「空気」と規範 2


規範とは何か

 私が今、スマホを手にしてアマゾンを利用して本を買ったとします。このとき、私とアマゾンとの間では、売買関係という共通の意志が成立したことになります。意志はそれぞれの当事者の頭の中に観念として存在するかたちをとり、頭からぬけだして外部に存在することはできません。三浦つとむは、「精神とは物質のはたらきです。しかしそれは一定の構成をもつ物質においてあらわれるはたらきです。具体的にいえば脳髄のはたらきです」(『哲学入門』)と述べ、エンゲルスにならって、精神とは物質とは独立して存在するところの、人間頭脳のはたらきであると規定します。したがって意志という精神のひとつのありかたも、人間頭脳をはなれて存在するものではありません。この立場から、売買関係という共通の意志の成立過程を説明すると、次のようになります。

《…このときの当事者は、共通の意志を個人的に勝手に変えてはならぬものとして固定化し、さらに観念的に当事者の外部にあって当事者を拘束する意志のかたちに客観化し、その意志に従うことになるのです。これを意志の観念的な対象化とよびます。わたしたちの日常生活で、「明日三時にいつものところで会いましょう」「ええ、いいですわ」と約束するのも、やはり意志の観念的な対象化です》

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p181~182(太字は原文)

 この対象化された意志は、個人的なものであろうと複数人のあいだのものであろうと、一人ひとりの独自の意志とは相対的に独立して存在するということに注意が必要です。「毎日2時間勉強する」とか「毎朝5kmジョギングする」など、個人的な目標のようなものであれば、固定化されていてもいつでも破棄することが可能ですが、多くの「対象化された意志」は他人とのあいだで成立し、社会的なかたちをとって存在します。

《社会生活にあっては、いろいろな集団において、またいろいろな行動の場において、秩序を維持していかなければなりません。家族・学校・工場・諸団体・交通機関・集会その他、それぞれ秩序を必要とします。秩序には、万人の利益につながるものもあれば、一部の特殊な人たちに利益でも他の大多数の人たちには害悪でしかないようなものもありますが、秩序を維持する活動のしかたは共通しています。一つの集団なり場所なりに参加する人たちは「こうする」「こうしてはならない」という、その行動についての意志の観念的な対象化が行われ、これが道徳とか規則とか規約とかよばれて、この客観的な意志に参加する個人の意志を従属させるかたちをとるのです。この客観的な意志を規範(Norm)とよびます。これに違反した場合には、力によって制裁を加えられたり、集団から追放されたりします》

『弁証法はどういう科学か』p193~194

 規範は、「心の中から自分自身になされる命令」(三浦つとむ『言語過程説の展開』p149)でもあります。他者のものであろうと自分のものであろうと、対象化された意志としての命令が自分の頭の中で複製され、維持されていく形態をとります。


「意志の複製」と「意志の観念的な対象化」(三浦つとむ『言語過程説の展開』p153)


《酒とタバコを楽しんでいる者が、医師から「おやめなさい。あなたのからだではやめないと長生きできませんよ。」といわれたとしよう。ここには医師としての意志が示されている。これに服従するか否かは、患者の自由意志である。医師が強力を用いて患者に服従を強制しているわけではない。この命令は、患者にとって一つの矛盾を意識させることにもなる。酒やタバコを楽しむならば短命に終るが、やめれば長生きできるという認識において、楽しみと長生きとどちらを選択するか決定しなければならないが、楽しみたいという欲望も強烈であってそう簡単に無視するわけにもいかない。「やめよう」という命令への服従と、「楽しもう」という命令への拒否と、どちらの意志を行動にうつすか、迷うことにもなる。自由意志で医師の命令を受け入れることになれば、(A)のようにこの医師の命令の複製が患者の頭の中で彼の意志として維持され、これに従うのである。医師の命令は患者にとって外界であったが、命令の複製もまた(A)のように患者にとって観念的な「外界」として、すなわち観念的に対象化されたかたちをとって、維持されていく。

 医師から命令されるのではなく、患者が自分で酒やタバコを有害だと判断し、ここから「やめよう」という意志をつくり出す(B)の場合もある。この場合にも一方で「楽しもう」という意志が生れて、闘争の結果これを押しつぶすことも起りうる。そしてこのときには、自分でつくり出した「やめよう」という意志を自分から観念的に対象化して、「外界」から「おやめなさい」と命令されているかたちに持っていく。この観念的に対象化された意志を維持して、これに対立する「楽しもう」という意志が生れてくるのを押えつけていく。結果としては医師の命令と同じである。いづれにしても、このように自己の意志が観念的に対象化されたかたちをとり、「外界」の客観的な意志として維持される場合には、ここに規範が成立したのであって、単なる意志と区別する必要がある》

『言語過程説の展開』p152~153(太字は原文。傍線は引用者)


 このように、規範は、その成立過程はどうあれ、一度成立すると、個人の独自の意志とは独立して、頭の中の「外界」から「~しなさい」「~するべきでない」と命令されるかたちをとります。規範には以下のような種類に分けられます。



規範の種類

①    個別規範…個人が自己を規定するために自由意志によってつくり出した規範。
「禁酒禁煙」、「毎日ジョギングする」など。

《これは違反しても、他の人間から、「なぜ違反したか」と責められ、処罰されることはない。自由意志で規範を破棄しても、さしつかえないわけである。けれども規範を維持することは長生きのためであり、これに違反したりこれを破棄したりすることは自己にとって不利益だとすれば、無意識のうちに違反しないように、つねに規範が維持され役立つような方法も工夫しなければならない。それで紙に大きく「禁酒禁煙」と書いて、目につくところに掲げておいたりするのである》

『言語過程説の展開』p153


②特殊規範…約束や契約など。二人以上の人のあいだで共通に規定するところの規範。たとえば「五時に有楽町で会いましょう」。

《…この場合は、二人にとって共同の利益であるということに基礎づけられて、共通の意志がつくり出されたのであり、「会いましょう」は観念的に対象化されてそれぞれの頭の中に「お会いなさい」という客観的な意志のかたちをとったのである》

『言語過程説の展開』p155


③普遍規範…掟や法律など。


《…原子共同体にあっても、全体の生活条件を向上させるとともに、自然の脅威や外部からの侵略や内部の破壊分子の活動に対処して秩序を維持するという、共同利害に基礎をおくところの掟がつくり出されていた。個人もしくは集団が、その特殊利害を追求して共同利害を犯した場合には、この掟とよばれる幾百年の慣例から生れた暗黙の規範にもとづき、民主的に選ばれた代表たちが公開の席上の討論で処置を行っていたのである》(同p165~166)
《…法律は特殊な人びとの間にではなく、社会全体に適用されるものとして成立するのであるから、ヘーゲルはこれを普遍意志とよんでいる。われわれも、一般的意志とか全体意志とか普遍規範とかよぶことができよう》(同p164。太字は原文では傍点)


④自然成長的な規範…われわれは実践や習慣をくりかえすことによって自然成長的な規範をつくり出している。子育てにおける「しつけ」など。

《実践のくりかえしによる意志の固定化は、子どもに限らず大人の生活にもいろいろなかたちで生れてくる。道をあるくような場合にも、多くの人びとが衝突することなしに前進していくためには、こちらから行く人びととあちらから来る人びととが、それぞれ道の別の側をあるいて、人の流れがよどむことなしにすれちがうようにしなければならない。その時々によって、道をあるく目的も具体的な道のありかたも異っており、意志の表象化も異っているとはいえ、一方の側をあるくことが自分にとってもまた他人にとっても利益であるという共同利害に基礎をおいた認識は、実践のくりかえしの中に意志の共通面となって意識することなしにいわば「蒸留」され、固定化していく。どの道を歩く場合にも、無意識のうちに一方の側をあるくようになる。これを合理的なものとして意識的にとらえかえすところに、「左側通行」という交通道徳が説かれるわけである。組織の決定で定められた時刻に集合する場合にも、その時々によって集合の目的や集合の場所が異っており、意志の表象化も異っているとはいえ、ここでも組織としての共同利害に基礎をおいた正しい組織生活の規律が要求されている。自分が時刻におくれるなら、集っている他の同志たちに迷惑をかけるばかりか、組織全体の活動にもマイナスになるという認識から、「時刻厳守」をみんなが実行しなければならないし、みんなが自発的に実行すればそれが組織生活の規律として確立するのである。けれどもこの認識が欠けていて、共同利害のことなど頭にない人間は、平気でおくれたり来なかったりする。そういう習慣から、どうせきめられた時刻に行っても誰も来ていないだろう、三〇分すぎぐらいに行くのが適当だ、という規範をみんなが持つようになれば、それが組織生活の規律として確立するのである。誰がきめるともなしに、家庭・学校・職場・組織など、さまざまな社会生活の分野で自然成長的に規範が成立し、これらが目的的につくり出される規範とからみ合うことになる》

『言語過程説の展開』p170~171


⑤明文化されない、自然成長的な規範としての「風」というものが存在する。全体としての共同利害と各個人の特殊利害との関係を処理するために自然成長的につくられる。

 《これらの自然成長的に成立する規範は、まだ明文化されずにたがいの暗黙の諒解の段階にとどまっているものが多い。これには生活にプラスに作用するものもマイナスに作用するものもあるが、それらの規範を一括して「風(ふう)」ともよんでいる。家風・校風・社風・組合風・党風などがいろいろ論じられている。家庭にあっては、起床・食事・掃除・洗濯・就寝など、毎日同じようにくりかえされる生活のありかたや、さらには経済や娯楽などのありかたについて、全体としての共同利害と各個人の特殊利害との関係を処理するために、暗黙ないし公然の諒解をつくり出し、協力の体制へ持っていかなければ、トラブルが起って生活が不安定になってしまう。「食事の前には手を洗いましょう」というのは衛生・健康という共同利害に基礎づけられた生活規律であり、テレビのチャンネルをめぐって特殊利害が対立し争奪が起るのを防止するために、どの番組は誰と誰とが見るという約束をつくりあげるのも、家庭の秩序を乱さないための規範である。意志は思想・理論をふくんでいるから、家庭の自然成長的な規範にもさまざまなイデオロギーがむすびついてくることになる。民主的な家庭での家風が身についた娘さんが封建的な家風の維持されている家庭へ嫁として入って来て苦しむという例もすくなくない》(同上p171~172。太字は引用者)

『言語過程説の展開』p171~172(太字は引用者)


 「意志は思想・理論をふくんでいる」というところはきわめて重要で、自然成長的な規範は、こうして次第に善悪の判断をふくんでくることになります。そこで成立するのが「道徳」です。


⑥道徳…集団の共同利害に基礎づけられて自然成長的に生れた、その集団にとっての普遍規範であり、善悪の判断を含むものである。

《道徳は集団の共同利害に基礎づけられて自然成長的に生れた、その集団にとっての普遍規範である。兄弟がそれぞれ異なった野球チームのメンバーで、明日は両チームが試合するというときに、すでにベテランである兄がまだ新人の弟を出世させてやりたいという気もちから、自分のチームの作戦を弟にもらしたような場合には、個人の利益のためにチーム全体の利益を傷つけたことになり、チームのメンバーとして守るべき道徳に反したものとして、非難をあびることになろう。味方をだまし味方を傷つけることは、道徳に反すると非難されるが、敵をだまし敵を傷つけることは非難されないばかりか賞賛されるのであって、一つの集団の道徳は必ずしも他の集団の人びとにあてはまるとは限らない。この規範は、個人が自主的に従うように要求されているのであって、規範それ自体の中に社会的な処罰の規定をふくんでいないから、これに反しても非難されるにとどまっている。法律のような強力を用いての干渉は存在しない。法律は「……すべし」「すべきでない」と文章で表現されているのに対して、道徳は「こうするのは善だからすべきだ」「こうするのは悪だからすべきでない」という意志が頭の中で対象化されているだけである。いわゆる不文律である。「風」とよばれる自然成長的な暗黙の規範は、善悪の判断がむすびつくことによって、道徳としての性格を与えられるわけであり、善悪の判断がむすびついた規範から独自の意志が規定されてくることを「良心のささやき」などとも名づけている》(同上p172~173。太字は引用者)

『言語過程説の展開』p172~173(太字は引用者)


———こうして見てくると、「空気」が道徳の一種であることは間違いないように思われます。そして道徳は特定の集団における普遍的な規範ですので、「空気」とは、多くの場合ある種の閉鎖されたコミュニティにおいて醸成されるものといえるかもしれません。さらにその道徳には、善悪の判断が含まれていることになります。


規範の本質

《…規範は、究極的にはわれわれの生活の利害によって規定されているのであり、規範の根拠を現実の世界から切りはなして頭の中に求めてはならない。カント主義者の主張するような、先験的にそなわっているものでも何でもないのである。長生きよりも酒やタバコを楽しみ、太く短く生きるほうが利益だと思っている人びとは、「禁酒禁煙」の規範などつくりはしないし、この規範に従っている人びとを冷笑することにもなろう。つぎに規範は、一つのフィクションである。意志はどうかたちを変えようと依然として頭の中に存在するのであって、これが頭の外へ出ていくということはない。「やめよう」という意志を観念的に対象化して「おやめなさい」のかたちに自己を対象とする意志に変えても、頭の中に存在することに変りはないが、それにもかかわらずこれは「外界」に客観的に存在する意志として扱われるのであるから、その点でフィクションだということができる。規範がわれわれの生活にとって欠くべからざる存在であり、多くの有用性を持つことは、一種の「嘘の効用」と見なすことができよう。さらに、規範はよかれ悪しかれ生活に一つの秩序をつくり出し、維持していくことになる。人間の行動は直接には意志を原動力として生れるのであるから、個人の意志の形成に干渉することによって行動に干渉することが可能なわけである》(同上p154。太字は引用者)

『言語過程説の展開』p154(太字は引用者)


 規範は現実の世界の中で、具体的には家庭や学校や会社などで、あるいはテレビや新聞などのマスコミによる宣伝や、政治家による法律などのかたちで現実的に変更が可能なのであり、それらによってある種の意志の形成が促進されたり、ある種の意志の形成が抑圧されたりすることも可能である、ということなります。このことは、「集団における意志の統一」(同上)に規範がきわめて重要な役割を果たしているということでもあります。そして当然、それは同時に、時の支配層がここに目をつけて何事かを企むことも可能であり、すなわち人びとにある種の規範を植えつけてある種の行動をさせることも可能である、ということにもなります。だからこそ規範の分析は重要なのです。

 「空気」という言葉は、上記のフィクション性をうまく表しているとは思いますが、ただ、それだからといってそれを現実の世界から切り離してしまわないように気をつけなければなりません。規範は、基本的には現実の世界を反映した認識が(人間頭脳において)観念的に対象化されて成立するものであり、フィクションではあるけれども「妖怪」や「超能力」といった謎の存在ではありません。ですので、「空気」の分析の際には、SNSを含むあらゆるメディア、官僚・政治家の発言、上からの命令をよく吟味するべきである、ということにもなるわけです。

 コロナ騒動期の「感染対策」というのは、完全に「善悪の判断がむすびついていた」ので、「風」を超えた一種の道徳であったといえるでしょう。「マスクをする」「ソーシャルディスタンス(他人との距離)を守る」「不要不急の外出を控える」「ワクチンを打つ」などが善行として推奨されていたことは覚えている方も多いことでしょう(2021年当時、ある小学生用の新聞では、あるタレントが「ワクチンを打つことは命を助ける行為であり、ワクチンを打ってヒーロー気分を味わおう」と接種を推進していました)(【毎日小学生新聞〔2021年6月20日〕】)。コロナ騒動時の「感染対策」は、「衛生・健康という共同利害」のためであるとされていましたが、現在では、実際はそんなもろもろの「共同利害」が幻想であったということが明らかになりつつあります(マスクしかり、ソーシャルディスタンスしかり、「不要不急の外出」しかり、ワクチンしかり)。




(続く)

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