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2022. 8-

にせもののいいね、とわかる、を指さして笑うのは簡単なのだけれど。

よくもなく、わるくもないことのほうが
わりと多いこの世の中で、

分かり合えないことの方が圧倒的に多いことにも
しょうがないと言えるようになってしまった。

だから笑って誤魔化してしまうひとの多さといったら。私も例外ではない。

ならばどうして、どうやって分かり合うかなんて
話して、砕くことにはもう疲れてしまっている。

ーーー
ブルーボトルコーヒーでリエージュワッフルという名前のものを食べる。誰かがおいしいといっていたから。
倉庫を改築した、骨組みと窓と空の青さが目立つ店内で食べる、適切なあたたかさのワッフル。

美しくて、計算されていると感じる。緻密。

ブルーのシャツを着た制服の店員が動く。
洗練された全てのなかで、シャツだけが野暮ったくて、均一。
そのせいで、なんだか監視されているように見える。
看守のように、
彼らの目を盗むように食べ続けることが店内の秩序に対する少しの反抗のように感じる。

ジブラルタル、という聞き慣れぬ名前の飲み物を飲む。お豆はホンジュラスがおすすめです、と伝えてくれた店員の青年に笑顔を返す。

ホンジュラスはどこにあるのだろうか、
帰ったら調べてみよう。ブラジルと飲み比べてみるのもおすすめです、と彼は言った。

私たちはジブラルタルとホンジュラスとブラジルについてどのくらい知っているのだろうか。
私は何も知らない。
清潔で空っぽな店のなかにある無数の場所たちのことを全くと言って良いほど知らない。

ミルクの気泡が上唇に当たって弾ける。
砂糖を入れていないのに甘く感じる。

適切な温度のミルクと適切なサービス。

吉祥寺のペットショップの掛け看板に、良質な子犬、という言葉がデカデカと掲げてあったのを思い出す。

良質な子犬。

良質な子犬がいるなら、良質な人間も居るのだろうか。こんなことを考えてしまうのは、わたしが疲れているからか。

温くなったワッフルを齧る。
リエージュ、とはどういう意味なのだろうか。
また知ったかぶりをしてしまった。
ーーー

真似のできない女たちという本を読んだ。
エキセントリックな21人の女たち。
苛烈で、激情に翻弄され、生い立ちに葛藤がある彼女たちのことをわたしは勝手ながら同士のように感じる。

女として生まれるというのは多かれ少なかれ
女であるという役割を背負いながらも
ひとりの人生として受け入れて歩くことを意味する、
行き着く先が何処であろうと。


ーーー
電車から降りて、意味もなく待合室に座った。
待ち人はいない。しばらくぼうっと座って初めて、わたしは別にどこにも行きたくはなかったことに気付く。

誰も待っていないけれど、だれかを待っているような気持ちだけ持っている。
私は家に帰りたくないみたいだ、とぼんやり思う。


どうも私はそういう所がある。
行動の意図を後から知るような。

体は知っているふりをしない。
避けろ、と言っている。殴られたら血が出るのは身体の摂理。
心が少しずつ壊されていくのを黙って見ていることにアンチしたい。

自分の感受性を守りたい。

場違いに台所の引き出しにある古びた木箱のなかの、かつて臍の緒だったもののイメージが残像とともに突然頭を過る。母のテリトリーにある母を縛り繋ぐ縄。
私の臍の緒はどこにあるのか分からない、
比喩ではなく。でも透明な臍の緒の存在はここにある。繋ぎ、縛る。

待合室から一歩、足を出す。
ひどく遅い自分の足の甲の速度を、かたつむりの動きのように観察する。

ゆっくりと足が境界の外へ出るのを見届けて、前を見たら、空がまた今日も少し困ってしまうくらいの美しさで、

これから私は空が綺麗だと思うたびに、
それを誰に話したいか考えてしまうのだろうと思う。

でもこの美しさはきっと家に帰るまでの短いみちのりで消えてゆき、誰かにその美しさを話したかったことさえ忘れて、
でも心では覚えていて、

そういうことを隠して、わたしは生きるような気がする。不本意ながら。
ーーー
朝焼けの気配を残す空とヤクルト1000という名前のプラシーボ効果を持って外に出る、
タイから来た柑橘のジュースも共に。
ジュースは聞き慣れない名前なのに懐かしさを感じる味。
昔飲んだバリのホテルで出されたフレッシュジュースの余韻みたいな味がする、

わたしはあの幼いときに既にバリに住むひとと
フレッシュジュースを飲む自分をわたしの眼で見ていた。借り物の眼でなく。
何が違くて違う場所で生きるのかというようなことを考えていた。
ーーー

異世界混合大舞踏会、という曲を聴く。
聴きながら、これを書いているのだけれど、
人は電車の進行速度を示す電光掲示板をなぜこうも熱心に見るのだろうか。

後何分で着く目的地のその時間を見る。
そうして一秒は過ぎていく。

星野源が歌う、踊るという言葉は
この世界を駆け抜け、掻き分け、生き抜いてきた「わたしたち」の生きざまをあらわす言葉にも思える。踊ることは心を震わせて自分なりのやり方でからだを動かすことなのだから。今響くこの音楽にからだを思うままリンクさせる、流れる一秒はこの先の目的地にあるのではなく、いまを生きているわたしのために。あなたのために。そして目に見えぬだれかのために。

ーーー

「俺はさ、電車にいる人間のほとんどがブロイラーに見えるんだよ」と、父が言った。

「ブロイラー、」
「そう、ブロイラー」

瞬間、あのぶよぶよした皮下脂肪の味を思い出した。
薄黄色い脂肪とその柔らかさを引きちぎる歯。

「ここもそうじゃねえか、家畜小屋みたいなもんだろ?」マンションの床を指差す。

「電車に乗って、いい歳したおっさんがさ、くるくるくるっ、ぱっ、きらきらきらっていう画面を必死になって見ているのを見ると俺は、みんなブロイラーだなって思うんだよ」

父の言うくるくるくるっ、ぱっ、は
きっとパズルゲームの話で、
でも別にそれだけじゃないのは分かりきった話だ。

バーチャルの世界に逃げ込む人間、
指を数センチ動かせばコントロールできる世界のことに満員の人がいる車内から逃げようとするさま。

もはや目の前の人間や風景には感動できなくなっているのかもしれない。
心が震えないことを強いとするありさまのなかで、
今ここ、から楽園へ逃げる人びと。

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