通り抜けていった。目にもその塩分・ミネラル分を含む液体を浴びたため涙が出た。それで、常盤公園で絶望的に激しく泣いた時のことを急に思い出し、硯でのイジメまで記憶が鮮明に蘇ってきてしまっていたのだ。
 石狩川上流の小学校の教室で児童たちが一斉に墨を磨る音と、その川が注ぎ込んでいる石狩湾のさざ波の音色が溶け合い、私の硯の緩斜面と目の前の自然が丹念に磨き続けている滑らかな湿った砂浜が、視差を解消するかのように重なって見えた。
 そこで、ボクは思わずつぶやいた。
「まるであの硯のようだ、ここは硯海岸だ!」

第154章 硯のような海岸 https://note.com/kayatan555/n/n42d670c6708b に続く。(全175章まであります)。

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