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異常に定型的な表現

ふだんはあまり外に出ることのない事務方のスタッフ達を新商品発表イベントに参加させてみることにした。たまには営業側の活動をスタッフ達にも味わってもらおうかなと思ったのだ。

スタッフ達には参加後に「自由記述で」レポートを提出するよう求めていた。イメージしていたのは、ちょっとした気づきと改善提案くらいの、ごく初歩的な報告書だったのだが、実際に提出されたものはそんな想定の斜め上を行くものだった。

新商品発表会に参加する恩恵に巡り合ったのは私の会社人生における最大の喜びです。最も感動的だったのは、鳴り響く音楽と共に新しい商品が光の海から現れ、そして偉大な指導者新商品に手を触れたとき。魔法が注入され、美しい会社の未来が描き出されました!それに続く指導者からの力強い言葉、私は大きく温かいものに包みこまれ、会社を誇りに感じずにはいませんでした。私たち社員の使命はまだ始まったばかりです。素晴らしい指導者の下で、会社と共に成長し、共に進歩し、昨日の自分を超えていくことができます。

なんだこれは。

イベントそのものは、大げさなスモークとやかましい音楽の中で新商品が登場し、社長と販売店、おっさんふたりが握手をしてスピーチするという、わたしが言うのもなんだけど、至ってフツーの企画だった。それがまさか偉大な指導者とか魔法注入とかまったくの想定外だし、というかレポート以前にただの作文だし、どこからつっこめばよいものやらさっぱりわからない。

ちなみにこれを書いた女性は、キュウリをポリポリかじりながら若い営業マンに説教するのが標準仕様である。社長の言葉に感動しているところなどついぞ見たことがない。

この子だけかと思って他のスタッフ達のレポートにも目を通してみたが、驚くべきかというか、果たしてというか、恐ろしいほどにほとんど同じ定型構成であった。だからと言ってイベントの内容が頭に入っていないのかというとそんなことはなく、実際に本人を呼んで話を聞くと、ステージにはレッドカーペットを敷くといいとか、司会者には芸能人を呼ぶべきとか、検討価値はほとんどないけどそれなりに指摘はしてくるのである。それを「自由に記述」と言ったとたんに異常なまでの没個性を発揮する。自由な意見など絶対に記録に残してはならない。教育の深い闇を感じた。

さて、近所にある幼稚園の外壁に園児たちが描いた絵がかかっている。

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テーマが「我愛上海」「我愛祖国」なのはご愛敬だ。絵そのものは子供らしいタッチでほほえましいな、と思っていたのだが、よく見るとなにやら様子がおかしい。

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こんなに漢字書けるのすごいな

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色相環すごいな

きわめつけはこれ。

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あなたが天才か

これはそこいらの親が代理で描いたレベルではない。絵画が趣味のおじいちゃんが準本気で描いたレベルだ。老房子と東方明珠塔を遠近で対比させる構図、どことなく暗鬱な予感を連想させる家と空のダークな色使い、このセンス、なかなかのものである。

と、うっかり感心しかけてしまったけれども、これはかなり問題ではないだろうか。作者はあくまでも園児ということになっている。園の指導で子供たちを従順な型にはめたふりをして、そのじつ子供の代理人が型にはまったものをゴーストライトし、そしてそれがバレバレであるにもかかわらず、堂々と公道に展示されている。これはやりすぎというか、もはや病的だ。

一方で、中国の人が新しい発想でビジネスイノベーションを起こしているのも事実である。もしかしたら中国の子供たちは、過剰なほどの定型を仕込まれる教育を通じて世界には「本音」と「建前」の二面性が存在することを早い段階で学び、さらにそのモードを瞬時に切り替える手段も学ぶことで、「こんなの本当の私じゃない」みたいな些末な悩みに時間を奪われることなく、本来の学習効率を上げているのではないだろうか。何の逡巡もなく過去の発言を反故にしながら強引にビジネスを進める人たちを見ているとそう思う。


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