はじめての「小布施見にマラソン」ツアー

2022年 02:40:44
2019年 02:40:22
2018年 03:08:28
2017年 03:02:16
2016年 02:41:55
2015年 02:30:46
2014年 02:12:01

2022年、3年ぶりの「小布施見にマラソン」は、私にとって『はじめて』尽くしだった。

話は約10年前に遡る。本格的にマラソンレースに参加するようになったのは2013年から。世の中は市民マラソンブーム真っ只中で、街中を列になって走る市民ランナーたちが散見されるようになったのもこの頃だった。ランニングクラブの存在が認知された時期といっていいだろう。

定期的にハーフマラソン・レースに参加するようになる。少しずつだがタイムも速くなる。しかし夏場は関東近隣のレース開催がほとんど行われない。そんな中、2011年に北信州に地縁を得ていた長野北部で、5月、7月、9月に行われるハーフマラソンの存在を知り参加するようになった。そしてそれらは私の年中行事になる。

「小布施見にマラソン」に初参加の2014年、他のレースと同じように記録を残すことを念頭に参加した。そこで目にした光景が私の中にごくわずかだが夢の種を蒔いた。

真夏の早朝6時。長野駅と温泉町・湯田中を結ぶ単線の長野電鉄(通称:長電)の小布施駅の駅前を埋め尽くす、ひと・ひと・ひと。絵本から飛び出したようなカラフルな出で立ちのランナーが手狭なメインストリートを埋め尽くしている。
すごい…! 極彩色だ。
ヒマワリをコラージュした吹奏楽団。チョウチョの羽根をあしらった天使のような人たち、ミツバチ、カマキリ、パンダ、マリオ、ピカチュウ、ミニオンズ、ありとあらゆる昆虫やキャラクターが交錯し、会話している。看護婦、野武士、果ては宇宙戦艦ヤマトを背負った人までいる。

2014年スタート前、小布施駅前の様子

それまで経験した多くのマラソンレースは記録レース。ハーフマラソンを中心に楽しむランナーや、フルマラソンの調整のために参加する人たちで溢れていた。みな自分のタイムと向き合って走り、折り返し地点ですれ違う時に交わす挨拶がほほえましいことはあっても、トレーニング主体の市民ランナー同士の集い、ランニングクラブは自分にはあまり関係がないと思っていた。

しかし、この小布施では参加者同士が写真を取り合ったり、一年ぶりの再開を喜んでいる。スタート地点やコース上で目にした人たちは、祭に参加する演者のようだった。阿波踊りやよさこい、エイサーなど地域で根付いた祭のようだった。祭の体感者たちは「連」や「囃子」の練習を通じて演者になったり観覧者となって参加し、ともに場の雰囲気を楽しみながら、うねりや渦を形成していく。「小布施見にマラソン」はコスプレという大きなカテゴリーを利用したランナーの祭だ。コアでディープなレイヤーを中心とした祭をランナーが昇華したランイベントが「小布施見にマラソン」なのだ。そしてそこに参加するものの憧れとしてランニングクラブ、市民ランナー同志の集いに魅力を感じたのが「小布施見にマラソン」との出会いだったのである。

いつかはコスプレ。しかもチームで。

これが私に蒔かれた小さな夢の種、しかし、どのように芽吹かせるのか積極的に動くことはなかった。

2014年に蒔かれた種は、その約4年後、意外にも宇野常寛氏のサロンによって実現への期待値が高くなる。サロン創設後すぐにランニング部が創部された。躊躇なく参加した私は、まずは街中を列をなして練り走る。文句なしで愉しい。そうか、ゴールやスタート地点を目的化したり、走りながら景色を愛でることが愉しいのだ。私がかつて目にしていた市民ランナーたちはトレーニング目的で走っているものと思っていたが、必ずしもそうではなかったのだ。それであれば、ますます「小布施見にマラソン」の魅力を伝えて一緒に参加して欲しい。それほど小布施は特別なのだ。その手始めとしてクラブとしていろいろなレースに参加してもらおう。私の思いとは裏腹に、大雨やコロナ禍などに阻まれてクラブとしてのレース参加はなかなか実現しなかった。

2022年初頭、「小布施見にマラソン」の募集がはじまると同時に、ふたりのクラブメンバーが参加申込を宣言してくれた。ついに私の小さな夢が動き始めた。
はじめて知人と一緒に参加するレース。私は興奮した。折しもレースが行われる日曜日は3連休の中日。前日に現地入りし、翌日は観光という「小布施見にマラソン」ツアーをはじめて組むことになった。

2011年の4月、旧知の友人がすでに部屋を所有していた北信州・木島平村のマンションでわれわれ家族は部屋を内見していた。大災害から6週間が経過していた。目的は災害時に備えて二つ目の拠点を持つことだった。夫婦互いの両親が住む実家は首都圏に集中していたのだ。
それ以来、12ヵ月のうち合算で1ヵ月余りを新潟県と隣接する飯山市をはじめ、中野市、小布施町、須坂市、長野市などで過ごすようになる。気がつくと地域の施設や道路事情に明るくなっていた。ツアー主催者となった私は、さまざまな選択肢を準備して参加者とのミーティングを重ねていく。

はじめての「小布施見にマラソン」ツアー、準備段階では向かえる気持ちの空回りがあったかも知れない。そんなとき、美味しい「お蕎麦」が食べたい。そう言ってくれたのがうれしかった。他のハーフマラソンレースに参加して着々と準備している姿がうれしかった。ふたりの参加者が土曜日早朝の長距離バスを予約してくれたとき、本当の意味でツアーがスタートした気がした。

はじめての「小布施見にマラソン」ツアー、開始。

2022年7月16日土曜日、長野駅でふたりをピックアップしたとき、最初の難関が訪れる。北信州入りした最初の食事、向かうのは蕎麦店である。善光寺参道脇の「元屋」か、飯綱高原の「よこ亭」か。自分が行ったことのある店、場所に連れて行くのが今回自分に課した縛りである。

はじめて自分の地元にひとを招き入れる気分だ。

第7波といわれる感染者の増加傾向は、それまでの波と同様、北信州の人出にも影響を及ぼしていた。バス到着時刻の遅延によって飯綱高原を選択したが、地域の人気店はかつての連休の賑わいはなく、われわれ3人は待ち時間無しで昼食を取ることができた。次の目的地は「小布施見にマラソン」の前日エントリー。小布施駅前に続く栗林が住宅地に変わった地点から車列が続く。地元民ならではの判断でUターンしたのはよかった。そして土曜日最後は中野市にある「井賀屋酒造場」の酒造見学。ご夫婦ふたりで切り盛りする小さな酒造に友人を連れて行くのははじめてだった。初日はここまで2時間区切りの時間割を予定通り消化することができたのだ。

初日のスケジュールを最良の状況で過ごした私は、部屋に通したふたりを前に満足感に浸った。翌日の時間割とレース中の注意点を確認するとふたりの就寝を見届けることなく布団に倒れ込んだ。

7月17日日曜日3時。私の気配に部屋に宿泊したふたりも起きてきた。10数km離れた長電の信州中野駅で臨時電車に乗るまでが本日を楽しく過ごすための大きなポイントなのだが、ふたりの協力があってこその日程消化である。駅のホームで二両編成の小布施駅行きの列車を待ちながら、トラブルなくマラソンをスタートできることに安堵した。

3年振りの小布施駅前は相変わらず極彩色のウエアで賑わっていた。みな思い思いに写真を取り合い、3年振りの再会を身体全体で表現している。その見慣れた光景を前に、ランニング部同志のふたりが、かつての私が受けた衝撃に晒されこの祭に取り込まれていることは確かだった。

2022年小布施駅前

いつかはチームでコスプレ。

カウントダウンに続くスタートの拍手に続き、華々しい「小布施見にマラソン」がはじまった。マラソンスタート直後の自分の身体との会話、その日の調子を確認するわずかな緊張感はすぐに去り、コスプレやTシャツのチーム名、主催者から配られたゼッケンに記入されているメッセージを確認するうち、お気に入りの演奏ブースが見えてきた。
ここ小布施では20か所近い演奏ブースが沿道に設置され、毎年決まった演奏、コーラスといった音楽での応援でランナーたちを出迎える。
スタートラインを過ぎた時点で、私自身もこの祭の演者であるというスイッチは入っている。お気に入りのゴスペル音楽の10人ほどの女性陣の前で『踊る』。それは彼女たちに対する感謝の表現だ。

あとで知ったことだが、ランニング部のふたりは、スタート後ほどない音楽ブースの前で跳びはねる私の姿を目撃していた。その後の小布施の楽しみ方に多少でも影響していればしめたものである。

コースは最初の難所に差し掛かる。志賀高原から続く山並みの裾のすそ、栗林を見下ろす農道をひたすら上がる。ランナーの疲弊を解消するかのようにおぶせ牛乳を皮切りに数々のエイドが現れる。今回残念だったのは、ハイタッチの応援が自粛していたことである。登り道の後半に現れる一群にいままでどれだけ助けられたか。印象深い応援演出をふたりに体験してもらえなかったのは心残りである。来年の楽しみにとっておこう。

2016年の様子

コースの難関によってわれわれ3人は自分のペースを尊重しはじめる。1人目の1川さんは、今年に入って数度目のハーフマラソン(私はすべて小布施のための準備だったと思っている)準備体操に余念がない彼は登りでは無理せず最後尾に。三浦国際ハーフマラソンのTシャツを着ている。2人目は、1km6分ほどのペースを緩めないO野さん。毎日ノルディックウォークで仕事場を移動し出張先でも健脚を鍛え続ける猛者である。軽井沢ハーフマラソンのTシャツだ。ふたりとも残念ながら中止されたレースの弔いランである。O野さんの背中を見送り、トイレ休憩を挟んだ私は、ゴールまでふたりの後ろを走ることになる。ランニング部のSNSに上がるリアルタイムの動画や写真がふたりのおおよそのペースを知らせてくる。これこそみんなで走るはじめての経験だ。

時計に目をやる。そろそろO野さんがゴールするころだろう。私はまだ残り5kmの地点である。ゴール地点が視野に入ってきたころ、1川さんも到着したらしい。とりあえずゴールだ。ゴール後にふたりにどんな言葉をかけよう…。しかし、終盤の私にはそんな余裕はないはずだった。

「チームTシャツを作って、来年はコスプレで参加しましょう。」

ゴール後の心地よい疲労感の中で、私はたぶんこう口走っていた。小布施ではタイムが遅くても意に介さない。音楽ブースの前で立ち止まり、椅子に腰掛けて応援するおばさんに手を振り、子どもたちにありがとうといい、数々のエイドに舌鼓を打った証、沿道の応援に応えれば応えるほど時間がかかるのである。小布施上級者である私は堂々と先にゴールして私を待っていたふたりをねぎらった。そうして自信をもって言い放ったのである。

21km余りを走りきったふたり。「小布施見にマラソン」を堪能したふたりの疲れ切った脳裏に確かに刻まれたはずである。
私の企みに賛同する構成員となったふたりには、少なくともこの瞬間に返す言葉はなかった。

われわれ3人の目先はすでに次の目的に向かっていた。温泉と蕎麦だ。バス、長電、車を乗り継いで約1時間半。馬曲温泉(まぐせおんせん)で山間の青空を見上げていた。小布施の喧騒から離れて、静かな村へ戻ってくることも地元民ならではのツアーだろう。そして近所の蕎麦屋へ。

馬曲温泉

その後、大賀ハスの畑を眺め、夕飯の買い物を経て、部屋に早めに帰宅した。疲れた身体を休めるべく惰眠をむさぼるのである。
昨夜、私ともうひとりのいびきの合唱に挟まれた某氏が真っ先に布団に横になったのは言うまでもない。

翌日、最終日の日程は私にとっても少し挑戦的な内容だった。夏場の野沢温泉の外湯巡りである。夏場の足湯は何度か経験していて、照りつける日差しと熱い湯の非日常的な快感を気に入っていた。しかし、野沢温泉の外湯ははじめての体験だったのである。
7月18日月曜日の午後、信州飯山駅から新幹線で帰京するふたりは、迷うことなく私の提案に乗ってくれた。簡単に帰京の用意を済ますと、まだ浅い日差しの中、車で約30分先の湯沢温泉郷に向かった。

13ヶ所あるという外湯のうち、私が知っているのは2か所だけ。地図を片手に駐車場を後に坂をゆっくり登って行く。
真水で薄めるのがはばかれるくらいこだわりの強い熱い湯に身体を慣らす作業はわれわれ3人を饒舌にした。軽口を叩かないといたたまれないのである。真夏に突如開催されたがまん大会に歓喜しながら1つ目の湯を出たときその快感は訪れた。気温30度を超すはずの外気に触れたとき、その涼やかな山間の空気が私の身体を撫でていった。
真夏にたき火をしたことがあるだろうか。目の前の炎に供給される空気の流れが涼やかな風となってたき火に向かう私の背中から包み込むように流れる。外湯の扉を開けた途端、湯気と外気が入れ替わろうとするその風が身体を撫でるのだ。

野沢温泉 外湯の中心・大湯

はじめての外湯巡りは、5か所を巡って残りは次回へのお楽しみとなった。熱い湯に浸るという楽しみは、意外に体力を奪うことがわかった。
そのおかげもあって早めに外湯巡りを切り上げたわれわれが次の目的の蕎麦屋を訪問した後、私は無事飯山駅にふたりを送り届けることができたのである。

ランニング部のハーフマラソン参加。
街の中をグループで走るという望みが叶って数年。ハーフマラソンをみんなで走ってみて、来年が楽しみになった。

いつかはみんなでコスプレ。

今回のふたりは賛同してくれるだろうか。次回は私だけでもコスプレをしてみようか。わたしのコスプレを笑ってくれる仲間がいる。はじめてコスプレをして走る日は近い。私にとってのはじめての「小布施見にマラソン」ツアーは来年も続くのである。

「小布施見にマラソン」は記録を破るためのレースではない。新しい自分を見つけるための祭なのだ。参加してこその祭なのだ。

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