見出し画像

今でも思い出す。夜逃げした幼馴染のこと。

前回の記事で強制退去の話を書いたが最近よく思い出す事がある。

私は子供の頃市営団地に住んでいて、同い年くらいの友達が沢山いた。
たまたま同学年には男の子が多く、唯一の女の子の友達がりっちゃんだった。

私とりっちゃんは沢山立ち並ぶアパートの隣の棟に住んでいて、同じクラスで学校でもずっと一緒にいた。

りっちゃんは気が強くて、時々喧嘩もしたけど、とても仲良しだった。私はりっちゃんが大好きだった。

りっちゃんのうちには、2つ上のお兄ちゃん、当時小学校五年生くらいだったと思う。そして、生まれたばかりの赤ちゃんがいた。りっちゃんは三人兄弟の真ん中。
りっちゃんのお父さんもお母さんも若くて、お父さんは作業着を着て働きに行って、お母さんは赤ちゃんをおぶっていつも家にいた様に思う。

私の母は、私とりっちゃんが仲良くなり、りっちゃんのお母さんともお友達になったようで、時々晩御飯をりっちゃんちに届けるようにわたしに言い、私はりっちゃんちに晩御飯のお裾分けをよく届けていた。

りっちゃんちには、部屋の真ん中にテーブルがドンと置いてあり、そのテーブルをただぐるぐると走り回って遊ぶのが楽しかった。あの頃は、何もなくても全てが遊びになった。

団地に住んでいる人たちは、それほど裕福な人もいなかったけれど、当時、土地開発が盛んで、どんどん新しくできるニュータウンに申し込みをして、抽選にあたった家の子は、新しい家を建てて引っ越して行った。そんな時代だった。

りっちゃんちも、私の家も引っ越しの予定もない。いつもこのままずっと私達は永遠だと思っていた。

ある日、友達の誕生会があった。
戸建てのお友達のおうちにりっちゃんと2人でお邪魔した。
はじめての誕生会。
折り紙で装飾された部屋は子供にはキラキラに光ってみえて、テーブルに並べられたお菓子とケーキはアパート暮らしの私達には見た事ない夢の国の様だった。
私は姉に何がプレゼントを持っていくんだよ!と言われ、買うお金もなかったので、姉が家にあったラメラメの鉛筆を綺麗な包装紙に包んでくれて用意してくれた。
誕生会とは、当時のわたしにとって世界が広がった瞬間だった。

その帰り道、これから誕生日を控える私とりっちゃんは、私達も誕生会をしようと約束した。


最初に誕生日が来たのは私で、さほど裕福で無い私の家でも、知恵のある姉がその準備をしてくれた。包装紙や折り紙で何とか豪華に飾り付けをし、紙コップに絵を書いてその中に少しのおやつを入れただけでも豪華に見えたものだ。
友達を呼んで、ささやかながら楽しい誕生会だった。今でも、こういう場を作ってくれた家族には感謝をしている。


それから何日たっただろうか。

今でも忘れられない事がある。
りっちゃんの誕生日が近づいて、私はりっちゃんの誕生会に招待された。
その頃にはクラスの子達の誕生会にも何回も参加し、同じ様なノリで、私はりっちゃんちに向かった。
何人かの友達とプレゼントをもってりっちゃんちに入った時、あれ?っと思った。
いつも遊ぶ部屋にはいつもと同じように大きなテーブルがドンとあるだけで、飾りもお菓子も何も無かった。
私達は、あれ?どうしたのかな?っと困っていた。
するとりっちゃんのお母さんが来て、その場をみて察したらしい。
「うちは誕生会なんてやるお金は無いって言ったでしょう!」
初めて見たりっちゃんのお母さんの怒った顔だった。
その途端、りっちゃんは、テーブルの横に大の字になり、ワンワン大声で泣き出した。
私達は、どうして良いかわからずそのまま家に帰った。


その後の記憶は定かではない。
でも、その後、何日かしてから、りっちゃんのお母さんが我が家にやってきて、りっちゃんの誕生日会をやる事にしたから来て欲しいと言ってきた。
そして参加した誕生会で、りっちゃんは見たことないくらい幸せな笑顔だった。
今でもその顔が焼き付いて離れない。
私が記憶してるりっちゃんの最後の顔。
当時は、誕生会をした事でりっちゃんも元気になると思ってた。


それからしばらくりっちゃんは風邪でよく休みがちになった。
同じクラスの私は先生に頼まれた書類を届けに行くがりっちゃんちは留守が多かった。

最後にりっちゃんのお母さんを見たあの日。
何度も何度も呼び鈴を押し、ようやく玄関に出てきたりっちゃんのお母さんの顔は青白くて怖かった。
今も鮮明に思い出す事ができる。

何を会話したかは覚えていない。
もう30年以上も前のことだ。


それから程なくして、りっちゃんが引っ越したと学校で伝えられた。
子供心に、何かを察した。
それまで転校して行く子は、クラスの皆んなに挨拶をしたし、1人1人に鉛筆などを置いて行っていた。
何も言わずにいなくなるなんてなかった。


私は、子供の心に傷ついていた。
でも、それを大人に聞くことが出来なかった。聞いては行けない気がしていた。
1人で帰る帰り道がこんなに静かだったとは。

母が、近所の人と話をして泣いているのをこっそり見ていた。
りっちゃんの家は夜逃げということをしたらしい。
私は誰にもりっちゃんの事を聞けず、気にしないふりをしながらその後を過ごした。

年月が経ち、ある日私は家族と夜逃げ屋本舗という映画をTVでみていた。
その時に、父が、
「昔、隣のアパートの家族も夜逃げしたなぁ」と言った。
夜逃げ屋本舗は、コメディの様なものだったが、やけにしんみりしたのを覚えている。

母がいうには、りっちゃんのお母さんは立派なお家柄の人で、お父さんとの結婚を許されず駆け落ち。3人の子供を育てるお金もなく大変だったらしい。
母は、それを知っていて、私によく晩御飯のお裾分けを届けさせていた。
私の両親も結婚を反対され、子供も三人。母と父は自分達も生活は大変だったけど、共通点だらけのりっちゃん家に対して他人事とは思えず、りっちゃんちに晩御飯を届けていた。
それでもりっちゃんの家が夜逃げするとは思ってもいなかったらしく、やはり父母にとっても、りっちゃん一家の失踪はショックだったそうだ。

母は、りっちゃん達がいなくなる前の日に、りっちゃんのお母さんにブローチをもらったらしい。
それはりっちゃんのお母さんがそのお母さんからもらった大切なもの。
深いブルーの色のまあるいブローチ。
りっちゃんのお母さんは、駆け落ちして出た生まれ育った家のこと。どう思っていたんだろう。
本当は帰りたかったのかな。今となってはわからない。

「何で私にブローチをくれたのかなぁ」
母は、今でも気にしている。
生きていてほしいけど、形見の様に渡されたブローチ。何も語ってはくれない。

この夜逃げ屋本舗の映画の様に、りっちゃん一家がどこかで生きている事を願っている。
今でこそ、債務整理などがあるが、当時は夜逃げも多く、その後も住民票も動かせず
日雇いや、学校にも行けず、病院にもかかれず。。なんて番組をみるたび心を痛めた。
もしかしたら、実家に頭を下げて、身を隠し時効になった今では家族みんな元気かもしれない。勝手にそう思い込もうとする自分がいる。

あの日の誕生会。
りっちゃんのお母さんのりっちゃんを思う気持ちが今になってわかる。
自分も子を持つ親になって、りっちゃんのお母さんの気持ちが痛いほどわかる。
何気ない誕生会も、命がけだったのだ。
親達の思いも知らず、ただ喜んでいたあの頃の自分。
今の自分が存在しているのは当たり前ではないのだ。

私の仕事の原点はここにあるのかもしれない。


私は、そのあと、漠然と困っている子供を支援する仕事につきたいと思っていた。
養護施設で働きたいと思っていたり、公務員になって、困っている人の役に立ちたいと思っていた。
なぜか今は子供ではなくご高齢の方の支援をしているのだけど、
なんらかの形で、将来は子供に携わっていきたいと思う。

私とりっちゃんと何が違うというのだろう。私だって、生活を追われる可能性だってあった。そんな時代だったと思う。
今の人が聞けば、何でそんな状況で子供産むんだとか、働けばいい、と言うかもしれない。でも、その頃女性が簡単に働ける世の中では無かった。

私の幼馴染は、今どこで何をしているのだろう。白い作業服のカッコいいお父さんも、ショートカットの黒髪のお母さんの白いうなじも、オナラでドレミを鳴らせるお兄ちゃんも、癖毛のりっちゃんも、あのミルクの匂いのする赤ちゃんも、皆んなどこに行ってしまったのだろう。
思えば思うほどに途方に暮れてしまう。でも、時々何かの拍子に何度も思い出してしまう。

今日の生活が明日には無くなる事があるのは、今の厳しい時代でもありうる事だ。
私達は変化していかねばならない。
守るべきものを守るために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?