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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第146回 第112章 イタリア少年、落語に魅せられる

 再び札幌の中学のボクのクラスである。一時間目の授業がもうすぐ始まるのだが、女の子たちはもうすでにうっとりとした目でイタリア人少年を見詰めている。今日サボらないで良かったわ。その父親と母親が日本語で「みなさん、うちのボンズをどうぞよろしくお願いします」と言って頭を下げた。
 すると、次に誰も予期すらしていなかった事態が起きた。いきなり教壇の横に正座して背筋を伸ばして日本語で古典落語をやったのだ、この少年は! 座るときに片手で着物の裾を揃えようとする手付きまで自然にやって見せてである。一発で大受けであった。安物のプラスチックの扇子を小道具に使ってまでして小さんの真似を日本語と早口のイタリア語で交互に見事に演じ、トドメに林家三平の格好までしてみせた(蛇足。どーもすみません)。担任教師は、大正時代を思わせるあられもない乙女の顔、すばるの瞳になって薄紅生姜色の頬を両手で覆った。
「惚れてまうー」
 両親に連れられて札幌の中学校に降って湧いたようにやってきたこのにわか日本かぶれは、まだイタリアにいたころ、頭の中で「Giappone, ジャッポーネ」と繰り返しながらいろいろ調べているうちに、rakugoという単語が目に入った。
「何ずら?」
 これを最初はアールに力を入れて(ル)ラクーゴと読んでいた。複数の古典落語の作品がミラノの大手出版社から出版される時にイタリア語訳をつけた翻訳家は、イタリア半島のリナシメント(ルネサンス)以降の歴史、特にサヴォイアなどフランスとの現在の国境付近の食文化史に造詣が深く、しかも国内各地の方言や社会の様々な階層の多彩なイタリア語の語彙や表現に通暁していて、日本語とイタリア語の間の橋渡しが天才級にうまかったため、少年は外国語からの翻訳文を読まされていることを意識しないまま、その日のうちに落語ファンになってしまったのだった。
「そういうのを粗忽者と言いましてな」
 このことも、父親が日本にやってくる動機に影響を与えたようだ。
 クラスの女の子たちは、ことごとく、この朝以降いっぺんにこの奔放過ぎるイタリアからの旋風の潜在的愛人になってしまった。(次の○○○○にあなたの名前を入れて読んでみてください)。
「ねえ、○○○○さん。こっちを向いて、ボクのこの碧い目を見て。ボクにはもうキミのそのきれいな笑顔しか目に入らないんだ。だから、今日からはキミもボクのことしか見ちゃだめだよ。キミに会えると思うとボクはいつでも笑顔になれるからさ。あの白い雲を見てごらん。ハート型をしているよね。一晩中、キミのことだけ祈っていたら、ああなったのさ。あの上で、ぼくらふたりだけの秘密の新しい世界を作ろうよ。そして、永遠に幸せになるのさ、ベイベー。ほら、雲がもううっすらとピンク色に染まってきたね。さあ、瞳を閉じて」
「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
  「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
   「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
    「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
     「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
      「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
     「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
    「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
   「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
  「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
  「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
   「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
    「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
     「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」
      「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「きゃー」 「ぎゃー」
(人数が多すぎるようだが、授業中なのに他の教室からも生徒が抜け出してきて廊下に集まっていたのだ。職員室でも頬を手で覆っている先生方がいた。きっと校長も。教頭だけ幾分控え目に反応)。
 この転校生の父親は、生徒の独身のおじさんの兄で、その弟とは正反対に冗談など考えもつかない実直で勤勉そのもののタイプである。イタリア人といっても、いろいろな性格の持ち主がいるのである。そうでなかったら国はもたない。医学博士号を授与され、数冊の著書もあるイタリア共和国国家資格を持つ畜肉加工技術者として、某企業の札幌本社、附属食品科学研究所と美唄の新鋭半無人工場で高級ハムその他の製造面の技術指導と併せて経営戦略策定にも関与するために招聘されて来たのだった。
 性格が堅くてドイツ人それもキールやリューベックといった北の方のドイツ人みたいだと、友人らから「テデスコ」と呼ばれている。そそっかしい友人は「ステテコ」と言い間違える。周りがあまり執拗にからかうと、少しだけ怖い目付きになって、それでもあくまで声を荒げないまま静かに怒って「マニ アルト」(手を挙げろ)と重厚な響きのイタリア語で言うので、両手を挙げて「ニヒト シーセン」(撃つな)とドイツ語でふざける。ドイツ語では否定詞のnichtは通常は文末に置くのだが、「射撃する」意の「シーセン」を先に言ってしまうと、「撃て」と命令しているかに誤解されて取り返しのつかない事態になってしまう虞れがある(「あ、ごめーんって、遅いか」)。そのため、禁止のNicht=ニヒトを先に言うのである。ただし、黒いサングラスを付けた俳優が多数出てくる映画のように、相手の銃弾をひらりとかわす自信があれば別である。ちみも、今から腹筋を鍛えておっか、いざという時のために。
 一方、少年の母親は七宝焼きのデザイナー兼制作者だった。自分のネットショップを開設して経営に成功している。札幌に移ってきてからは、以前にも増して頻繁に作品を内外に発送している。ロンバルディア州に本社のある高級紙の文化欄に、「灰青色のシリーズ」の作品群をカラー写真付きで紹介されたのが一族の誇りである。事前に予約しておいて、掲載紙を200部もまとめ買いしてイタリアの実家に保存している。販売店に20%安くしてくれと交渉したのに2%しかまけてもらえなかった。これだけ部数が多ければ孫の代まで保つだろう、「巨人」に焼かれてしまわなければ。
 その片側の祖父母は毎年のように夏休みにイタリアに来ていた後、夫の方が46歳の時に会計事務所からの自発的早期退職を果たして、尻に帆かけて移住してきたデンマーク人夫妻だった。高校時代の元カノとその昔の交際のことを知らない旦那に誘われて、例外的にモロッコに行った年には、砂漠ツアーでサソリに気を取られているうちに遭難しそうになった。
「やはりあいつは男を刺す奴だった。デンマークはきれいな国だしsmørrebrødもおいしいけれど、税金高くって暗くて寒くってねえ。そこ行くと、どうだ、このイタリアの太陽は。露地にはトゲだらけの団扇サボテンが元気いっぱいに生えてるし、真冬のはずの1月でも柑橘類が生ってるし、マフィアまでギラギラしている」
 七宝焼きの2000枚以上もの分割ピースを接合面の絵柄のずれなくぴったり合わせて焼いて、貼り合わせて設置していく巨大な装飾壁面制作中は、傍から見て怖いほど集中していた。きっと呼吸をするのを忘れていたはずである。北海道にやってきた当時、夫妻の体重比は1対1.5ぐらいに見えた。それが、北海道の食材が良すぎたのか(「そ、私が悪いんじゃないわ。食べ物がおいしすぎるのよーん」)、1対2に肉薄していった。この比率を1対1に近付ける方法は3つだった。夫人が痩せるか(無理ね)、夫が太るか(せっかくダイエットに成功したのに)、両方が歩み寄るかである。
 見合って、見合って。はっけよい。
「あなた、結婚式のときに神様に何て誓ったか覚えてるわよね」
「うん」
 回転寿司のコンベアーを無限軌道型からQ字形に変えて、鉄道の引き込み線や盲腸のように字が終わるところでちょんまげのかつらをかぶり、背筋を伸ばして蹲踞の姿勢で陣取って口を大きく開けて、やってくる寿司やらケーキやらプリンやらを一切合切食してみたい(「ごっつぁんっす」)、と夢見ている(ダヨーン)。一箇所の回転寿司に行くだけでなく、何カ所もの回転寿司屋を「回転」して訪れている。
 インターネットの世界では1.0から2.0になる時に大騒ぎがあった。体重比も2.0となるとこれは一大事であった。睡眠中に寝台が突如陥没し、夫の方が道連れにされ、石弓を使った攻撃時の石弾のように体が窓の方にぶっ飛ばされてしまうのである。
「マンマ ミーア!」
(ガッシャーン)。

第113章 正気に戻る https://note.com/kayatan555/n/n6e407ac5f718 に続く。(全175章まであります)。

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