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第2走者 杉本流「鬼滅の刃の精神分析」

第2走者の杉本です。私は川谷先生のエチカの話を読んで、アランの「幸福論」よりも作家の湊かなえさんのほうを連想しました(ごめんなさい、幸福論読んだことないんです)。
湊さんの作品は「告白」「母性」「落日」など多数で映画化も多いので御存じの人もおられると思います。いろんな登場人物がいますが、作中で共通しているのは登場人物それぞれの視点(思考・思い込み)のすれ違いによる悲劇です。この悲劇を生み出す怪物こそが、スピノザの提唱する第一種認識(イマギナチオ=思い込み)だと私は思っています。
 さて、それでは私は、第二種認識(共通概念=理性)について書いてみましょう。主に私の得意分野、漫画アニメ系列で、ですが。

そもそも哲学(精神分析・精神病理)分野では、「昔から語り継がれる話/人気のある話」には何らかの意味があると言われていました。17世紀ではスピノザの上記<共通概念>(端的にいうと理性)、20世紀では精神分析の始祖であるフロイトの弟子、ユングの提唱した<集合的無意識>などです。他にも19世紀ロマン主義哲学もありますが、これはまた別の機会で。
ヨーロッパでは古くはギリシャ神話・イソップ童話・グリム童話。日本でも妖怪話や昔話などには、人類が生きる上での共通した「何か」を含んでいるとされています。その「何か」が哲学であり、心理学であり、精神分析における要素であると考えられています。
それでは、2020年に大ヒットとなった「鬼滅の刃」(以下キメツ)についてはどうなのか。なぜ売れたのか。キメツの世界における精神分析的理解として、考察の一つを御紹介いたします。個人の考察ですので間違いもあるかも、ネタバレになるかもですが、御容赦ください。

ネタバレ問題なければ次へどうぞ。








★自分らしい立ち位置についての考察
・鬼滅の刃(漫画;2016年~2020年)(アニメ;2019年~)

どんな生き方を得意にするかは人それぞれですが、キメツの登場人物たちは非常に個性的です。彼らが人気を博しているのはそのコントラスト(対比)が分かりやすいというのがあります。例えば、以下の二人です。この二人は、ネガティブとポジティブの利点と欠点を良く表していると思います。

1)我妻 善逸 <アガツマ ゼンイツ>
キメツキャラの中でも有数の「ヘタレキャラ」、善逸くん。隠隠滅滅と内的に思考し、怖がり、口だけで行動に出ようとしない、ネガティブの申し子のような子です。彼の行動原理は彼の「過去」にあり、周りと比較しての自信の無さが背景にありますが、彼にはそれを打破する手段が一つだけあります。医学的には「解離」と呼ばれるような現象で、「気を失う」と人格が豹変し変身します。その際、「記憶の欠如・混乱」もあるようです。子供の変身願望(仮面ライダーやポケモン、プリキュアのように、変身して成長する姿を子どもは好みます)をくすぐる姿のためか、人気は高いようです。変身した善逸君は、常に前に進む技ばかり使います。逃げない引かない、普段の本人とは違う姿が対比として描かれ、好印象にみえるのでしょう。

2)嘴平 伊之助 <ハシビラ イノスケ>
反対に、思考するより先に行動する「猪突猛進」、伊之助くん。端正なルックスと浅慮な思考の対比が印象的です。彼が逃げないせいで周りはとても迷惑します。過去の経験や失敗は顧みず、振り返りません。この世は自分が考えた通りになると思って行動します、彼の行動原理は「未来」です。ポジティブの極致ともいえます。社会性が皆無ですが。
ネガティブ傾向の子は常々「ポジティブになりたい」と言いますが、「伊之助になりたいの?」と聞くと拒否します。医院にくる子たちは社会性を大事にしたがる子が多いので、極端なポジティブは嫌がっているのでしょうね。
また、伊之助は周りがどういう気持ちなのかを考えることが苦手であるという、発達の偏りに近い状態も見せます。生来のものもあるのかもしれませんが、その(医学的)背景には、「愛着」「基本的安心感」の習得が「捨て子」により守られなかったことが挙げられます。
弱肉強食の獣の世界にいたせいで、ヒト特有の「周りに配慮する思考」の経験が得られなかったようです。成長するにつれて周りの痛みや思いを感じるようになる姿が見られることからも、生来のものだけとは言えないのかもしれません。この部分は、オオカミに育てられたヒトの子供という実話「狼少女」がモチーフになっていそうです(伊之助は猪が育ての母親です)。

3)竈門 炭次郎 <カマド タンジロウ>
この二人を足して割ったような思考の子が主人公、炭次郎です。ポジティブとネガティブのバランスが非常に取れている印象です。そういう意味ではこの三人、「弁証法」のテーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼの三位一体を思わせる3人ですが、どうでしょうか。
★テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼとは?(弁証法)
①ヘーゲルという哲学者が19世紀頃に生み出した思考形態。
②ある命題(テーゼ・正)と、それと矛盾・反対する命題(アンチテーゼ・反)が闘い、争い、葛藤し、議論することで真の統合命題(ジンテーゼ・合)が生まれるという考え。
③全ての事象は己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。二つは互いに対立しあうが、同時にその対立によって強く結びついてしまっている。
④一方のみの強い環境・思考場面では、答えは必ず偏り結果的に矛盾を強くしてしまう。
ヘーゲルは元々歴史学者でした。彼は17世紀の「合理主義(デカルトやスピノザ)」と「経験主義(ロックやヒューム)」の真っ二つのバチバチの論争を見たカント(18世紀)が、この二つを統合(いいとこどり)した歴史を見ました。そこで、「人が新しく何かを生み出す(先に進む)には二つの対立した軸での議論が必要」という結論に至ったと言われています。・・・随分簡素にしたつもりなんですけど、哲学の言葉ってやっぱりわかりにくいですね。
でもこの弁証法的思考の放棄が、現代人のストレス耐性の低下につながっているとの指摘もあるのです。ヒトは便利な世の中を作ろうと考え「悩みをなくす、悩む時間を減らす」努力をしてきました。SNSでは「イイネ」と自分の意見に賛同するものばかり優先抽出し、グループ化することで葛藤や対立を減らしますし、インターネットやYOUTUBEなどで検索すると自分の好みのもの・賛同するものばかりが目に付くようになっています。ストレスの少ない世界を作ろうとするAI側の努力なのですが、これがヘーゲルの弁証法とは真反対の「葛藤の無いイエスマンの世界」を作り出してしまいました。その結果が苦痛に耐える能力の低下に繋がるとしたら…とても悲しく皮肉な結果だなと感じてしまいます。

さて、みなさんは「自分らしい」という言葉を聞いてどういう自分を思い浮かべますか?答えは色々あるでしょうけど、上述のヘーゲルの理論を当てはめれば「自己中心な自分」と「他人中心な自分」の間に自分らしい自分が存在します。伊之助のように自己中心的すぎるのでもなく、善逸のように他人の目を気にしすぎるでもない、ある意味「中途半端な」立ち位置があなたの自分らしさです。もちろん、その位置は相手によっても変わります。あくまで立ち位置ですから、家族など距離の近い人との間の顔と、外の世界との顔では位置も変わってきますよね。そういったことを考えながら、この漫画/アニメを見ていました。
・・・精神科医って、純粋にアニメを楽しめない人種なのかもしれませんね。オマエだけだよっていう突っ込みはナシでお願いします。

最後に、余談になりますが。「鬼」という言葉の意味について考察です。昔NHKで放送された「昔話法廷:桃太郎」を題材に混ぜて書いたものですが、ネタバレ含みます。ご注意ください。

★鬼の意味
・NHK(Eテレ) 昔話法廷 (2015年~2021年) 第11話「桃太郎」より

キメツの世界は「鬼」が出てきて、それと戦う人々の姿が描かれています。日本の昔話にもよく出てくる「鬼」ですが、昔話の鬼は事情など弁明する間も無く「退治」されます。NHKで2020年に放送された「昔話法廷」では、桃太郎は「理由なく鬼ヶ島に押し入って宝物を奪い、鬼を殺傷した強盗殺人」で訴えられていました。これは笑い話にはなってますが、日本では古来より「鬼」を「退治」するという風習があります。キメツの世界では鬼側の事情も色々あって単なる悪役では終わらない部分もありますので、単なる勧善懲悪とは言えない部分も魅力ではあります。
さて、精神医学的にはこの鬼、もしくは鬼の所業による不幸を「ストレス」「葛藤」と置き換えることもできます。日本人は「退治」が得意なので、ストレスは戦って乗り越えるものとする人が多いのでしょうね。文化的背景もあって、「耐え忍ぶ」ことを得意とする人が多いのかもしれません。「日本人にはうつ病が多い」という定説は、こういった耐え忍ぶことが得意な文化も関連あるのではないかと考えています。

以上、キメツの世界における精神分析的要素でした。機会と時間があれば鬼側の思考や「柱」と呼ばれる人々についても考察できる、かも?それでは、第3走者の岩永先生、どうぞ。


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