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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第85回 第69章 津軽海峡の荒波を越え

 その後、日本海沿岸を南下していった。奥尻島と北海道本島の間から始まって、内浦湾に入るまでに計4回、左右に見える陸地の間を通過した。本州の先端である竜飛岬、大間崎を右に見て、最後は鹿部付近と絵鞆半島であった。歴史を振り返れば、江差沖では榎本武揚の開陽丸が座礁して戊辰戦争の帰趨を決定することとなった。この町に上陸したボクらは、その復元船を見学してきたのだが、ボクは東京時代に大学のカメラ部で撮影に行ったときに見た氷川丸とはまったく異なる印象を受けた。
 北海道の南西端である白神岬を左(東向き)に回って津軽海峡に入った。ここからわずか19キロ南に有名な竜飛岬がある。英語ではDragon-Flying Pointとなろう。カンフー映画に出てきそうな名前である。
 両方の岬は先端が鋭利になっているため、まるで放電実験用の電極2本の間をすり抜けるようなスリルを感じた。バチバチッ。しかも、東に向かう我々と交差したり並行したりして、時折巨大な貨物船やフェリーが通り過ぎていった。海峡の下にはすでに南北に青函トンネルが開通していた。難工事の名もなき功績者の方々に感謝と合掌。その後、その中を新幹線が通過する予定になっていた。この海峡の通り抜けはマゼラン海峡ほどではないのだろうが、初めて渡る我々には命がけの冒険以外の何物でもなかった。大波に襲われて転覆するのではないかという事態が6回もあったが、ひとりの犠牲者も出さずに日本海から太平洋への移動を果たした。実際には深夜に海への転落の悲劇があって乗員数が減ってしまっていたのに、寿司屋で使わないまま艇内にしまっておいた忘却剤が知らないうちに染み出して蒸散して船底に低く滞留して、生き残ったボクらの記憶を睡眠中に消してしまっていたわけではないだろう。
 塩っぱい川という別名があるように、津軽海峡は基本的に西から東に津軽暖流が流れている。しかし、岸付近では逆流があり、これが難物だった。勝海舟、福沢諭吉などをアメリカに運んだ咸臨丸は、後に北海道への移民を小樽に向かって輸送中に松前と函館の間にある木古内沖で沈没している。開陽丸、咸臨丸のいずれも幕府の発注でオランダで建造された当時最新鋭の軍艦であった。
 この海峡はアジアと北米を結ぶ最大の貿易航路に躍り出ており、本州の南回りの物流量を凌駕している。硯海岸から内浦湾の室蘭沖までの間で鯨を8回も見かけた。私が子どもを作ったら、その子どもは決してヨット部には入らせない。危なすぎるからだ。この航海のことはこの時の仲間たちと死ぬまで繰り返し話をすることになるのだろう。そのうちに細部についてだんだん記憶違いが生じていき、最悪、ぼくらは宗谷海峡を渡ってオホーツク海に向けて航海したのだ、サロマ湖の湖畔で複数の大学のワンダーフォーゲル部の年例会に合流したのだ、と言い張る元部員も出てくるかも知れない。幸い、部員の中に脳外科の教室に入れそうな奴がいる。そいつが、そのような著しい記憶障害に対処してくれることになるだろう。
 鹿部の沖では、町内にある飛行場から離陸してきたばかりの軽飛行機が、我々の上空を位置を少しずらせて2回楕円旋回してピンクのハートマークを描いて歓迎してくれた。10回も旋回したら目が回って墜落したかも知れなかった。風防を開けて金床を落とされなくて良かった。100年以上前の初期の航空攻撃はそのように始まっていた。もし我々の艇に命中していたら、ここから先の話は何も生まれなかったのである。
 その鹿部沖から先は、半島部が西向きに突き出している室蘭を目指して北東方面に帆走した。ここは内浦湾の出入り口に当たる。イルカがついてきた。愛い奴じゃ、家来に任命してつかわす。沖合では生き物たちが目の前にいる。我々人間こそが彼らのテリトリーに入り込もうとしている闖入者なのだ。
「なーにっかいいこっとあるんじゃないのっ」と勘違いをしているらしいカモメの群れが周囲を飛び交う。
「おみゃーらにくれてやる餌はにゃーずら」
 遠くに見えるトッカリショの縞模様の崖が美しい。東京時代に見た江ノ島の裏を思い出した。規模は違うが、The White Cliffs of Doverをも連想させる印象的な岩石のミルフィーユである。入り口に白鳥大橋の見える室蘭港は工業港である。一部フェリーや巨大な豪華客船も入港している。絵鞆半島の根元付近にある地球岬から南に臨む太平洋の光景は、視野が左右に広く開放的である。船の先端から前方の大海原を見ている感覚になる。
 その大橋の西側から伊達市にかけて新設された室蘭西港は、マリンスポーツ振興のため、国が2,222隻もの多数のクルーザーが同時に停泊できる国内ダントツで最高の施設として建設した。わーい、バカでっかいマリーナだじょ。我々はそこに係留したのである。投錨に使っているのは、彫刻刀の刃を2枚並べたような形の普通のフルークアンカーである。埠頭に停泊した場所の番号はA-S12-W17だった。プラモデルの部品を支える枠のように、ウッドデッキが何本も四方に伸びている。一目でその上を走り回りたい気分になる。ホップ、ステップ、ざぶん。ヨットやクルーザーの多数並ぶこの場所で、小学生のころ友だち同士で入り乱れてデッキを縦横に縫って走って鬼ごっこができたらどんなに楽しかっただろう。後先のことを考えずに動いているうちにお腹が空いて、クルーザーに隠れたまま疲れて眠ってしまい、そのまま出航されたら大騒ぎになっただろう。
 エコノミストでも何でもないが、日本経済を立ち直らせる上で、「楽」という漢字を訓読み、音読みで生かすことを提唱したい。すなわち、「楽しい」と「楽(らく)」である。楽しさを追求すれば、国内からも国外からも人は集まってくる。対象がスキーでも、ヨットでも、バイク旅行でも、自転車の交歓会やレースでも、キャンプでも、何でもである。また、苦労や不便を解消したり緩和したりできれば、社会の幸福度が上がる。これを「楽+楽・経済」(たのらくけいざい)と呼ぼう。

第70章 予行演習(前半) https://note.com/kayatan555/n/n2101a49ee378 に続く。(全175章まであります)。

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