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僕にとってコロナ禍で「走る」ということが「生きる」ということになった

2020年のジョギングの走行距離が1,000kmを超えた。
利用しているランニングアプリで月ごと日ごとの走行距離が一覧できるので、その変化から2020年の僕の心境の変化を読み取ってみようと思う。そしてできれば、2021年の自分にとってジョギングが果たす役割について想像してみたい。

あらためて見返すとこの10ヵ月間にジョギングの持つ意味合いがコロコロと変わった。それはそのままジョギングが持つ可能性なのかも知れないと気づいたのだ。ジョギングは僕の生活の一部となり家族にも少なからず影響を与えていた。

「マラソンは自然に抗うことができない…」それは2019年からはじまっていた。

まず前提として、2019年から2020年にかけて、どのような気持ちでジョギングに向き合っていたのかについて伝えよう。
10年以上、ほぼ、自宅またはシェアオフィスで仕事をしている僕は、体力維持を目的としてジョギングを始めた。以来、年間5回ハーフマラソンに出場することを楽しみ(モチベーション)にして、そのための準備として週に最低10kmできれば20km走ることを自分に課していた。
週末に一度で20km走ってもいいし、週二度10kmずつ走ってもよい。2019ー2020年の冬は、12月、1月に各1レース、3月に2レースのエントリーをすでに終えていた。冬場は主にマラソンシーズンと呼ばれ多くの大会が開催される。

思い出して欲しい、2018年の長野県や東北の台風による増水被害に続いて、2019年は房総半島に停電や建物の損害に代表されるように関東各地で台風による増水や強風による被害がでた。河川敷で行われることが多い東京都と千葉県・埼玉県境のハーフマラソンや田畑の中を走破する地域密着型のハーフマラソンは相次いで「開催中止」を発表した。

コースの被害や復旧の進み具合によって、影響は2019年年末のレースまで続いた。
マラソンレースの開催は大きく自然に左右され、地域の生活と切り離して考えることはできない。
それは2020年にさらに大きな黙示として我々に強く突きつけられることになる。

色濃く現れたコロナの影

近年の12月恒例のハーフマラソンの中止からジョギングへのモチベーションが上がらなかった僕は、1月のレースの準備にも力が入らなかった。平凡な成績に僕は少し反省した。3月の初旬には所属するランニングクラブでエントリーしたハーフマラソンがあるのだ。
レース1ヵ月前からあらためて走力を上げようとした僕は、2月になり少しずつだが走る回数を増やしている。

しかしそこに新型感染症(COVID-19)による大会の中止の一報が入る。一気にモチベーションが萎んでいるのが分かる。

トレーニング

僕ははじめて、家族のために走った

冬はマラソンシーズンだと言いながら、実は僕は寒い中を走るのが嫌いだ。寒さは決して嫌いではないのだが、汗っかきの僕は発汗後の冷えが嫌いなのだ。逆に暑い最中にジョギングするのは汗をかき放題なので嫌いではない。

目標を見失った僕が3月に合計64km、かろうじて走量を伸ばせたのには理由がある。
子どもの卒業式が延期の末、後輩が出席しない形で行われ、日に日に悪化するコロナ禍の中、入学式どころか授業開始も未確定な状況が続いた。受験後の勉強習慣がなくならないよう子どもの勉強を見ながら、体力維持のために友人のつてで入会したボクシングジムに子どもを連れて行く。

不安を表には出さない子どもに対して親ができること。考えた僕は子どもが合格した学校に2度走って行った。写真を撮り家族内のSNSに送付。そして帰るなり伝えたのだ。

「まだ、学校あったぞ。」
もちろんすぐに冗談だと分かるので一笑されるのだが、
「先生みたいな人がちょうど学校に入っていった。きっと授業の準備してるんだな」
と伝えると、うれしそうな顔を見せるのだ。

しかし、片道約20kmの道のりを往復するのはきつかった。徒歩での帰宅を諦めてコロナ禍の影響でガラガラの電車に乗って帰宅することもあった。学校から始業に関する情報が入り始めたのを口実に、学校の存在確認を終了した。

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(2020年4月19日日曜日11時頃|渋谷・東急百貨店本店前から渋谷駅方向を撮影)

僕ははじめて、子どもと走った。 そして家族に運動習慣が生まれた

先の画像の4月を見て欲しい。毎日細かく刻まれた棒線は子どもと走った5km走を表す。ボクシングジムの密を家族が心配したため(対策は講じてあり僕自身に不安はなかったが)代わりに毎日走ることを提案した。
それまで、3km程度しか走ったことがない子どもが、すぐに5kmのコースを走破するようになる。しかも、走りながら「嵐」のうんちくをずうっと僕に説明するのだ。結構な肺活量を消耗しただろう。運動による心身の平静を保つという目的は充分達成された。

すると、妻にも変化が生じる。5月になり再放送を録りためた「筋肉体操」を僕と母子3人で行うようになったのだ。多いときは日に3セット。なかなかの筋トレ量である。僕が居間のテレビの前に立ち「筋肉体操」を再生すると、オープニングのピアノの音と続くトランペットにつられるように集まってくるのだ。そして、少しずつだができる回数や負荷が増えていくのだ。

適度な運動が、心身に健康をもたらす
家族各人がこれを感じていたからこそ自発的に行えたと思う。閉じこもりがちな日常と、不安な心を立て直したいという深層心理に届いたのに違いない。

本当の意味で、ジョギングの有難味を知る

6月に入り子どもが1日おきに登校するようになる。だが当初は帰宅時間が早かったので一緒にジムに通うように心がける。7月になり毎日登校するようになるが7月はほぼ雨模様だったこともあり極力ジムに誘い子どもの運動を優先する生活が続いた。想像していた通り、学校では体育の授業がほとんど行われなかった。

トレーニング

8月になり好天に恵まれると、距離は短いがジョギングを再開する。すでに述べた通り、暑いのは苦手ではないのだ。
子どもの夏休みは期間が短く毎日の課題も多い。学校の部活動も始まり運動が足りはじめたこともあり、さて自分自身の身体の調子は?と顧みた。

相変わらす、毎日の飲酒習慣は変わらず、いわゆるビール腹を抱えてドタバタと走り続けているのだが、この頃受けた健康診断と胃カメラによる検査の結果は至って正常であった。
極めて健全な身体に例年以上の調子の良さを感じて、日々の運動習慣に自信を得ていく。そんな8月と説明できるだろう。

本当に、「心」を整えるために走ることになるとは。

先の6月以降の記載には実は裏がある。ウソとは言わないが、6月の部分を棒グラフを見ながら書き留めた内容は実に表面的なことだ。ほんの数ヵ月前のことを思い起こしながらキーボードを打っていたのだが、心に蓋をしているということはこういうことか。気がついてハッとした。

ゴールデンウィーク辺りから実母の体調悪化が聞こえてきた。
6月になり病状は深刻さを増した。7月からは新たな診療のため週2回の通院に付き合うようになる。コロナ禍でも診療を続ける病院に感謝した。
実家に寝泊まりしつつ往復する日々が続く。治療の効果がある程度見えてきたと思えたのが7月下旬。見守りにzoomを導入して元気な実父に日々の生活はある程度任せたが、思うように好転しない母の病状をパソコン越しに見る毎日は自分にとって今まで経験をしたことがない新たな日常だった。

この新しい日常は自分には抗いようがない、許容せざるを得ないものだった。かつての母がその都度奇跡的に回復したように3度目の「V字」の回復基調に乗ることを願っていたし信じていた。zoomを毎日起動しその度に少しずつ生気を失いつつある母に身体を動かすことを勧め、モニター越しに毎日一緒に「みんなの体操」をやるように促した。

ここで高齢者の「筋トレ」の効能について、少しだけ母の話をしたい

母は前回の体調悪化では、筋トレによる効能で体力回復を成し遂げていたので、母には運動による身体の痛みの緩和や歩行回復の成功体験があった。

母の体調が極端に悪化したのは今年が初めてではない。現状との比較をする僕の脳裏には、ほぼ寝たきりになることを覚悟するほど衰弱する母が横たわっていた。話す声も擦れて聞こえなかった。父や妹と相談した結果、仕方なく以前通ってた大学病院に相談することにした。そのまた数年前に母がこの大学病院に無理矢理飛び込んだとき、当時まだ一般的ではなかった「ペイン治療」の処方によって数日後には見違えるように回復した。
最初の「ペイン治療」を第一のV字回復と呼んでいる。
しかしその後、この処方を持ってしても根本的には完治しない症状によって薬の量が増え、もうこれ以上増やせないという状態に達して傷みに耐えかねて衰弱していたのである。
第一のV字回復以降病状が改善し近隣の病院に診療を委ねていたためこの大学病院には通うことが無くなっていた。相談された大学病院は改めて母の病状を診て渋々入院を許可しブロック注射による治療をしながら手術による痛みの緩和を勧めるしかなかった。しかしである。この入院期間に受けたリハビリに母が光明を見いだしたのだ。退院後、退院前とさほど変わらない様子の母は、その擦れた声を絞り出して言った。
「リハビリが効くと思う」
これが第二のV字回復の始まりだった。70歳を過ぎているにも関わらずデイケア先のジム設備を利用してあれよあれよという間に筋力アップを果たし、1人で高速バスに乗って歌舞伎を観るまでに回復して見せたのだ。

吉永小百合も近年のインタビューで話している「筋肉は嘘つかない」を体現して見せたのだ。

「筋トレ」が母自身にもたらす効能を知りながら、しかし、2020年の母にはそれを実行する体力は残りわずかだった。ちょうどコロナが日本に影を落とすのに呼応するように、その全く関係のない一軒の屋根の下で、さまざまな不運が重なって母の体力と気力を蝕んでいた。その前年に母の実姉を失ったことや更にその前に実弟を失ったことに起因していたのかも知れない。
デイサービスに通う体力は4月初旬の時点で残っておらず、コロナ禍の制約が押し寄せる前にデイサービスの利用を停止していた。そして、コロナ禍の緊急事態措置が行われた5月以降に、心配したデイサービスの事業者さんがリハビリに訪れても、体力は戻らなかった。

この時期、同じような境遇で苦労された方がおり、今もまだその渦中では高齢者に留まらず大勢の方が苦労を続けていると思う。母のように運動習慣とその効果を成功体験として得た人は自分の可能性に少しでも希望を持って抗っているのだと思う。みんな信じて頑張れ。僕は母に代わってそう伝えたい。

毎日走り、ジムに行き、何も考えない時間が必要だった

そんな母の今年に入ってからの不運な経過を知るにつけ、何もできなかった自分と回復のために何かを考え行い続けなければいけない自分。
新しい日常に向き合う自分にはジョギングは不可欠だった。

8月の日々の棒線からはその様子がうかがえる。zoomの映像を見つめる合間を縫って淡々と走り続けることで、現実と向き合おうとしたのだと思う。
そして、今こうしてその頃の僕自身を思い出せるのも、その頃の静かで冷ややかな日常があったからだと思う。
心を整えるためにひたすら走り続ける日々。
そして、9月に入り母の訃報を聞いた友人からかけられたひと言。
「俺も同居していた(店の先代である)義父が亡くなる直前、ボクシングジムに毎日通ったよ」
彼はすでに事業承継を済ませていたのだけれど、今日ある事業を起業した家族の死に直面して、さまざまな不安と日々繰り返される店の運営に押し流されんとした経験を僕に語ってくれたのだ。

原点回帰、自分のために走る

トレーニングカレンダーの9月10月からは8月とさほど変わらぬ様子が見て取れよう。しかし心持ちは全く別のものに変化した。
齢54にして、自分の身体を少しいじめてみようと思い始めた。心機一転、生活のリズムを作りたいという思いが芽生えた。

運動習慣と共に大切なのは、基礎体力の維持・向上であることも認識した。
母の死に際して、何よりも僕は生きたいと思った。

2020年年初、年間5、6回のレースのために走っていた僕は「走る」目的を見誤っていた。コロナの発生で「走る」は家族の気持ちをケアするためになり、家族の健康のための模範を示すことに変化した。
そして、家族の中になにかが芽生えたように、僕自身の体内時計を正確に刻むための動力としてジョギングが果す役割が明確になった。

コロナ禍にあって、毎日淡々と暮らすことがいかに難しいことかを体験し、さらに心がザワつくさまざまな問題に直面した。
しかしジョギングは僕を裏切らなかった。
走り始めて一刻を過ぎると必ずもたらされるあの軽くて清々しくて自由な感覚。どんな問題からもその瞬間だけは解き放される様な気がする。

決めた、これからはジョギングと一緒に生きていこう。

僕にとって「走る」ことは今までの日常下でも新しい日常下でも非日常でも息をし食べ寝ることと同じ「生きる」ということなのだ。
2021年の僕は「生きる」ために「走る」。
それがコロナ禍で「走る」こととは?という問いに対する答えだ。

最後に、
リハビリの「筋トレ」によって体力回復の成功体験をした母は、体操を促す僕に「鬼軍曹」という言葉を残して逝った。
できない注文をしていたからなのか、それとも頭でっかちと言いたかったのか。第三回目のV字回復をどうしても成就させたかった僕は、母の今までの経過を整理していた8月の中旬にあることに気づく。第二回目のV字回復から10年も経過していたのだ。筋トレだけで実に10年以上、多少足を引き釣りながらでも歌舞伎を観て、孫の運動会には必ず出席してきた。40代から外科内科含め大小11回の手術を経験して満身創痍だったにも関わらずだ。
母にとっての「筋トレ」は「生きる」ための「筋トレ」だった。そして身体が悲鳴をあげて「筋トレ」ができなくなったとき、母の「生きる」も終了した。
「生きる」ために「走る」と宣言したが、僕が「走る」ことができなくなったらと考えるのはまだまだ早い。ただ、ジョギングの途中で必死に「走る」ご老人の後ろ姿を思い出すと、僕もなりふり構わず走り続けようと思う。
「鬼軍曹」の面目躍如を完遂しなければ、母から叱責を受けるだろう。かつての鬼ババからのきついひと言はできれば避けたいのである。

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