北村透谷私論(3)

 もう数年で透谷の死後130年の今、戦前戦後にわたって蓄積された研究は、単に量的に膨大であるばかりでなく、多様な研究方法•方針による思想解明の試みを持つ。以下に研究史を概観し、年代ごとに、中心的な研究者を列挙する。

 『日本文学研究資料叢書 北村透谷』有精堂(昭和47年•1月) 解説・東郷克美氏の整理をもとに、代表的な研究者•論文•単行書籍を紹介する。


〈戦前の研究〉
 北村透谷の研究は戦前に始まる。島崎藤村が自然主義の潮流の中で実作した『春』(明治41)それをも越えて大正7年に『桜の実の熟する時』などに透谷がモデルとなった人物を登場させ、悲劇的予言者としての透谷像がかたちづくられた。

〈昭和二〇年代〉
・勝本清一郎
 『透谷全集』(全三巻・昭和25~30)の編纂は近代文学研究の模範とされている。代表的な透谷論としては「透谷の宗教思想」(「文学」昭和31•2)があり、そこでは透谷思想を解く三種の鍵として、社会改革思想、キリスト教思想、仏教思想を挙げている。

・笹淵友一
 『北村透谷』(昭25)『文学界とその時代 上』(昭34)に至る研究において「近代日本文学史と基督教」というテーマから、透谷の思想的転回、内部生命獲得の契機としてキリスト教、特にクエーカリズムとの接触を最重要視する。この霊性への志向は小田切的透谷に対して、キリスト教を核とする回心の透谷像として一つの位置を得た。

・小田切秀雄
 透谷の「政治から文学へ」のコースを自身のプロレタリア文学体験の先駆として「発見」する一方、このプロセスにおいて「国民大衆から孤立」していた観念性が、日本文学のその後の自己封鎖的なコースを作り出すことになった点を「弱点」として指摘する。この点で一貫した氏の主張はのち『北村透谷論』八木書店(昭45)に集大成される。

(つづく)

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