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開かれたVoiceを武器にして

いつも書くことは昔のことだ。

昔むかし、私が夕刊紙の編集記者であった時、ある人にコラムの連載を頼むと手紙を出したら、その人が電話してきて、優しい小学校の先生のような声で、
「編集部に伺いますよ」
と言った。30年近く昔のことだ。

その人はテレビで見るのと同じ、柔らかでちょっと眩しいものを見るかの表情で、神保町のはずれの編集部に現れた。その人のために<編集部特派記者>と肩書きを付けた名刺を用意していた。私が名刺を渡すと、その人は、
「嬉しいなあ。名刺なんか作ってもらったのは初めてですよ」
と大袈裟に照れて見せた。

その人は本業の書籍とは別に、ある分野についての書籍をいくつも出していた。私はその人の本業の本は読んだことはなかったが、ある分野についての本は好きでほとんど読んでいた。その人は語り口が優しく、文章にもその優しさが表れており、読者に向けて開かれた文章であった。私はその人は名文家だと思っていた。開かれた文章の対極に、閉じられた文章というものがあり、閉じられた文章とは、読者の意思を確かめることなく一方的に自分の主張を疑いなく放り出す文章のことだ。開かれた文章とは、戸惑ったり、疑ったり、迷ったりしながら、その戸惑いや疑いや迷いさえも読者に提供しながら綴る文章のことだ。

その人を私は最初テレビで見た。月に一度深夜から早朝にかけて生放送される討論番組で。

その人の肩書きは、<新右翼・一水会代表>とあった。私には<右翼>と<新右翼>の違いも、<一水会>がどういう団体かも知ることなく、その討論を見ていた。その時その人がどんな主張をしたかもその日のテーマが何かも覚えていない。

覚えていることは、一般にイメージする<右翼>とは全く異なり、その人が声を荒げることもなく、自説を強く主張することもなく、いつもの柔らかい物腰で眩しいものを見るかのように目を少し細めて頬をいくぶん尖らせながら、<自分の言うことは間違っているかも知れないけれど自分は今はこんなふうに思っているんだ>という開かれた言い回しで討論に参加していことだ。

それから何度かその人と一緒に時を過ごしたけれど、その人が笑いこそすれ、声を荒げたことなど見たことがない。私がその人と一緒の時を過ごしたのはほんの二、三年に過ぎないが、その人が亡くなるまでその人の<開かれたVoice>が変わることはなかったように思う。右翼とか左翼とか関係なく、その人は常に<開かれたVoice>のところに行き、傾聴し、意見を述べ、疑問を提示し、未来を語り、<開かれたVoice>を武器と信じる人びとーーたとえば、フランス文学者で武道家の内田樹さんーーに受け入れられ、愛された。

私はその人がある分野の本を書いていると知らずに、その人のある分野の本を読んで楽しんでいたが、その著者と<新右翼>のその人が同一人物だとは知らなかった。同姓同名ではあったが。夕刊紙コラムの連載執筆者としてリストアップし、著者履歴を調べて初めて同一人物だと知った。

やがて私はその夕刊紙を半年ほどで辞め、夕刊紙も一年足らずで休刊になった。私はフリーランスのライターとなり、雑誌に企画を出す立場になった。その時、「週刊プレイボーイ」の編集者がその人に興味を持ち、その人に久しぶりに連絡してインタビューの承諾を得た。「週刊プレイボーイ」は軟派路線ばかりが目に付くが、一方で硬派なジャーナリステックな側面もあり、ゴリゴリの社会派編集者はその人がなぜ<新右翼>という立場から<中庸>に発言するようになったのかを知りたいと熱心だった。

インタビューの日、私より一回り年上の編集者とカメラマンと、初めてその人の住まいに行った。その人は新宿に近いJRの駅近くの、古びたアパートに住んでいた。昭和の時代によくあった外階段がコンコン音を立てるようなアパートの一階に。玄関を開けるとすぐが板の間の台所で、襖の奥に畳の部屋がうなぎの寝所のように二間続いていた。

私たちは奥の部屋で胡座を組んでゆっくりと考えながら喋るその人のインタビューを3時間ほど行い、カメラマンが写真を撮り、編集者が食事でもと誘い、
「それじゃ駅前のいつも行く喫茶店に」
とその人が言い、案内されるままに四人で昭和な喫茶店に行った。

その人がカレーを頼んだので四人ともカレーを食べた。喫茶店で出てきたカレーライスは業務用のレトルトカレーであったが、その人は味など気にすることもなく、カレーを平らげ、皆が食べ終わるのを確認すると、
「今日はこれから稽古に行ってきます」
と手を振って町道場に向かった。中年になり一人昭和なアパートで本に囲まれて暮らしているその人は柔道の稽古に週一で通っていたのだった。

そのインタビューがモノクロ巻頭8ページもの特集として掲載された「週刊プレイボーイ」が発売されると、その人は喜んで感謝の電話をくれた。インタビューを読んだ編集者は「週刊SPA!」に「夕刻のコペルニクス」という連載をその人に依頼した。その連載を読んでジャーナリスト専門学校がその人に専任講師の依頼もしてきた。そのたびにその人は電話してきて、私に大袈裟な感謝を述べるのだった。
「<ジャナ専>で何を教えるのですか?」
「それが現代史なんですよ」
「右翼の?」
「まさか、でも面白いから一度遊びに来てください」

私は当時時間がありあまるほどあったので、毎週のようにその人の授業を見に行った。その人はエンターテイナーだった。ある日の授業では、「昨日、三島由紀夫から電話があったんですよ」と切り出して録音された通話を再生して見せた。授業が終わると、お茶しに行こうと学生たちを誘い、高田馬場の喫茶店に行き、10人を超える学生の話を聴いてやり、最後には飲み代を払ってニコニコ笑っていた。学生たちには私のことを、
「私が死んだらこの人が(私のことを)書いてくれる人です」
と紹介してくれた。私はその人から森田必勝の本を借りたままで、フリーランスからまた社員編集者となり、自由な時間はなくなり、その人と会うこともなくなった。

その後もその人は変わらずに<開かれたVoice>で活動を続け、その人を主題にした映画まで制作された。その人の学生たちが学んだ<ジャナ宣>はなくなり、闘病の末、その人は今年一月にこの世から去ったが、その人の<開かれたVoice>と微笑みが消えることはない。

鈴木邦男さん、ありがとうございました。

もしも、私の文章で<人生はそんなに悪くない>と思っていただけたら、とても嬉しいです。私も<人生はそんなに悪くない>と思っています。ご縁がありましたら、バトンをお繋ぎいただけますと、とても助かります。