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自由に生きるための哲学勉強会 第3回 ~フッサール 『現象学の理念』~

昨年(2022年)より、若輩ながら "いちチームのマネジメント" を担うことになったのだが、日々チームメンバーと向かい合う中で 『自分の中にもっと芯の様なものを培う必要性』を感じ始めた。

そんな中、身の回りで『自由に生きるための哲学勉強会』という有志による学び場が発足したため、哲学分野は全くの素人ながら参加してみた。このnoteは、勉強会への参加を通じて感じたことを備忘録的に残すものである。


1.今回の哲学勉強会のテーマ

フッサールの著作である『現象学の理念』が、今回の勉強会のテーマであった。自分自身のおさらいも兼ねて、概要を書いてみると以下の通りである。

①フッサールが究明したもの

フッサールは「主観と客観が一致しないなら、人間はどうやって世界を認識しているのか?」「人間の認識と世界ははたして一致するのか?」「一致するとして、それを人間はどの様に確信するのか?」について、現象学の中で究明することを行った。

「人間は主観の領域の外には決して出られない。従って、客観的実在世界には誰一人行き着かない」というデカルトの言葉をフッサールも認めている。

②現象学の提唱あたっての観点

「世界の実在の証明を存在するために世界の全てを疑う」というデカルトの「方法的懐疑」という手法を導入した。実在だと単に思い込んでいるだけかもしれないものを、一旦全部捨てることによって証明することを目指した。

その中で、フッサールは形而上学(けいじじょうがく)における「主観と客観」の考え方そのものを疑問視し、全く新しい「内在と超越」という考え方を提唱するに至った。

📝『内在』とは?
それぞれが自分の内に持ち得る "疑い得ない認識" のことである。本理論中では、主に「実的内在」と「構成的内在」が取り上げられる。「実的内在」は「 (個々人にとって) 疑い得ない端的で明白な認識をしている意識の有り様」であり、「構成的内在」は「他者と "対象" を相互に確認しあって、普遍性を見出し構成されたもの」である。なお、「構成的内在」は「普遍的な対象性」とも表現される。

📝『超越』とは?
"自分の内在を超えて (客観的)実在に向かう認識" のことであり、"疑い得る(可疑的な)認識" のことである。人は『超越』を通じて、内在で意味(構成的内在)を構成するとする。

( 🦎や🦗を用いたのは、子供と最近飼育中であるため ※深い意味はない )

③現象学におけるポイント

現象学は形而上学における従来の理論とは異なり、「実在 (客観性)」そのものを目指すのではなく、「私たちが有する "内在" の認識が "実在" に『的中』しているという確信 (※)」を限りなく高めていく方法 を提示することを目指した。

📝※に対する補足
実際には「それ自体として存在する事象に、我々の認識が『的中』しているという確信」と表現する。ここでの、「それ自体として存在する実在」は「客観的実在 」であり、「我々の認識」は「構成的内在」である。

この様に「内在と超越」という捉え方をしながら内在と実在の『的中』を確信する方法を到達目標とすることによって、科学の様に最初から客観的実在世界を大前提としたり、従来の形而上学の様に主観と客観を完全に分けて哲学することなく、私たちが捉える内在だけで作業することが可能となった。

現象学提唱の中で具体的手段として示したのが「現象学的還元」である。

📝現象学的還元とは?
既存の知識や経験を一旦横に置いておき、知識や先入観などは一切関係なくただ感じたことを取り出すこと。「素朴な信念の一旦停止」とも言われる。行っていることは "エポケー" とほぼ同じ意味であるが、”現象学的還元” には「戻す/返す」という意味合いも含まれる。

2.哲学勉強会を通じて感じたこと

フッサールの現象学に触れる前に、カントの純粋理性批判に触れていたが、カントは「主観と客観」のそれぞれに対して、従来の前提条件を見直し、【感性】と【悟性】という認識の枠組みを新たに提唱することによって「主観と客観」の整合を取ることを試みていたのに対して、

フッサールは更にダイナミックに、「主観と客観」という枠組みからも離れて、「 (主観に基づく) 実的内在の積み上げを通じて構成的内在を抽出し、客観的実在に対する的中への確信を得ていく」という形で「内在と超越」という枠組みを新たに提唱していることに面白味を感じる次第であった。

カントとフッサールでは "どの部分に疑問を投げ掛けるか?” に違いがありながらも、どちらの提唱内容にも "それぞれに納得感を覚えてしまう" ところが更に面白いところである。考え方を変えれば、私達の思考は様々な捉え方/解釈余地のある『曖昧なもの』なのかもとも思わされた勉強会であった。

哲学とは「互いに根拠を示し、ともに検討して、もっとも説得力がある主張が勝つゲーム」であるとされるが、カントもフッサールも長きに渡る論争を勝ち抜いて理論だけあって、受け手側に強い説得力を与えるものになっているのだと思う。

3.一歩だけ踏み込む中で感じたこと

勉強会の内容を踏まえながら一歩踏み込んで読み解いていく中で、印象に残った点を2点ほど紹介する。

①私たちが扱う "言葉" とは?

フッサールの主張する「 "言葉" とは現象学的還元によって、内在を整理することによって得たものである」という観点が非常に印象的であった。先人達が日々の生活上の体験から得た実的内在から、例えば "色を表す言葉" が生まれるなどし、その内容が複雑化・高度化する中で高度な言語文化が形成されたのだろうとする。

"言葉" に対するこの様な捉え方はあくまでフッサールの理論に基づくものであるが、その点を踏まえながら自身の周りを見渡すと、日頃職場で何気なく使われる職場特有のフレーズ(言葉)も、その職場文化として必要であるとされた構成的内在である と解釈できるのではないかと考える次第であった。

それらのフレーズも何気なく冷めた目線で見てしまうと、「なぜわざわざ独自のフレーズを使う必要があるのか?」と思ってしまうが、職場文化を通じて生み出された構成的内在 と捉えると一転して面白味を感じれる様に思う。

②科学者と現象学的思考について

現象学に関する話の中で出てきた「優れた科学者なら自分では意識していなくても、学問・研究の過程でエポケーや現象学的還元をしている」とする主張が印象的であった。

例えば、「万有引力の法則」を見出すにあたって、ニュートンは "リンゴが落ちる" という端的で視覚的な実的内在から、「リンゴは木から落ちる」という普通の構成的内在を得た後に、自分の内在の認識を疑ってエポケーすることによって、「リンゴは地球側から引っ張られている」という新しい構成的内在を作り直したのではないかと捉える。

科学者の重要な思考様式が、哲学における「主観と客観」への論議の探求の中で見出されている 点について面白味を感じると共に、ニュートンが存命していたのは 1600~1700年代 であるのに対し、ニュートンの様な優れた科学者が無意識的に有していた思考様式を 1800~1900年代 に存命していたフッサールが形式化しているという時系列的なところにも面白味を感じた。

この面白味を振り返りつつ、今の世の中には「**思考」というものが多く溢れるが、もしかすると『 "今・その場所" で生きる上で本当に必要な思考様式は、必ずしも "今・その場所" では形式化されないのかも』ともふと考える次第であった。

4.全体を振り返って

カントに関してもフッサールに関しても、従来の前提条件を疑い、覆すことによって、従来の論議を超えて "従来対立せざるを得なかった観点" を融和していくことを目指していた。その点を踏まえると、やはり『新しい観点を得るためには、従来は当たり前とされた前提条件を疑うという振る舞いが欠かせない』ということを改めて思う次第である。

その一方で、「どの前提条件を覆すのか?」が実は相当に難しいのではないかとも考える。今の自分達の中で "当たり前" とされる前提条件が そもそも "当たり前" とされるのは、"当たり前" とし得る理由があるから 他ならない。

ーーー
マネジメントを担う中においては、日々多くの判断を求められるが、各判断を行う上では土台となる前提条件に対する見極めを行うことが欠かせない。ズレた前提条件を握りしめてしまうとそれだけ判断を誤ってしまう。

「前提条件の尤もらしさ」を見極める上では、現象学的な言葉を用いると、"内在として有する前提条件" を構築する構成的内在を細かに精査しながら、客観的実在に的中していると思われる構成的内在を整理すること が大切になるのかもしれない。

📝振り返りの最後に
手に取った書籍の一節では、「人類にとって本質的な正しさは何か?」という問いに対する答えに最も近づくことが出来るのが「フッサールの現象学」であるとされていたが、この点は自身の宿題として今後深掘っていきたい。

(参考)本noteに関連する情報


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