遠藤周作
この作品は江戸時代の日本でキリスト教を広めようとする2人の宣教師(パードレ)クリストヴァン・フェレイラとセバスチァン・ロドリゴ、そして、キリスト教の信仰が弾圧される時代にあってなおキリスト教を信仰する「隠れ切支丹」の物語である。
この作品を語る上でなくてはならないのがキチジローの存在だ。
キチジローは臆病な性格で、その性格ゆえに切支丹であれば禁忌ともいえる「踏み絵」をし、また何度も何度もパードレを裏切り、何度も許しを乞う。
俺は、踏絵ば踏みましたとも。モチキやイチゾウは強か。俺はあげん強うなれまっせんもん(中略)
じゃが、俺には俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。
俺を弱か者に生れさせておきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せられる。それは無理無法と言うもんじゃい(遠藤周作「沈黙」)
キチジローは弱虫でどうしようもない性格だと鼻で笑うのは簡単だ。
しかし、私はそこに人間の弱さや愛おしさを見た。
誰もが強くはいられない。弱い部分や醜い部分も必ず持っている。
誰もが見て見ぬふりをしたくなる、目を逸らしたくなる部分を具現化したものがキチジローではないかと思う。
自らも信者とともに「穴吊り」の拷問に処され、それでも神を信じ祈りを捧げ続けるも神が何もしてくれなかったことに絶望し転んだ(信仰を捨てた)フェレイラに諭され、転ぼうとしなかったロドリゴがついに転ぶところで物語は終わる。
踏み絵をする決断をしたロドリゴにフェレイラが「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ」と語りかける。
ロドリゴがまさに踏み絵をしようとした瞬間に初めて神の声を聴く。
踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。(遠藤周作「沈黙」)
神はすべてのことを「許す」ために存在し、その許しこそが神の愛だと思う。
ロドリゴもまた自分が転んでパードレではなくなった後でも告海を求めるキチジローを許すのだった。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」(遠藤周作「沈黙」)
何を信仰するでもない典型的日本人に「信仰とは?」を問いかける作品。
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