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第18走者 岩永洋一:期待について

 皆さんこんにちは。引き続き三番打者の岩永です(というか、もはや順番はなくなってきておりますが)。前回もそうですが、「三番打者」とか野球ネタをエッセイに入れ込んでいますが、私は全く野球できません。キャッチボールでも、グローブをつけてない右手が反射的にボールを取りに行こうとしてしまいます(笑)。
そんなことはともあれ、今年のソフトバンクホークスは強いですね。常勝軍団と言われながらも、ここ数年は優勝から遠ざかっていました。前藤本監督やメンバーへの期待はさぞ重たいもので、のびのびとプレーできなかったのではないかと思います。「常勝軍団」という「勝つのが当然」という前提に縛られていたのでしょう。今年新小久保監督になり、心から「我々は挑戦者」と思えるようになって、すごくのびのびとプレーできているように見えます。今年こそはV奪還できるのではないか、と日々ワクワクしております(7月になって暗雲が立ち込め始めていますが・・・)。
 
 さて、今回は上でも少し触れた「期待」について思うことを少し書いてみたいと思います。期待を辞書で引いてみると「何らかのことが実現するだろう、と望みつつ待つこと。また当てにして待つこと。期待する気持ちのことは『期待感』、期待通りにならないことを『期待外れ』という」という説明が出てきます。
 我々は好きな球団が勝つことを「期待」します。だからこそTVで応援もするしグッズも買うし、球場にも足を運びます。別にこれは野球に限ったことではありません。サッカーやバスケットボール、バレーボール、ラグビーなど他のスポーツにも当てはまりますし、好きなアーティストがレコード大賞をとれるように「期待」することも同じでしょう。好きな作家の新刊は、自分を楽しませてくれるだろうと「期待」します。病院に来る患者さんは自分達が病の苦しみから解放されることを「期待」しますし、医療者は患者さんが少しでも楽に生きられるように「期待」するでしょう。
 世の中はこのように相手に「期待」して、うまくいけば「期待通り」と喜んで相手に感謝し、うまくいかなければ「期待外れ」とがっかりし、時と場合によっては腹を立てる、そういう対人関係の上に成り立っていると言っても過言ではないでしょう。個人的には、「期待通り」になって相手に感謝し、「期待外れ」でがっかりするくらいならいいと思いますし、その体験は、他者性―相手が自分と同じ人間ではない、つまり自分の期待をその通り分かってくれて満たす人間ではない―を獲得するために必要な経験だと思います。
ただし、「自分の期待は満たされて当然だ」と思ってかかるような場合は、「期待外れ」の時の裏切られた感は大変大きく、その怒りは対人関係の問題にも発展することが想定され、あまりよくないと思われます。この場合の「期待」は既に「期待」ではなく「当然」「当たり前」、期待される相手にとっては強い「プレッシャー」となってしまうでしょう。スポーツ選手だと、そんな中でプレーしても、プレッシャーで自縄自縛して実力を発揮することはできないでしょう。ソフトバンクホークスが数年優勝から遠ざかったのはそうでしょうし、昨年の阪神タイガースが、「優勝」という言葉のプレッシャーから逃れるために「アレ」という呼び方をしたのは大変効果的だったと思います。さて、いい加減野球の話から離れましょう。おそらく野球が好きじゃないという読者の方の「期待外れ」になってしまいますので・・・。
 
 ここでちょっと前回少しお話しした「エディプス王」の話に戻りたいと思います。前回は簡単なあらすじを述べただけでしたが、今回はもう少し詳しく、特にその「神託」とエディプス王の関係性について見てみたいと思います。
 テバイの王ライオスは神託で息子に殺されると聞き、息子(エディプス)が生まれ、妻であるイオカステと相談してすぐに山に捨てました。10数年後、ライオスは盗賊に殺されてしまいます。テバイの町を襲うスフィンクスをエディプスが撃退。エディプスは、先王ライオス亡き後、その妃イオカステを娶り王となりました。10数年の間に、二人の間には4人の子供が生まれました。しかし疫病が広まり、テバイは再度危機に瀕することとなりました。神託によれば、先王ライオス殺しの犯人が疫病の原因であるとのことで、エディプス王は犯人探しに着手しました。
 少し話は戻りますが、親から捨てられたエディプスはコリントスの町の人に助けられ、そこで王夫婦の子として生きてきました。彼が受けた神託は、自分が父親を殺し、母親と交わるというもの。エディプスは神託の実現を恐れ、コリントスを後にし、その旅先で男と言い争いの後に殺害しています。
ライオス殺しの犯人の情報収集でいろいろな人物やイオカステと話し、旅の途中で殺した男こそがライオスだったのではないかとエディプスは思い始め、さらに情報を集めるにあたって確信し始めます。
そんな中、エディプスが生まれつき持っていた踵の傷の話を聞きイオカステが顔面蒼白になります。実はその傷はイオカステが自分の息子の踵につけた傷と同じだったからです。イオカステはこれ以上の犯人探しを辞めることをエディプスに進言しました。それでも辞めようとしないエディプスを見て、館で首をつって自害。それを見たエディプスはすべてを悟り、自らの目を潰しテバイの街を去りました。これがギリシア悲劇「エディプス王」です。
私は最近、この「神託」と登場人物の動きとの関連性に興味があります。なぜなら、上にも述べた「期待」とそれを向けられた人々の動きと重なるからです。ただし、ライオス・エディプス両者に与えられた神託は、2人の幸せを願う「期待」ではなく、2人の不幸を願う「呪い」のようなものと言えますが・・・。
また、ライオスはエディプスを捨てたり、エディプスもコリントスから離れるなど、神託が成就しないように動いています。それでも運命はとても強大な力で彼らの人生を捻じ曲げてしまいます。これは、神という人間以上の力が加わるから人生が捻じ曲がるんだ、人間の「期待」や「呪い」には人間の人生を捻じ曲げる力はない、ということもできるかもしれません。ですが、私は人間の「期待」や「呪い」は十分に人間の人生を捻じ曲げる力を持っていると考えています。最初に述べたソフトバンクホークスに向けられた「常勝軍団」という「期待(もしくは呪い)」は、選手のポテンシャルを発揮することを阻害したと思います。「期待」に押しつぶされて力が発揮できず表舞台を去った選手もいれば、「期待」を自らの栄養に変えてどんどん力を伸ばしていく選手もいます。もちろん彼らの去就は我々の期待だけに左右されるわけではないのは当たり前ですが・・・。我々が受けたり、我々がしてしまうかもしれない「期待(や呪い)」について少し考えてみたいと思います。
 
とは言いましたが、その前に「エディプス物語」を含め神話に登場する「神」について少し考えてみたいと思います。神は「神託」を下し人生を捻じ曲げ、天地を作り人を導いたり時には滅ぼしたり、その強大な力で世界を大きく変えてしまいます。人間にとって未知で畏怖を覚える自然現象を神と呼んだことは有名でしょう。例えば雷を神の怒りとして描く、雷鳴を天界の神々の戦いと考える、毎日上る太陽を主神として崇める、などです。
もう一つ考えられるのは、子供の目から見た大人のことを神と描いた可能性です。つまり、子供からしたら大人は巨人だし、その力には逆立ちしてもかなわないし、知恵は到底理解できない深みを持っています。そのように考えると「神託」は、親を含めた大人が子供に与える「期待」や「呪い」と考えられるわけです。なお、「神」の概念については他にも考えられ、それだけで一つエッセイが書けてしまうので、今日はここでやめておきます。
私は、親、大人、集団が子供に多くの「期待」や「呪い」を与えて来たと思います。例えばそれは、簡単なもので言えば、「家業を継いでほしい」や「長男だから親の面倒を見てほしい(見るのが当然だ)」だったり、「将来○○になりなさい」だったりするかもしれません。もっとわかりにくいものだと「あなたはできる子だから」という言葉も、大人から見た事実かもしれませんが、子供を縛る言葉になるかもしれません。脳が未発達ゆえに子供は小さい時のことを覚えていませんが、そこに「あなたは食いしん坊だったのよ」と言われても、子供としては「自分には記憶がないが自分はそういう存在なのか」と自分を縛ってしまうこともあるでしょう。名前も「期待」「呪い」になりえると思います。例えば歴史上の偉人のようになってほしいという期待で同じ名前を付けられると子供はプレッシャーになるでしょうし、戦国武将のように家系で同じ漢字を必ず使う、というのも反抗期の時にはすごく嫌になる子もいるでしょう。
以上は子供側からの主張になりますが、大人には大人側の主張があります。親は自分達が子供だった頃、もしくはおじいちゃんおばあちゃんが子供だった頃、家業を継ぐこと、長男が親の面倒を見ることは当たり前でした。おそらくそれを「縛られてる」と感じる人もいたと思いますが、当たり前のことだったので縛られている感覚の方をおかしいと捉えて多くの人は何も言わなかったのだと思います。それに「将来○○になれ」と自分達の将来を決められるのもよく見られる光景でした。家族で同じ漢字を必ず使う、というのも当然のことでした。当然のことと言うのは疑いません。お日様が毎日昇るという当たり前のことは、「明日は昇るだろうか?」とは誰も疑いませんよね。だから大人は子供に当たり前に「実家を継いでほしい」「面倒を見てほしい」「○○になってほしい」「同じ漢字を使ってほしい」と言ってしまうのです。親が子供だった頃、おじいちゃんおばあちゃんが子供だった頃は、私が以前の皿うどんのエッセイで書いた画一性の時代で、皆そうするのが当たり前の時代です。ただし今は多様性の時代で、職業選択、人生選択には自由が謳われます。かつてのやり方で関わるとその「期待」もしくは「当たり前」は「呪い」になるのでしょう。 
一方、上に述べてきたような話に、親が子供に愛情を持って接している姿があることも事実です。「あなたはできる子供だから」「あなたは食いしん坊だったのよ」という時、子供が将来この名前で良かったと思えるように名前を一生懸命考える姿、画数にこだわって何回も何回も名前を考え直す親の姿には、まぎれもなく愛情がこもっています。親は世代間連鎖で当たり前に子供に期待もするし、愛情故にこうあってほしいと期待して祈るのです。ここでの大きすぎる期待や愛情は「呪い」になるのかもしれませんが・・・。
最後にもう一つ言いたいのは、これまでの話とは逆のことになりますが、「期待」されないことも悲しいということです。想像してみてください。観客の誰からも応援が飛ばずに沈黙の中打席に入るバッターを。愛情や思いが全く感じられない適当に名付けられた子供を。子供の話に目を輝かせてくれない親に育てられるという状況を。この子達は「期待」されず、逆の意味で力が発揮できず伸びることはできないでしょう。
だから私は、親や社会には子供に期待してほしいと思いますし、それが呪いになるのではないかと恐れることなく子供を愛してほしいと思います。ただ、その期待が自分がされてきたことを自動的に子供に押し付けているだけではないか、「面倒を見てほしい」など自分の為に子供に期待しているのではないか、期待が大きすぎて子供を縛っていないか、それを注意してもらえたらいいな、と思います。
 
そろそろ次の走者にバトンを渡したいと思います。今日のお話は皆さんの「期待」に添えたでしょうか? それとも「期待外れ」だったでしょうか? 「川谷先生や杉本先生からのバトンにぜんぜん答えてないじゃないか、期待外れだ」という声が聞こえてきそうです。実はこのエッセイは前回の「1/3の純情な感情」を書いた後にそのままの勢いで書いたもので、杉本先生のエッセイを見て何とか繋げることができないか考えたのですが無理でした。御理解いただけると嬉しいです。
さて、今日お話したことは「期待」が「呪い」になることがあり、でも「期待」という愛情がなくても子供は育たない、というお話でした。今度は、「期待」と愛情のバランスのいい親子関係について書いてみたいと思います。ちなみにこのエッセイまでは前回の後の勢いで書き上げてしまっています。
では、次走者、よろしくお願いいたします。

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