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「異人伝―はぐれ者の系譜」その一 鳴海要吉 前田速夫

*『異人伝―はぐれ者の系譜』の第1回を全文無料で掲載します(編集部)
 
はじめに
 他人の気持ちを忖度して取り入ったり、その場の空気に合わせて器用に立ち回る人間が嫌いだ。敷かれたレールの上から一歩もはみ出さないエリートや、ごく人並みの人間も、つまらない。反対に、はぐれ者、はみ出し者、愚か者、不器用な人間が好きだ。親近感をおぼえる。
 本篇に登場してもらうのは、いわばその親玉たちである。なにしろ、スケールが大きい。万事、無難に無難にと世間を渡らざるを得ないわれら庶民のなかに、こういう先人たちがいたと知るだけで嬉しくなる。なかには、殺人を犯して、島流しにあった人物すらいる。むろん、そのすべてを喝采するわけではないが、彼らはそういうはずれ者の自分からさえも、はずれていってしまった。
 世間的にいえば、決して恵まれた境遇にいなかった。不遇であり、ときに指弾されたり、揶揄されたりもした。しかし、彼らはそうした逆境をものともしなかった。はねとばすだけのものを備え、はぐくんでいたのだ。彼らを突き動かしていたものは何だったのか。偉人ならざる「異人」の魅力と、その生と死を、読者の皆さんとともに考えてみたい。

鳴海要吉(1883~1959)

その一 鳴海要吉 陋巷にうらぶれた北の口語詩人


 一八八三ー一九五九。青森県黒石生まれ。小学校の同級に秋田雨雀がいた。明治三八年に上京して、田山花袋の書生となる。石川啄木より早く口語短歌を開拓し、ローマ字詩集『土にかへれ』が島崎藤村や花袋に激賞される。エスペラント語の普及にもつとめ、「トコヨゴヨミ」を考案した。上林暁『和日庵』は、隣人の晩年を活写する。


    わび住まい
  あきらめの旅ではあった
  磯の先の白い燈台に
  日が映していた
 
 鳴海要吉一代の絶唱である。生涯思い続けた初恋の女性吉田すまが婚約したのに絶望、以後上京と帰郷を繰り返し、一時は島崎藤村の斡旋で田山花袋家に書生として住み込むものの神経衰弱が昂じて帰郷、一年後、下北半島の果ての佐井村尋常高等小学校に赴任する途次に詠んだ歌だ。
 下手をすれば演歌さながらの低俗な感傷に堕しかねないところを、そうはならず、醇乎たる抒情に結晶しているところが要吉の真骨頂で、石川啄木が精力的に口語短歌を発表する三年も前に詠まれた、わが国口語短歌の最初期に属する作品である。
 上林暁の『和日庵』は、この鳴海要吉が晩年、氏の隣人として、近所にわび住まいしていたときのことを活写している。
 
 私の住む界隈――杉並区天沼二丁目庚申湯の付近を、朝に晩に、飄々と歩いてゐる一人のお爺さんがある。別に用がありさうには思へない。風呂の行きかへりに洗面器を提げてゐるほかは、いつも細身の洋杖をついてゐる。かなりひどい猫背で、短くなった口髭の下に、出つ張つた歯をあらはして、一人で歩きながら笑みかたまけた顔をしてゐる。長い白髪が汚れたソフトからはみ出して、耳にかぶさつてゐる。
 
 これが書き出しで、当時でさえ「気の早い人は伊藤整の『鳴海仙吉』と思い違いをするくらいが落ちであろう」と紹介しているほどだから、今ではすっかり忘れ去られた存在であったとして不思議はない。
 私が要吉の名前を知ったのは、『チェーホフの生活』や『プーシキン伝』で知られるロシア文学者の故池田健太郎氏からであった。氏は当時、大学紛争に嫌気が差して東大駒場の教職を引き、乞われて入社した某大手出版社でも、幹部に非礼な振るまいがあったとして辞表を提出、若い身空で世間と没交渉に「閉戸読書」を実践していた。学生時代に、氏の教室に何度か顔を出し、研究室を訪ねたこともあった私は、新潮社に入社して文芸誌の編集部に職を得ると、早速氏を訪ねて原稿の執筆を慫慂したのだった。
 戦時中、満州で陸軍の高官だった氏の父君は、部下の反乱に遭い、銃殺されたと聞いたことがある。そのせいで、母一人子一人の氏は長く苦学時代を送った。アルバイト先の創元社では編集顧問だった小林秀雄に可愛がられ、私淑した神西清からは文学の基本を徹底的に叩きこまれたという氏は、その温容に似ず、こと文学に関しては、真贋をゆるがせにしない人であった。
 「あるとき神西さんに翻訳の文章を添削してもらったら、テンとマルしか残らなかった」(笑)とのことで、師匠譲りの厳格な美意識と倫理感が対人関係に及ぶと、ほうぼうで衝突しないでは済まず、「ケンカの健太」の異名を取ったと嘯いていたほどだった。
 私は、この池田氏ほど文章の一字一句に厳密であった文学者を知らない。伝記やエッセイはもとより、翻訳の文章においてすらそうだったから、チェーホフやドストフスキーの翻訳にはなみなみでない自負と情熱を持っていたのは疑えない。したがって、よそからの借り物をもって文学者顔・研究者顔をするこの国の外国文学者一般には、軽蔑の念を隠さず、容赦がなかった。おそらく明治時代なら、二葉亭四迷のような人物であったのであろう。
 その池田氏の口から鳴海要吉の名が出たのは、同郷同姓の鳴海完造(一八九九ー一九七四)を通じてである。弘前に近い青森県黒石の出身で、革命十周年に際して国賓待遇で招待された同郷の先輩秋田雨雀に同行、爾来ソビエトに留まり、レニングラードの諸大学で日本語を教え、作曲家のショスターコヴィチとはことに親密な交友があったという完造は、自著は一冊も残さなかったかわり――それを池田氏は「ぶざまな仕事を世に残す鉄面皮をついに持ち切れなかった」(「鳴海完造氏のこと」)と表現しているのが、いかにも氏らしい――、滞ソビエト時代に四千冊を超える膨大な量の貴重な文学書を蒐集(ツルゲーネフの真筆書簡もあった!)、その学殖の深さは容易ならぬものがあったとのこと。
 池田氏が完造と面識を得たのは、『プーシキン伝』を執筆するに当って、蔵書の世話になったからだが、氏の没後、黒石の生家の蔵に堆く積まれた四千冊にのぼる原書の目録を十日ほどかけて作成しているとき、完造をソビエトに伴った秋田雨雀と同年同級生に鳴海要吉がいたことが、幾度も頭のなかを去来し、北国の小都市黒石と、東京、ロシアを結ぶ文学者たちの交流のありかを浮き彫りにしたいとの思いが沸々と湧いてきたと、私に語ってくれた。それは、一つにはたぶん同門の人間として、そうした事実があったことをぜひとも後世に伝えたいとする使命感に駆られたのと、もう一つは、当時の池田氏が若くして隠棲し、逼塞した思いを抱えていたことが、要吉という早熟でいながら世に入れられなかったうらぶれた人物に共感するところが大きかったからに違いない。
 
池田健太郎氏との冬の旅
 それからまもない昭和五十一年一月、私たちは要吉の足跡を追って、冬の津軽、弘前、黒石、温湯(ぬるゆ)、板留、そして青函連絡船で海峡を渡って、彼が尋常高等小学校でエスペラントやローマ字を教えたこともある北海道増毛にも赴いた。
 連載『閉戸読書の記』の第三回「黒森山再訪」は、このときのことを書いていて、冒頭にこうある。
 
 正月あけの数日間、わたくしは編集部の若い友人M君とともに、閉戸読書の日常を破って津軽の冬景色を見て歩いていた。最近、東京ではめっきり雪が少なくなって、為永春水は『春色辰巳園』の、丹次郎、仇吉の場合のような、雪に降り込められての色恋すら味わい得ぬひからびた冬が多いが、やがて余儀なく訪れるであろう老残の身となるまでに、一度北国の冬を味わってみたかったのである。太宰治は名作『津軽』のなかで、津軽の旅行は五月六月に限ると書いているが、真冬の津軽もまた捨てがたい情緒があるのではないか。「雪は万醜をおおうですナ、先生」案内役に立たれた、七十六歳になる元県会議員S氏が、横なぐりにさっと降りしきる吹雪を浴びてこう呼びかけたが、その言葉には実感があった。実際、雪は思うほど積っていなかったにせよ、旅の印象は鮮烈だったのである。
 
 小泊では太宰の乳母の越野たけに面会、黒石の旧鳴海完造宅では蔵書の検分をした翌日、黒森山の中腹に立つ浄仙寺を訪ねて、S氏が建立した歌碑と対面した。
 
  いのちあって
  迷はぬものは何処にある
  あれあの通り雲さへ迷ふ
 
 その後は、要吉の足跡を辿って、さらに奥地へと進んだ。
 
  背戸の山は
  わらびもふとく
  山鳩は
  ててつ、ぽうぽう
  ててつ、ぽうぽう
 
 さすがに、雪は深くなり、要吉が歌を詠んだ地は、一面膝まで達する豪雪に埋れていた。北海道へは青函連絡船で渡った。
 
  堪えよ、今
  北海道へ出稼ぎに
  青森の町に古シャツあさる
 
 函館から列車に乗り換え、留萌を経て、かつてはニシン漁で沸いた増毛まで行った。
 
  顔のよい娘もまじり
  たいりょうの
  網いま曳かる
  生(ライフ)の悲しみ
 
  何べんか
  此世をなくした
  人で無けや
  僕の言葉は
  判らんよ君
 
 余談だが、先年、高倉健主演の映画『駅』を観たら、ここ増毛駅が舞台になっていて懐かしかった。
 

鳴海要吉の生涯
 ここからは、要吉のことを知ってもらうため、高橋明雄著『うらぶる人――口語歌人鳴海要吉の生涯』(津軽書房)巻末の略年譜を参照する。(著者を増毛に尋ねたとき、氏は高校の生物の先生をしていて、「留萌文学」に要吉のことを断続的に発表していた。)
 
 明治一六年 青森県南津軽郡横町二番地に生れる。父の代から呉服商を営み、屋号を「鳴三」と称した。
 明治二二年(六歳) 黒石尋常小学校に入学、同級生に秋田徳三(雨雀)がいた。この年、横町から前町に転居。筋向いに旧黒石藩御典医の吉田家があり、一人娘すまがいた。同じ前町に徳三と鳴海完造の家があった。
 明治二八年(十二歳) 家の商売が傾き、高等小学校を中途退学。吉田すまに恋文を書くが、返事はなかった。
 明治三〇年(十四歳) 家出して上京するが、連れ戻される。藤村『若菜集』に心酔。
 明治三六年(二十歳) 信州小諸在の藤村に手紙を書き、返信を受け取る。
 明治三七年(二十一歳) 大鰐尋常高等小学校雇教員、ついで黒石尋常小学校雇教員となる。詩集『乳涙集』を自費出版、帆羊の筆名を用いる。この年、雨雀も新体詩集『黎明』を自費出版。七月二十六日、『破戒』自費出版の資金を借りるべく、函館に妻冬子の父を訪ねる途次の藤村を、雨雀と共に青森駅に出迎え、一夜同宿する。
 明治三八年(二十二歳) 「吾が胸の底の茲」五十五首が、「東奥日報」紙に掲載される。吉田すまの婚約を知る。「この時却を/根こそぎに去れ/わがをとめは/みだらの床を/人に伸ぶべく」は、このとき作った歌。上京し、田山花袋家の書生として住み込む。
「蒲団」のモデル岡田美千代も一緒だった。十一月末、帰郷。
 明治三九年(二十三歳) 青森師範学校第二種講習所に入学。エスペラントに惹かれる。
 明治四〇年(二十四歳) 青森県下北郡佐井村佐井尋常高等小学校に赴任。佐藤キサと結婚、同郡東通村田代尋常小学校に転任する。要吉の歌に感動した社会派詩人大塚甲山との文通が始まる。「覊旅集」「勤労篇」「黒潮篇」を漂羊の筆名で「東奥日報」に発表。
 明治四二年(二十六歳) 北海道へ渡る。手塩国増毛尋常高等小学校に勤務。渡米中の三兄要助の縊死を知らされる。
 明治四三年(二十七歳) 苫前郡苫前尋常小学校へ転じる。
 明治四四年(二十八歳) 長男出生、百日咳をこじらせて死去。大塚甲山死去。小学校に御真影を迎えるにあたって、不敬とも見られる挙措があったとして譴責を受ける。
 明治四五年(二十九歳) 休職を命じられる。行商をしながら苦難の日を送る。長女みどり出生。
 大正二年(三十歳) かねて考案試作の段階にあった「トコヨゴヨミ」(万年暦)を製作販売するため、みたび上京する。
 大正三年(三十一歳) 「トコヨゴヨミ」の殆どが売れ残る。田山花袋は要吉をモデルに小説「トコヨゴヨミ」を発表。「日本ろーまじ社」に入り、同社からローマ字詩集「TUTI NI KAERE」を鳴海うらぶるの筆名で上梓する。
 大正四年(三十二歳) ローマ字普及のための文藝個人雑誌「AKATUKI」を創刊。北海道での要吉の受難のヒントを得た雨雀の戯曲「緑の野」が「中央公論」に載る。
 大正七年(三十五歳)  岩野泡鳴が小説「一日の労働」を発表。明治三八年、要吉が花袋の家を出たあとの一日を描く。月刊誌「陸奥の友」の編集に携わる。
 大正八年(三十六歳) 次男竹春出生。
 大正九年(三十七歳) やまと新聞社に校正係として就職。
 大正一二年(四十歳) 関東大震災で被災。
 大正一四年(四十二歳) 日本字版詩集『土にかへれ』を自費出版。
 大正一五年(四十三歳) 口語歌誌「新緑」を主宰創刊する。このあとこの歌誌は、誌名を「短歌文学」「緑風」「緑野」と改めながら、昭和一六年まで続く(通巻百三十五号)。
 昭和七年(四十九歳) 口語歌集『やさしい空』を上梓。「万朝報」に校正係として勤める。
 昭和十一年(五十三歳) 吉田すまが病没。享年五十。
 昭和十二年(五十五歳) 要吉編『若菜集以前』を刊行。
 昭和一七年(五十九歳) 童話集『芽生をうゑる』を上梓。
 昭和一八年(六十歳) 藤村死去。
 昭和一九年(六十一歳) 四十年ぶりに黒石に帰る。
 昭和二〇年(六十二歳) 米軍機による空襲で被災。戦後「わび仮名」を創案して、これに執着する。
 昭和二二年(六十四歳) 少年小説『土に立つ子』を上梓する。
 昭和二三年(六十五歳) 次男竹春シベリア抑留から帰国。
 昭和二四年(六十六歳) 上京。杉並区天沼に転居。
 昭和三〇年(七十二歳) 杉並区荻窪の棟方志功宅で久しぶりに秋田雨雀らと歓談、戦中戦後へかけての雨雀とのわだかまりが解消される。その後、志功宅の庭には要吉の石碑が建つ。碑文は「なにおもふ/こどもあそぶあそべとて/春の良い夜の橋が乾くに」。
 昭和三一年(七十三歳) 高血圧で倒れる。いろは四十八字による詩「不滅の百合」の改作に執着する。郷里の有志が歌碑設立の申し入れをしたのに対して、吉田すまの墓石のすぐ隣に建てよと命じて、てこずらせる。
 昭和三二年(七十四歳) 上林暁が「和日庵」を発表。
 昭和三四年(七十六歳) 高血圧症に心臓障害を併発して、自宅で死去。
 

鳴海要吉が考案した「トコヨゴヨミ」


衰弱した文学精神
 いくつか補っておくと、青森の旅館で藤村と面会したときのことは、詩歌集『土にかへれ』に寄せた序文で、藤村が次のように書いている。
 
 今から二十年ばかりも前に、私は北海道の方にある親戚を訪ねるため日露戦争当時の不安な空気の中を遠く小諸から旅したことがある。その時、二人の未知の友が青森の宿の方で私を待ち受けて呉れた。私が初めて鳴海要吉君を知り、秋田徳三君を知ったのは、この時からであった。
 あれは楽しい会合だった。あの港らしい空の見える青森の宿の二階で一緒に『ごめ』の鳴声を聞いた時のことは、それからも長く忘れられずにある。当時の鳴海君も秋田君もまだ若いさかりの年頃であつたし、私とても七年の小諸の生活を辞してもう一度東京へとこころざす頃であつた。
 
 秋田徳三(雨雀)は、その後早大英文科に進学し、島村抱月、小内内薫らに認められて劇作家、小説家、児童文学者となり、エスペラント運動やプロレタリア運動の長老として鳴らした。『雨雀自伝』や『秋田雨雀日記』五巻には、しばしば要吉のことが出て来る。ただし、要吉は左翼の思想とは無縁である。
 ローマ字詩集『TUTI NI KAERE』はのち日本語版も刊行されたが、一例を挙げれば左のごとくである。
 
  Suna wa yake,
  Yukute wa Hito no Kage mo naku,
  semete to sitau
  Hamanasu no Hana
 
  砂は焼け
  行手は人の影もなく
  せめてと慕ふ
  浜茄子の花
 
 島崎藤村も田山花袋も激賞したが、ここでは後者のを引く。
 
 鳴海君に取ってはこの世界は心の震へる世界である。歌であらうが、詩であらうが自分の震へて感じたものを文字にあらはさずにはゐられないやうな心持の境遇に居る。従つて鳴海君の感じたものは善から悪かれ自己の真に感じたものである。北海の林の中、太平洋に面した荒磯のほとり、さう言ふさびしいところで、その自然の児がいかに震へる心を抱いてゐたかといふことを考へると、私は何とも言はれないさびしさに打たれる。鳴海君に持つてゐるものは煩悶とか苦痛とか言つたやうなものではないのである。さういふセンチメンタルなものではないのである。体と心とが一緒にさびしい自然に向かつて震えわなゝいてゐるのである。さびしい然し燃え易い頭に映つた自然のさびしさとわびしさがこの小さな冊子の中にあるのを私は見る。
 
 文学活動のほかに、「トコヨゴヨミ」や、いろは四十八字による詩の制作、「わび仮名」など、発明の才があったことも注目される。以下は、前掲の『和日庵』で、要吉、上林の共通の友人だった安成次郎との対話の一節。
 
「鳴海君は一種の天才ですよ。あれでゐて、数学的な頭脳が素晴らしいんですよ。幾つも幾つも面白い発明をしてゐて、特許を取ってゐるだけでも、二三十あるでせう。それで食つてゐるんぢやないですか。」と安成さんは語った。
「さうですか。」と私は好奇心を動かされた。「それは見かけによりませんねえ。さう言えば、多少マニヤックなところが感ぜられるから、さういふ気質が発明なんてことに打込ませるんでせうねえ。」
「発明の一つに、常世暦(とこよごよみ)といふのがありますよ。日時計の目盛りのやうなものを組合わせた機械で、それを廻すと、西洋紀元の何年何月何日は何曜日に当るかといふことが直ぐ判るんです。例へば、ナポレオン一世が肯定に即いた日は何曜日であったかが知りたい時は、それで調べれば直ぐ判るんです。
 
 ちなみに田山花袋の小説『トコヨゴヨミ』には、鳴海要吉が花袋のところにそれを見せに来ることが書かれている。また、藤村操が日光華厳の滝で投身自殺したとき、それに触発されて作った「精励安泰歌」と、その後五十年かかって口調を整えた、いろは四十八字を一度も重複させない詩の完成形「不滅の百合」は、こうである。
 
  宵に精魂(たま)消え滅ぶとも
  岡の辺永劫(へうせぬ)百合花(ゆり)咲(ゑ)みつ
  自然児(こ)吾沈着(おちゐ)て励(いそし)めば
  裂(さ)けなん胸ら安泰(やす)くある
 
  ワレラ オチヰテ イソシメハ
  サケナンムネ ノ ヤスクアル
  コヨヒ タマ キエ ホロフトモ
  ヲカヘニ ウセヌ ユリ ヱミツ
 
 後者は散歩に出て阿佐ヶ谷駅の踏切で危うく事故に遭いそうになった翌日の作ということで、すぐに文部省へ行って登録申請をしたとのこと。
 「わび仮名」とは、要吉が若い日に学んだエスペラントをベースにして、それに日本語の片仮名を折衷し、ローマ字にならって配字したものというが、くわしい説明は省略する。
 さて、では鳴海要吉をめぐって、なぜ以上のようなことを、私は長々と書いてきたか。それは昨今の文学環境との余りな隔絶ぶりに、眩暈のようなものを感じるからである。
 エスペラント語やローマ字による表記が無益な努力だったこと――もっとも、私はエスペラントを、必ずしも安直な世界語とは思わない。グローバリズムが席巻し、ITやAIなど英語万能の時代にあって、少数言語国の武器になる可能性が出て来た――、また自由律口語短歌の革新性も期待されたほどには秀作を生まず、すでに役割を終えているのは確かだとしても、私は鳴海要吉が、鳴海完造が、あるいは秋田雨雀が、北国の寒村から身を起こし、生活に追われ、窮しながらも、心に悲しみを抱えて、報われることのない文学に命を捧げたその真剣さに打たれる。
 それだけではない。みちのく黒石に世界へ向けて飛翔せんとする、かくも分厚い文学のネットワークがあったことは、近頃地方都市を旅するにつけ、コンビニと予備校、高利貸とパチンコ店ぐらいしかない現在の貧寒たる状況と比べて、なんと心豊かであったかと羨ましくなる。
 池田健太郎氏に同行した旅から帰って間もないある日、私は「和日庵」の作者上林暁氏の担当をしていたこともあって、氏を上林家に案内して紹介し、その足ですぐ近くの鳴海家にも寄って、御遺族の竹春さんに挨拶した。
 当時、上林氏は脳溢血で倒れたあと、半身付随の身体をベッドに横たえ、鉛筆を左手に持ち替えて、妹の睦子さんにしか判読できない字で、再起のための小説を一字一字綴っていた。
 私がそのようにして書いてもらった原稿は、『朱色の卵』『ジョン・クレアの詩集』など十篇あまり、読んでみたいというので届けたプルーストの『失われた時を求めて』が、全巻よれよれになっていたのに仰天したこともあった。
 その姿を目のあたりにした池田氏の発奮のさまが、今もありありと目に浮かぶ。だが、直後、私は他の部署に異動を命じられ、池田氏はその二年後、新たな著作に着手して間もなく、心筋梗塞に襲われて帰らぬ人となった。享年、五十。新潮選書から出た『チェーホフの仕事部屋』は、最初の部分を除いて、著者の談話やノートをもとに、私が書き起こしたもので、自分では弔い合戦のつもりだった。
 ごく最近まで、文学はそれを信奉する人にとって、命と引き換えにすらなるものだった。したがって、それを読むものにとって、著者は畏敬するほかない存在だった。
 かかる文学精神が、掃いて捨てられて久しい。鳴海要吉も上林暁も池田健太郎も、今の人は名前すらよく知らないのかもしれない。売れ行きでしか、単なる情報、一時的な娯楽のためでしか、本の価値が認められなくなってしまったとは、何としたことだろう。
 
【執筆者プロフィール】
前田速夫(まえだ・はやお)
1944年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。民俗研究者。1968年、新潮社入社。1995年から2003年まで文芸誌『新潮』編集長を務める。1987年より白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。
おもな著書に、『異界歴程』『白の民俗学へ』『古典遊歴』『白山信仰の謎と被差別部落』『辺土歴程』『海を渡った白山信仰』『北の白山信仰』『「新しき村」の百年』『老年の読書』ほか多数。『余多歩き 菊池山哉の人と学問』で読売文学賞受賞。
併行して、「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を、「アートアクセス」(電子版)に『場所は記録する 私たちは今どこに居て、どこへ往くのか』を連載中。


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