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第十八章 土下座営業で復活

「まな板の会」で自分をさらけ出す

 こうして自分の天職探しをしていたが、お金はじりじりと無くなっていく。鬱状態は相変わらず続いていた。追い込まれる感覚。何とか打開するチャンスはないかと、様々な会合にも参加した。その一つは福岡県中小企業家同友会という、中小企業経営者の勉強団体がやっていた「まな板の会」。これは毎回、課題や問題を抱えた経営者が前に立ち、現状を素直に吐露、発表する。それに対して、参加した聞き手の経営者が自由に意見を言うというもの。ルールが一つある。それは、発表者の反論は許されないこと。素直に聞けと。

 何回かは話を聞くだけの参加だったが、ある時、意を決して発表する側に手を挙げた。私は精神的に追い込まれていて、自虐的な気分だった。自分を虐めてみたいと。私は簡単な自己紹介をした後、仕事自体にやる気がない、どうしたらいいかわからない、ウツだ、みたいなことをウダウダと述べた。半ば、ヤケクソ気味に。

 それに対する意見として、「頭も体も普通に動くじゃないの。何でもできるよ」「甘えてるねえ」「贅沢言うな。世の中には体が不自由でどうしようもない人も沢山いる。感謝が足りない」「生きてるから大丈夫」「原点に戻る。毎日が初心」「一つに絞る」「人助けを第一に考える」「目標を持つ、理念を持つ」「何が好きか。何がデキルか」・・・数々の助言を戴いた。その場でガーンと来る気づきはなかったが、有り難いことだと感謝した。

四肢切断の中村久子

 その他、過酷な状況や絶望から立ち直った人の本を探しては読みまくった。一番、印象深いのは「中村久子」という四肢切断になった体で逞しく生きた女性の話。

 昭和の初め頃、貧しい山村で生まれた久子は、凍傷が悪化して突発性脱疽を併発。壊死した部分を切断した。小学校に上がる前のことだった。その後も、金がないのと、惨めな姿を他に曝したくない家族の気持ちもあり、久子は家の中で暮らすことが多かった。唯一の友だちは人形。「あなたは手手も足もあっていいわね。私に貸してちょうだいな」

 母は厳しかった。朝起きてから寝るまで、食事や野良仕事の手伝いや裁縫なども、手を貸さずに久子にさせた。そしていつの間にか、裁縫も口とわずかに残った腕の先でできるようになった。が、家の食い扶持を減らすため、20歳前後で久子は売られた。

 売られた先は、なんと見世物小屋!全国の祭りや露店市をドサ廻りする旅芸人の一人になり、短い手や口で裁縫や字を書く「だるま娘」をやることになった。

 極貧生活の中、夫の早死や離婚もあって結婚は4回経験。身体以外の苦労も多かった。その後、口・耳・目の三重苦であるヘレンケラーとも対面。ヘレンケラーは「私より不幸な人。そして偉大な人」とたたえたという。40代後半より全国から講演に呼ばれ、その困難を克服した体験は多くの人を勇気づけた。

 その他、神渡良平さんの書いた「下坐に生きる」では、掃除修養団体「一燈園」の高弟で三上さんという人が刑務所に講演で訪れ、結核末期で自暴自棄に荒れる18歳の少年を諭すシーンに感動した。未婚の母は少年を産んだ直後に死亡。父になる予定だった男は行方不明。天涯孤独の孤児で心がひん曲がった犯罪者を、なんとか死ぬ前に更正させたいと周囲は気をもむが、少年は暴れて言うことを聞かない。

 そこで三上さんは少年の独房に泊まりこむ。結核が伝染する可能性のある少年の残飯も食い、体をさすって看病し、様々な会話をする。その捨て身の接し方に感服して少年は改心し、三上さんを「おとっつぁん!」と呼んで感謝するが、少年はまもなく死ぬ。

 しかし、布団を剥ぐと、少年は微笑んで胸の前で合掌をしていた。世を恨んでばかりいた少年は、最後に感謝しながらあの世へ旅立ったのだ。

 ほれ見ろ、こんな少年に比べれば俺の悩みなどないに等しい、と自分に言い聞かせた。

 続けて「一燈園」創始者・西田天香さんの伝記「懺悔の生活」では、人生に迷いまくり、乞食をやって死にそうになったお寺の境内で「光」に目覚めたとあった。なるほど。苦しんだ末に光が見えてくることがあるのだと、俺にも「光」が見えることを切望した。

 この本を読む数日前に次男が生まれた。正直、家計が苦しい時に家族が増えるのは大変と悩み、名付けも悩み、届け出の締切前日に「光」と名付けた。俺を何とか救ってくれ。生まれたばかりの赤ちゃんにもすがりついたのだ。

 その他、当時ベストセラーになった飯田史彦さんの「生きがいの創造」「生きがいのマネジメント」も読んだ。国立大学の教授が書いた「生まれ変わり」と「生きがい」の研究論文だったが、生まれ変わりを信じることができない私にはピンと来なかった。

(しかし、この4年後、夫を亡くして悲嘆にくれていた社長夫人にこの本を贈ったところ、見事に琴線に触れたようで、その会社の経営計画書の冒頭に<私はこの本で立ち直った>と書き、その女社長の会社は8年後には10倍に成長。通販の(株)やずやです)

金がなくなり、土下座で廻る

 こうして本やセミナーや人づてに、失敗や挫折人生を逆転した話を探しまくった。なんとか俺も逆転させたい。そのためには行動。が、うずくまっているばかりで足が動かない。

 39歳の夏、ついに来月には金が無くなるまで追い込まれ、私は既存顧客と見込み客に頭を下げて廻った。何でもやります!仕事をさせて下さい!

 私はそれまでの自分を客観的に振り返り、仕事が欲しいクセにカッコウをつけて営業活動をしていないことに気づいた。かつ、新規開拓にばかり頭が向いていて、既存客や知り合いの見込み客を廻ることをまったく忘れていた。

 果たしてその効果はすぐに現れた。ラーメン一風堂の河原社長には、地元のタウン情報誌が毎年出すラーメン読本への広告を扱わせて欲しいと頼むと、「なんだ栢野君はそういう仕事をしているのか。今までと値段とか変わらないのならいいよ」。

 九州一の宅配鮨チェーン「ふく鮨本舗の三太郎」蔀社長からは突然電話を貰い、

「今度、テレビCMをやろうと思うけど、栢野さんのところでお願いしますよ」

「ええっ、それはうれしいです!でもなぜ?他に大きな広告代理店もあるのに・・」

「CM料金はどの代理店でも同じだし、栢野さんには今まで、人脈紹介などで世話になっている。その恩返しですよ」

「・・・ありがとうございます!」

と涙が出た。有り難い。

 こうして1カ月頭を下げて走り回った結果、約2500万円の注文をもらった。前月までの平均受注額が月100万円だったから、一気に1年分以上の仕事を頂いたのだ。

 いつのまにかウツも治っていた。私の場合、ウツの原因はいつも、仕事の行き詰まりとそれに伴う経済的貧困。サラリーマン時代から変わっていない。仕事に満足し、収入的にも充分食えている場合はウツにはならない。

 ただ厳密に言うと、この時は仕事に満足しているわけではなかった。サラリーマン時代の延長で求人広告や販売促進の広告代理業をやっていたが、何かが違うと悶々としていた。だから新規開拓に意欲が出なかった。でも、青い鳥は見つからない。金がなくなり追い込まれ、ハングリーパワーが出たのだろう。

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