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立ち呑み小説「冷酒は味塩で」

昔、父が私を連れて酒場に連れて行ってくれた。小上がりとカウンターのある割烹で、短冊に書かれた献立が一つ一つ壁に貼ってあった。父はそこから好きなものを食べなさいと言った。酒場にあるもので私が食べられそうなものは、卵豆腐くらいだった。
 その酒場に連れられて行くと、いつも卵豆腐を頼んだ。父が酒場に私を連れて行く時は、母は来ない。母は父が金を払って他の酒場に行くことを嫌っていたし、父が行く酒場は鎌倉にあったから、電車に乗って行く。帰りには、タクシーでベロンベロンになって帰って来る。幼い私は、一軒目でタクシーに押し込まれて一人で帰って来る。
 父が飲むのはまず瓶ビールだ。キリンラガーだと思う。それから冷酒。私はオレンジジュース。父は何を食べていたのだろうか。マグロの山かけとか、鯨ベーコン、やきとん、煮込み、そんな感じだろう。父が何を酒場で注文したのかも覚えてないし、何が好きなのかも覚えていない。酒場だけでなく、家庭でも何を好んで食べていたのか覚えていない。
 父の嫌いなものは覚えている。
 たとえば、母の作ったカレー。
「カレーライス、嫌だなあ」 
 父はあからさまに母に言い放ち、カレーライスの上に生卵を載せ、ブルドッグ・ソースをかけてよく混ぜて食べた。私も母の作ったカレーが美味しくないと子どもの頃は思っていたから、父の真似をしたらすんなり口に入った。
 あるいは、トマト。
 父はトマトに砂糖と醤油をかけて食べていた。流石にそれを真似する気にはならなかったが、昔のトマトは熟成しても真っ赤にはならず、酸味が強く、食べづらいものであった。

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