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極夜の奥の温もりが

 北風と、それに連れられた雪の冷たさが、不意に背を撫でた気がした。油の浮いてギラついた銀色の毛並みに沿って、背を滑った雪が飛び去って喚いた。
 大きく欠伸をして、顛末を見届けてなお真顔で立ち尽くす塀の上へと駆け上がった。もう三年も人の手が入っていない、伸び放題な木の枝に邪魔をされつつも、なんとかその弱った枝を足場にして、何度見ても変わらない世界を見渡した。
 一面に広がる瓦礫の山。体を侵す放射線。一体いつになったら、また私の背に温もりが舞い戻るのだろうか。
すっかり冷えきった背のあたりに、飼い主の掌の温もりが広がる、そんな雰囲気だけを思い出す。
 猫撫で声をあげていた頃を思い出しながら密かに耽ていると、ふと三年前のことが思い出された。鼓膜をふるわすその轟音が、身を焼き尽くすあの熱波が、また脳裏をよぎったのだ。
 
 この世界の、どこでどんな悪行が繰り広げられていたとしても、そんなもの自分には関係ないと、そう言いたくなってしまうほど平和な世界だ。そんなふうに、私は不意に思うことがあった。飼い主がどこか嬉しそうにしているときなんかは特に、そういった思考の世界にのめり込みやすかった。
 その日もウチの飼い主はどこか嬉しそうにしていて、私のことなどそっちのけで忙しそうにしていた。しかし、その不審な飼い主の挙動は、すぐに終わりを迎えた。唐突にミサイル警報のアラートの音が、この世界の平穏を木っ端微塵にしながら、あたりに響き渡ったのだ。
 私はその不快極まりない音色に、思わず跳ね上がって足をばたつかせた。鳴り止んだ後になっても、まだ耳が痛む。飼い主もその場で軽く跳ねると、すぐに血の気が引けたような表情を見せた。
「……最寄りの地下鉄駅まで三十分はかかっちゃうなぁ」
飼い主はそう言って、一瞬困ったような表情を見せたが、結局飼い主はその程度の反応しか示さず、「まあどうせ海に落ちるんでしょ?また」とかなんとか言っていた。
 妙にその言葉に納得した私は、そうかそういうものかと軽く受け流して、再びカーペットに身体を寝かせた。しかしそのとき、ガラスの向こうの、夜に染まった空の上で、ふと何かが鈍く光ったのが見えた。不思議な柄をした何かが、ゆったりと空を揺蕩い、降下してくるのが見えたのだ。なぜだか身の毛のよだつ気配がして、無意識に尾を立てる。脳内を、先程のアラート音が這いずり回る。
刹那、それが地球に降り立つとともに巻き起こったのであろう轟音が響いてきた。そして間も無く、そのあたりから放たれる急激なエネルギーによって、夜闇に染まった雲が、一斉に赤くなった。夜でありながら、昼間のように明るかった家々の光は、一斉にその赤に飲み込まれ、失われていった。
辺りはあっという間に、焼け野原になってしまった。
 強烈な熱波が、家を溶かした。咄嗟に屈んだつもりだったが、その熱波は私の全身を焼いた。痛みから、助けを乞うように上目で飼い主を覗いたが、もうすでにそこに飼い主はいなかった。その場に残るは、家だったものの灰や瓦礫と、黒く消し炭になって壁に影だけを落とした飼い主だけだった。
 飼い主が消えたと認めたくなかった私は、その爆風が収まった頃に、瓦礫の隙間をぬって家から抜け出した。しかしどこまで行っても、眼前に広がるのは焼けこげた野原と、崩れさった家々のみ。少しだけ焼け残った肉片由来の悲鳴は収まるところを知らず、もたもたしているうちに空はもうすっかり暗くなってしまった。爆心地からは、きのこの傘のように大きく広がった雲が出て、あたりを覆っていた。
ひどく喉が渇いた私は、焼けた身体を引きずりながら、黒ずんだ水を啜っていた。
 
 アレからもう三年が経とうとしているらしい。私は、一体いつになったらまたあの人に逢えるのだろうか。
少しして、おもむろに木から降りた。そして唐突に、前まで住んでいた家の近くまで行ってみようと思った。別に、飼い主に逢えるわけではないのだが。いや、まだこの目で見ていないのだから、飼い主がいないとは限らないじゃないか。己に嘘を吐いて、誤魔化す。
 ふと視界に入った光景に、私の心臓は跳ね上げられた。目の前で、私が倒れていたのだ。毛を焼かれ、皮を破かれ、黒ずんだ水たまりに伏している。
 頭の中を、何かが駆けた。そうだ。もう、死んでいるのだ。私も、飼い主も。飼い主を探す気が、失せていく。今思えば、実体があると矛盾してしまう事象などいくつもあった。
 そうか。死んで……そうか。死んでいるのだ。この世にいてはならないのだ。それなのに、未だこの世界には、私を引き止める何かがあるようなのだ。気がつきたいのに、なぜだか気がつきたくない。まだ、この世界で、叶わぬ夢を追いかけていたい。もう少し、もう少しだけ……。
今すぐ向こう側まで逢いにいけばいい話のはずなのに、なぜ躊躇ってしまうのだろうか……
 複雑を極める心情を、紐解くことはもう誰にもできない。
 
 もう、気温さえわかりはしないのに、まだ自我の内のどこかで温もりを待っている哀れな猫が、そこにはいた。その温もりに出会うことは、確実に叶わず、そのまま暗闇に消えていくような願いでしかないというのに。もう晴れない明るさだというのに。
 一日中明るさを失わなかった人間たちの家々は、もう明るさを取り戻すこともない。明暗に満ちた人間たちも、もう取り戻されることはない。
 ここら一帯は、もう三年も極夜が続いている。

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