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夜煙の星

 ふっと吐き出した煙が、夜の闇に溶けていった。

 うきうきとした足取りで帰ってきた同居人に丸め込まれて、屋上で夜のピクニックと洒落込んで数時間。
 もう夜もすっかり更けて、きらきらと光る星灯りだけが、世界を主張している。
「今日は新月だからね」
 そう言ってレジャーシートに大の字になった彼は、既にすやすやと眠りこけている。放置するわけにもいかずにひとり、虚しく煙を吐き出し続けている。
 五年前、小高い郊外に建つこの家を譲り受けた。二階建ての、築三十年。屋上から山々越しに海が見えるのが気に入って、引っ越すことを決めた。
 彼が転がり込んできたのは、三年前。たまたま居酒屋で意気投合したのがきっかけだ。彼は絵描きを生業にしていて、そのくせ家賃が払えなくて当時住んでいたアパートを追い出された。一時的な宿代わりのつもりだったのが、住み着かれて今に至る。
 彼の抱えていたスケッチブックをそっと抜き取った。沈みゆく太陽と、現れる星空。ぱらぱらとページを捲る。桜並木、結露したアイスコーヒー、浴衣を着たカップルの後ろ姿、グラデーションに染まったもみじ。雑多なスケッチが鉛筆で描かれていて、ところどころ擦れて霞んでいた。
 ん、と声を上げて、彼が目を覚ました。形の良い猫目がこちらを見上げる。
「あ……寝てた、俺?」
「ぐっすりな。もう二時になる」
「まじか……先寝ててくれて良かったのに」
「置いてけるかよ」
 ぐうっと伸びをして、彼が起き上がる。見下ろす側から、見上げる側へ。灰皿に溜まった吸殻を見て、彼がため息をついた。
「禁煙しなってば」
「やだね」
「なんでだよ、早死にするぞ」
「いいよ別に」
「良くないだろ」
「はいはい。気が向けばな」
 舌打ちする彼を横目に立ち上がった。地平線ギリギリに隠れていたオリオンは、天上まで登り詰めている。
「明日……もう今日だけどさ」
 ふと思い出したように、彼が呟いた。危うく聴き逃しそうになったその声に立ち止まる。
「どうした」
「不動産屋行こうと思って」
 思わず息が詰まった。彼はこちらを見もしない。ただただその猫目に、きらきらと星が反射している。
「……どうして」
 ぽつりと溢れた言葉が、思いのほか湿り気を帯びていた。内心慌てたのを察したのか、彼はこちらを見上げると、ふは、と息だけで笑った。
「別に、すぐ出て行こうなんて思っちゃないよ」
「ずっと居たっていいのに」
「ずっとは居れないよ」
 彼は何でもないようにそう言った。
「最近は絵もちょっとは売れるようになったんだ。懇意にしてくれるキュレーターも居てさ」
 だからそろそろ自立しなきゃ。と彼は言った。自立なんて、考えもしない、ただ夢を追いかける子供のような人だと思っていたのに。知らないところで彼は、夢を叶えるためにちゃんと歩いていたのだ。
「そっか」
 星々に薄い雲が掛かって、きらきら輝く光がぼやけて見える。
「まあ、この家から出てったとしても、縁が切れるわけじゃないんだから」
 彼は、こんな深夜には似合わない、太陽みたいな笑顔を浮かべた。
「これからもよろしくな」
 あの星々は、そういえばこの銀河系の遥か向こうに点在するのだった、と、ふとそんなことが頭をよぎった。

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