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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第86回 第70章 予行演習 (前半)

 レースでは内浦湾に五芒星の形を描く航路を設定している。上級コースはこの先端5箇所から湾の反対側の先端までの長距離を走り、中級コースは、内側の狭い5角形の部分は免除される規定となっている。そのため、両者では所要時間もその分かなり異なっている。この後者の場合、室蘭西港を出発して、豊浦、長万部、八雲と時計の逆回りに森まで行って、再び湾の内部に移動してから室蘭に戻るのである。湾内に5箇所、走路を曲げるための目印の浮標を設けてある。これは、マンガのキャラクターを使っているので、コマーシャル収入が得られる。夜はネオンが点滅し、海面に美しく映える。昼間首を出して見物に来ていたイルカたちは、夕暮れになると浴衣に着替えて出直してきて、灯りの回りで盆踊りを始める。C'est si bon.
「あら、あなたの朝顔模様のおニューの浴衣、夏らしくていいわねえ。それに、みんな撫で肩なのね」 
「えー、だってえ」
(昼顔をデザインした浴衣を着てきたイルカたちは、お化粧が心持ち派手に見える。夕顔の方はまだ眠たそうな顔をしている)。
 今日は8月中旬某日金曜日である。明日、明後日が本番だが、今日は自由に練習をしていいことになっている。こちらの方が部外者としては見学していて気楽であろう。朝食後、ヨットを早速そろりとまず南西向きに走らせてマリーナを出て、今度は海岸から50メートル程度の至近距離を西北西に向かって帆走した。マリーナが巨大であるため、その内側から外海に出るのは、ショッピングモールの広い駐車場から、ようやく公道に出るような感じがある。絵鞆半島西端にあるレース本部・E-tomoから許可されている公式ドローンのうちの5基が周辺を飛んでいる。放送用およびDVD制作用である。売れるのだ、レースの記録DVDが。だが、我々には空から迫ってくるレンズに顔を向けて笑顔を作っている余裕はない。海は常に魔物であり、マッコウクジラが真下からヨットを押し上げる危険さえあるのだ。
「許されてー」
 いつもは片側にしか見えない陸地がぐるりと周囲のかなりの割合にあるのが見慣れない。何だかこちらの湾の方が安堵感がある。津軽海峡の高波を思い出したが、湾内のこちらは平安な海面が続いている。左に方向転換! 見る間に海岸から150メートルほどの距離に離れて行く。最高500メートルほどの距離の沖を巡航して行く。風が全身を包み、髪が揺れる。一人を除いて。自由っていいな、危ういけれど。
 髭もじゃの欧米人、いや豪の可能性もあるな、ともかく西洋人のように見える乗員たちが、我々の方にサングラスをかけた笑顔で手を振ってくる。我々も手を振り返す。ええ感じや。海、ヨット、青春。イー、ヨット、カー。えっ、前歯の1本欠けた奴が空を指差している。見上げると飛行船がゆっくりと北北西に向かって進んでいる。下部についている船室の窓の中からも手を振る顔が見える。20人ぐらいが乗っていそうだ。胴体には、「勇気あるヨット乗りたちよ、根性を見せろ」との檄が、恐らく著名な書家の剛胆な運筆で書いてあった。
「おう、見せてやるとも!」
 北海道の西南部、そこに人類の理想郷のひとつがある。日本海北部、北太平洋に挟まれ、内浦湾が深く入り込んだ、江差・松前から函館、室蘭、千歳、長沼、江別、札幌、石狩ぐらいまでの地帯。我々はその石狩から生命の危険を冒してヨットを操ってこの湾に到達した。麻酔薬も使わずに済んだ。苦労の後の、そして決戦の前日の平穏なる1日。ボクらが卒業して医師免許を取得すれば、本人が志願したり、医局の判断で救急という野戦病院の現場に配属される医師も出てくるだろう。睡眠時間3時間ほどの毎日。その他のあらゆる医療現場で、患者さんたちの生命と尊厳を守るための苦闘が待ち構えているだろう。その修羅場の日々に、今日のこの夢のように穏やかな光景を思い出すことになるのだろうか。

第70章 予行演習(後半) https://note.com/kayatan555/n/ne55987ab0ac2 に続く。(全175章まであります)。

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