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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第205回 第171章 山茱萸

 車、250ccのバイク、一輪車、走行中に踵に火傷をするロケットスケートボード(まさか)をそれぞれ2台ずつ入れたガレージの横の山茱萸は、毎年ひっそりと赤い実をつける。鳥たちの話題になっているだろうか。学生時代から何度となく挑戦してはその都度数週間で撤退していたラテン語の学名を調べてみる気になって、ネットで検索すると出てきた。Cornus officinalisとある。発音はコルヌス・オフィキナリスだろうか。どれかの母音は長く読むのかも知れない。短期記憶で今この瞬間は覚えているが、明日聞かれても答えられないだろう。それに、ラテン語の正しい読み方は誰も知らない。その名前の女の子にアタックを続けてついに結婚に漕ぎ着けた部の先輩から結婚式の翌週に届けられた苗を植えておいたところ、あまり世話をしなかったのが逆に幸いしたらしく、うまく生長している。小さな苗に大きな外れはなかった。ただし、高温になることが増えている夏は、毎朝撒水を欠かさないようにしなければあっさりと枯れてしまう危険がある。
 この増毛=尼崎夫妻の庭には、奥さんの両親の日本海を見下ろす果樹園から送られてきたごつごつしたリンゴの木が2本、将来樹齢が150年を超えても歩道や隣の敷地にはみ出さないような位置を選んで植えられている。毎春ほとんど白に近い淡いピンクの花が咲く。交際中、元副部長の方は和紙を手漉きして、その上に島崎藤村の詩を書き付けて増毛に送ったところ、「素敵なりんごの詩ですね。才能あるんですね、先生。尊敬しちゃいますわたし。うっふん」という留萌郵便局の消印のある返事が来た、のだそうである。
 この医師は「妻の錯誤で結婚できたんや、オレ。うちの山茱萸、藤村を読んどらんかったんやぞ」と自慢したが、ホントかな。有名な詩だから、奥さん知らない振りをしていただけなんじゃないかな。
(「あら、何のことかしら」)。
 この夫妻宅には、夫人の実家から売り物とは別の数種類のそれぞれ特大サイズのリンゴが、籾殻を緩衝材として隙間に詰めたハルニレ材の木箱に入れて夜間割引ドローン貨物便で大量に届けられてくる習慣だったので、その子どもたちはリンゴがスーパーで売られているのを見て怪訝な顔をしていたのだそうである。この家庭ではリンゴは親戚からただでもらうものであり、お金を出して買う対象ではなかったからである。
 籾殻と言えば、各地の名産米の名前はカタカナにして5文字が多いようである。その後に、7-5と文字を続けてみんさい、という謎かけだろうか。クレジットカードの番号のように16文字もあったら取引に差し支えるだろう。
 仮にあなたが農学博士か理学博士で、県農業試験場の責任者として何年もかかって新しいコメの品種の開発に成功したとしよう。その米を縦列に組んだ筏に積んで、菅笠を被った船頭が川を下って湊に運び、廻船で大坂の堂島米会所に持ち込んで(江戸時代か)、ではなく、都内の県アンテナショップで試販してみたところ大好評を博してバラエティー番組でも取り上げられ、その期待の星に輸出も含めた本格的市場投入を前にして圃場での番号ではなく、正式に商品としてのブランド名を付けるように知事から要請を受けたとすれば、どんな名前を提案したいと思うだろうか。例えばこんなのはどうだろうか。「アトズサリ」「シリツボミ」「デキゴコロ」。いずれも購買意欲を刺激する名称ではないだろうか。深く反省しつつ、三ヶ月湖から本流に戻ります。(「ミカヅキコ」「ムハンセイ」)。
 この旧友夫婦は、何年もの間、毎年収穫の季節に、リンゴを小さめに切ってトランプのクラブ、ダイヤ、ハート、スペードの形に並べたアップルパイを焼いて1ダースもうちに送ってくれていた。箱を開けるといつもの香りが広がり、「東」「南」「西」「北」のネコ4匹と「三毛」と「タマ」が突進してくる音がしたものであった。ところが、息子の方は特に急がずにのんびりと歩いてくるのだった。同じように育てていたはずなのに、兄弟の間にはっきりとした性格の違いが現れてくるのはなぜだろうか。上から順に食べていって、最後に残った一番下のパイを取ろうとすると、紙容器の向かい合った壁に当たる2面にステレオのように仕込まれている厚さ2ミリもない一対の薄いスピーカーから「そうです、わたしが海底牌です」というメッセージが立体的音響効果を伴って聞こえる仕組みになっていた。
 最後の1枚と言えば、ヨーロッパからの留学生が話していた。パーティーを開いていて、皿の上のソーセージが最後に1本残ったとき、どうするか。そこにいる全員にフォークを持たせて、厳かな表情で電気を消すのだそうである。

第172章 危うく死を免れていたヨット部活動の日々 https://note.com/kayatan555/n/nccee72b7d289 に続く。(全175章まであります)。

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