「空気」と規範 1

          ———「認知戦(Cognitive Warfare)」に惑わされないために———


はじめに

 私が若いころ、よく相手側の依頼をやんわり断るフレーズとして「検討させていただきます」のような表現が存在していたと記憶していますが、おそらく令和の現在はそのような誤解を招きやすそうな習慣はないでしょう。これは言葉を字義通りにとらえないという一種のとんちのような文化ですが、おそらく「空気」というものもそれと似たような何かであり、そしてそれは人間の意志のひとつの形態である「規範」が深く関わっているのであろうと昔から予測はしていました。ではなぜ今ここで、これについて論じようという気になったかといえば、それはごく最近、2020年以降コロナパンデミックを経験し、人びとが急激にお互いにだましだまされるという構造が発生し、私の家族も含めいろいろとつらい思いもしたし、深い深い体験もしたからにほかなりません。今後、このような体験をせずにすむ社会になってほしいという切なる思いをこめて、これからこの問題について私なりに本気で論じてみようと思います(少し前に「日本の近代 2」として書こうと思っていた内容を少しだけ変えて、ここに書くことにしました)。

山本七平=浜崎氏のいう「空気」とは何か?

 文芸批評家の浜崎洋介氏は、著書『ぼんやりとした不安の近代日本―大東亜戦争の本当の理由―』(ビジネス社、2022年)の中で山本七平による有名な「空気」論について語るに際し、次のような山本氏自身の言葉を引用しています。

《戦後の日本人の意識は、“出版物”という点から見れば、大きく二期に分けられよう。一つは終戦時から六〇年安保までの意識で、それは弘文堂のアテネ文庫の広告文の如く「暮らしは低く、思いは高く」の時代であった。俗にいう“わだつみ時代”である。これが六〇年安保を境に(一、二年のずれはあるが)一転し、「暮らしは高く、思いは低く」となった。ハウツーもの、利殖ものから経営学書ブームに至るまでの時期、その頂点に立つのがさまざまの「田中角栄伝」と「列島改造論」である。いわば「暮らしは高く」が絶対的価値となり、御殿に住んで錦鯉がいれば、そこの住人の「思いは低く」とも、それは一切問題にせず、その人が英雄でありうる時代であった。
 「弁証法」というものが信頼できるなら、この意識の「正」と「反」の次は「合」であり、「暮らしも思いもある程度高く(低く?)」という状態になるであろう。面白いことに明治期にもこの転換があり、大正期に一種の「合」の時代に入るのである。そしてこの「合」が、新しい非合理性の打撃を受けたとき、国内の一切の勢力は、本当は「何をしてよいのかわからない」という状態になり、その非合理性は、制御なきままに、どこかへ走り出す

(山本七平『「空気」の研究』【文春文庫、1983年】太字は引用者)

 「正」「反」「合」というヘーゲル弁証法が教養人の常識であった時代を感じさせる内容ですが、浜崎氏は、山本七平のこうした言説を受けて、ここで山本氏のいう「思い」を「近代化への夢」、「暮らし」を「日本の現実」と言いかえて、次のように述べます。

《山本(七平)が言いたいのは、「近代化への夢」(正)と、「日本の現実」(反)との間に相互否定的な緊張関係が消えてしまい、ついに〈日本の近代化〉が達成されたと思ったところに(合)、一つの危機が訪れたとき、日本人は、「何をしてよいのか一切わからない」という分裂病的な病状を呈しはじめてしまうのだということです。これは、「暮らしも思いもある程度高く(低く?)なった一九八〇年代以降に「バブル崩壊」と「冷戦の崩壊」という二つの危機に直面した日本人が、「自己喪失」に陥ってしまった戦後史の経緯とも相即的でしょう」》

(浜崎洋介『ぼんやりした不安の近代日本』)

 ここで浜崎氏が語っているのは、実に長いスパンで見たときの「空気」となっています。60年から80年周期の長期サイクルで見たところの、歴史的な危機に際しての「空気」といったほうがいいかもしれません。「合」の時期に訪れた危機(=新しい非合理性の打撃)とは、浜崎氏によると、戦前の場合だと「関東大震災」(1923)、「昭和恐慌」(1928~1930)、戦後の場合だと「バブル崩壊」(1991)、「冷戦の崩壊」(1991)であり、前者の危機は「昭和維新の『空気』」を醸成し、後者の危機は「構造改革の『空気』」を醸成した、とのことです。

 「構造改革の『空気』」というのが少し歴史的な「空気」にしてはインパクトが弱い感じがしますが、実際、こうして歴史を80年周期で分析する人もいるようなので、こうした長期スパンの歴史分析ついては、またあとで少し触れてみようと思います。とりあえずここでは、一般的にとりあげられる山本七平のいう「空気」を議論の俎上にあげてみようと思います。

「空気」=「差別の道徳」とは何か?

 浜崎氏は、山本七平のいう「空気」について、次のように述べています。

《山本七平が語る「空気」とは、要するに、一神教的な「神」への回路――それはまた「神」の理性を介して、社会を超えた「合理」への道をも用意します――を持たない近代日本人が、危機に直面した際に頼ってしまう「差別の道徳」のことを指しています》

(浜崎洋介『ぼんやりした不安の近代日本』太字は引用者)

 一神教的な「神」を持たないのは日本人だけではないと思いますが、それはとりあえずさておいて、ここで浜崎氏は、「空気」とは日本人が危機に際して頼ってしまうところのある種の「差別の道徳」だと述べています。

 では、ここで少し、山本七平自身による「空気」=「差別の道徳」の事例解説を見てみることにしましょう。次の会話は、かつて山本氏とある雑誌記者との間で交わされたものです。

《私(山本氏)は(「空気」=「差別の道徳」について)簡単な実例をあげた。それは、三菱重工爆破事件のときの、ある外紙特派員の記事である。それによると、道路に重傷者が倒れていても、人びとは黙って傍観している。ただ所々に、人がかたまってかいがいしく介抱していた例もあったが、調べてみると、これが全部その人の属する会社の同僚、いわば「知人」である。ここに、知人・非知人に対する明確な「差別の道徳」をその人は見た。これを一つの道徳律として表現するなら、「人間には知人・非知人の別がある。人が危難に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。非知人なら、それが目に入っても、一切黙殺して、かかわりあいになるな」ということになる。この知人・非知人を集団内・集団外と分けてもよいわけだが、みながそういう規範で動いていることは事実なのだから、それらの批判は批判として、その事実を、まず、事実のままに知らせる必要がある、それをしないなら、それを克服することはできない。私がいうのは、それだけのことだ、と言った。
「そんなこと、絶対に言えませんよ。第一、差別の道徳なんて……」
と相手は言った。
「ではあなたは、たとえば三菱重工の事件のような場合、どうします」
「ウーン、そう言われるとこまるなあ、何も言えなくなるなあ」
「なぜこまるのですか、なぜ何も言えなくなるのですか。何もこまることはないでしょう。それをそのまま言えばよいはずです。みなはそうしているし、自分もそうすると思う(つまり非知人は助けないが、知人は助けると思う――引用者)。ただし、私はそれを絶対に言葉にしない。日本の道徳は、現に自分が行なっていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、“口にしたということが不道徳行為”と見なされる。従ってそれを絶対に口にしてはいけない。これが日本の道徳である。おとなたちはみなこうしています(中略)」》

(山本七平『「空気」の研究』太字は引用者)

 この問答を見るかぎり、「空気」とは、口に出してはいけない「暗黙の了解」のようなもの、いいかえれば、大多数のおとなが保持しているところの非公表の強い規範のようなもの、ともいえるかもしれません。口にすることは憚れるけれども、実際にはそれに従って行動してしまうところの強い規範、道徳である、ということのようです。

 次に、戦時中に戦艦大和が沖縄で無謀な特攻出撃をしてしまった際の「空気」事例です。

《驚いたことに、「文藝春秋」昭和五十年八月号の『戦艦大和』(吉田満監修構成)でも、「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言がでてくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」できめられる。最終的決定を下し、「そうせざるを得なくしている」力をもっているのは一に「空気」であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。(中略)

 注意すべきことは、そこ(『戦艦大和』の意志決定過程――引用者)に登場するのがみな、海も船も空も知りつくした専門家だけであって素人の意見は介入していないこと。そして米軍という相手は、昭和十六年以来戦いつづけており、相手の実力も完全に知っていること。いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知・不見識・情報不足による錯誤は考えられないことである。まずサイパン陥落時にこの案が出されるが、「軍令部は到達までの困難と、到達しても機関、水圧、電力などが無傷でなくては主砲の射撃が行ないえないこと等を理由にこれをしりぞけた」となる。従って理屈から言えば、沖縄の場合、サイパンの場合とちがって「無傷で到達できる」という判断、その判断の基礎となりうる客観情勢の変化、それを裏づけるデータがない限り、大和出撃は論理的にはありえない。だがそういう変化はあったとは思えない。もし、サイパン・沖縄の両データをコンピューターで処理してコンピューターに判断させたら、サイパン時の否は当然に沖縄時の否であったろう。従ってこれは、前に引用した「全般の空気よりして……」が示すように、サイパン時になかった「空気」が沖縄時には生じ、その「空気」が決定したと考える以外にない。

 このことを明確に表しているのが、三上参謀と伊藤長官の会話であろう。伊藤長官はその「空気」を知らないから、当然にこの作戦は納得できない。第一、説明している三上参謀自身が「いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機動部隊が跳梁する外海に突入させるということは、作戦として形を為さない。それは明白な事実である」と思っているから、その人間の説明を、伊藤長官が納得するはずはない。だが、「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切りこみ、ノシあげて陸兵になるところまでお考えいただきたい」といわれれば、ベテランであるだけ余計に、この一言の意味するところがわかり、それがもう議論の対象にならぬ空気の決定だとわかる。そこで彼は反論も不審の究明もやめ「それならば何をかいわんや、よく了解した」と答えた。この「了解」の意味は、もちろん、相手の説明が論理的に納得できたの意味ではない。それが不可能のことは、サイパンで論証ずみのはずである。従って彼は、「空気の決定であることを、了解した」のであり、そうならば、もう何を言っても無駄、従って「それならば何をかいわんや」とならざるを得ない。

 ではこれに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疏(べんそ)しようと思わない」であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない》

(山本七平『「空気」の研究』太字は引用者)

 戦艦大和の特攻出撃の背景のこうした経緯をうけて、山本七平は次のような感想を述べています。

《「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行なったかを一言も説明できないような状態に落し込んでしまうのだから、スプーンが曲がるの比ではない》

(同上)

 実は、私は上記の伊藤長官を中心とした特攻出撃の経緯を読んで、山本氏のように「空気」とは「妖怪」だとか「超能力」だとかは思いませんでした。なぜなら、伊藤長官は軍上層部による「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切りこみ、ノシあげて陸兵になるところまでお考えいただきたい」という言葉をうけて、その具体的な言葉の背後にあったであろう軍上層部の真意、すなわち「もう負けは確定かもしれないが、とりあえず玉砕覚悟で味方の援軍だけはしておこう」的な真意を理解していた可能性が高く、したがって軍上層部と伊藤長官との間には、あるいは関係者同士の脳内においては、ある種の共通の意志が成立していた可能性が高いと思ったからです。こうした真意のやりとりは、さきほどの「空気」の定義、すなわち「口に出すことが憚られる不文律」に正しく当てはまるものであり、目には見えないけれども、両者にとってその真意は了解済みのことであったと思われるフシがあります。私のような一般の人間でも、その内容の破天荒さにすぐに気づいたくらいですから、もしかしたら軍関係者にとっては上の言葉は特攻出撃の合図だった可能性もあるのではないでしょうか。

 先に山本氏自身が述べているように、「空気」の背後には、「口にした場合、不道徳行為と見なされる」ところの、絶対に口にしてはいけない規範(不文律)が存在します。三菱重工爆破事件の事例では、事件現場付近の一般の人たちの間には、「知人は助けるが非知人は助けない」という不文律が存在し(「知人は助けるが非知人は助けない」的な規範については、のちにロック・バンド、イエローモンキーが「JAM」という曲のなかで、「乗客に日本人はいませんでした」と連呼して歌ったことで、結構有名になりました)、戦艦大和の場合には、たとえそれが無謀であったとしても、軍上層部においては、海軍に対して理性的にはありえない状況下で戦艦大和を出動させて陸軍と同化するところまで進軍しなさいと指示が出た場合、それは実質的には玉砕覚悟の出動命令であるという不文律が存在したということでしょう。ただ、それらの不文律の内容が伝達される過程が不明であり、さらにその不文律の内容が言表化されていないだけで、よく調べてみると、「空気」が醸成される現場においては、関係者の間では共通の意志が成立しているのであり、何も「妖怪」や「超能力」のような不可解な存在や現象ではないのかもしれません。

 次に、これまで問題としてきた「不文律」や「規範」「道徳」などの本質について、さらにはそれらと「空気」との関係について、意志論、規範論について本格的に論じている三浦つとむの議論を土台として、探っていってみようと思います。




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