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思索記「生きとし生きるものの図表」から考えたこと

 この作品は、恒星快感道場の26作目(ser.26)に当たるものでした。異世界探索記には掲載せず、占星術・神秘学のマガジンに登録しました。

はじめに

 私は、生きとし生きるものの図表を始め、グルジエフの体系について集中的に学んだことがなく、そのほとんどが、松村先生の引用を通して吸収してきました。それだけでも十分に学べましたし、とても役に立つ考え方で、思索するとき何かにつけて、利用するようになっています。
 そのような理由で、ここに記載するのは「一考察」という立場であり、その思索の足跡を付けておこうというものです。中には、より深く学んだ人から見れば「当たり前じゃん」とか、「全く違うぞ」と思われることがあるかもしれません。私としては、自分で考えるということが重要だと思っています。学んだことを咀嚼納得し、自分の言葉に置き換えるというのが私の好みのやり方で、そのことを通して様々なことを我が物にするということを繰り返してきました。

中層重心と食べ物

 生きとし生きるものの図表において、それぞれの存在の中層重心と、食べ物と、食べられるものが、3つにまとめられて記載されています。食べられるものとは、自分がどこに所属しているのかという、自分を包み込んでいる存在のことです。今回考えたのは、中層重心と、食べ物についてです。食べられるもののことについては、あまり考えていません。
 中層重心というのは、「これが私である」と感じている、存在感の前提となる重心部のことです。創造されたあらゆるものは、一なるものの分割によって発生していますが、その時に振動の階層というものが発生します。存在は、同じ振動の中にのっぺりとあるのではなく、たくさんある振動の様々な階層の中で、それぞれに相応しい存在として形成されているわけです。その階層は、振動の流れと言うか、振動の広がりというか、振動そのものが物質的に存在しているのではなく、振動が結晶化することによって、存在となるわけです。
 そのような前提に立つと、「これが私である」という中層重心の感覚は、何らかの振動が結晶化したもの、というふうに解釈することができます。そしてその場合に、何かが存在として結晶化するときには、中層重心だけで可能となるのではなく、振動の上下との関係性が必要となります。
・食べられるもの
・食べるもの
・7つの階層
という必要条件です。生命には7つの階層をまとめるという条件が必要となります。
 これを踏まえて、それぞれの存在形態の中層重心が、何が結晶化したものとして説明します。
大天使(H6):超越的思考が結晶化した存在
天使(H12):超越的感情(感動)が結晶化した存在
人間(H24):高度の思考・高度の感情が結晶化した存在 → 本来の人間
哺乳類(H48):普通の思考・繰り返しの思考が結晶化した存在 → 通常の人間
無脊椎動物(H96):火、動物磁気が結晶化した存在
植物(H192):空気(風)が結晶化した存在

 通常の人間が、普段の思考を自分自身だと思っているように、無脊椎動物は自分の実体の中心を火とか動物磁気・濃厚なエネルギーだと感じているのかもしれません。この理屈でいくと、植物は、自分の中心を風だと感じているということになります。
 自分自身を確認するためには、「私はそれではない」というターゲットが必要になり、これが白黒で描かれる陰陽図ということになりますが、白の部分が「私」、黒の部分が「私でないもの」ということになります。しかし生命の7つの階層から見ると、この「私でないもの」も、実は「私」であり、「私でないもの」は、これが自分だと思っている階層から分割されたものを取り扱っているだけです。存在を意識するために、「自分であって自分でないもの」を利用しているということです。それが中層重心から見て、1つ下の階層ということになります。人間H24ならばH48、哺乳類H48ならばH96ということです。この1つ下の階層には、「私はこんなんじゃない」という、ネガティブな思いが付きまといがちですが、自分を成立させるために、そのような感覚が敢えて必要になると見ることができそうです。
 さらに下の階層が食べ物になります。私はそれを「主食」と呼べばいいのではと思います。なぜ「主食」かというと、この7つ階層から見た5つ目が「食べ物」になりますが、6つ目7つ目も、自分を形成するために取り込むことに変わりはないからです。例えば哺乳類は、H192を主食とします。空気を取り込みます。つまり生きていくために呼吸します。呼吸を意識することができます。呼吸を止めると、すぐに死んでしまいます。現実を見ると、呼吸だけでは生きていけません。水と食べ物が必要になります。「副菜」として、水(H384)と土(768)を取り込みます。これによって、知覚できるボディーを形成するわけです。「主食」と「副菜」の違いは、前者が「生きている」という手ごたえを感じるためのボディーに関わり、「副菜」は、存在を知覚するための身体に関わっているのではないかと思います。
 副菜には6つ目の階層と7つ目の階層が2つありますが、これら2つの違いは何だろうかと私は考えました。まず考えやすいのは、7つ目の階層です。私はこれを「存在を安定化させるための錨の部分」と考えると良いのでは、と思いました。どこを地面として考えているのか、どこを舞台にして活動をしているのか、というのを感覚で捉えるための部分です。哺乳類(通常の人間)にとっては、H768で、土がこれに当たります。哺乳類あるいは通常の人間は、大地に足をつけて、物質的存在であることに安定感を覚え、「今、ここ」に存在していることを前提とします。無脊椎動物ならば、水を主食とします。そして土と土以下の物質(H1536)を副菜とするわけです。
 ちなみに無脊椎動物は、脊椎動物とは違って、肺に当たる臓器がありません。身体に空気が通る管があり、自動的に呼吸に当たる生命活動がなされます。おそらく無脊椎動物は、「呼吸」というものを意識することができないのではないかと思います。中層受信H96から見れば、空気はその下のH192ですから、自分が存在するための必要不可欠なものだが、自分で制御できず、勝手に出入りするものなのではないでしょうか。普通の人間(哺乳類)から見れば、それはH96に当たります。普通の人間から見れば、H96は「自分ではないものだが、勝手にあちこちからやってきて、制御できないもの。しかし存在するために必要なもの」です。もしこのH96を操作できるならば、それはH24の存在ということになり、それは本来の人間ということになります。同じように、H192を重心としている植物から見れば、水は管を勝手に通るものであり、制御できないものということです。植物は土を食べ物として愛好し、水については、必要不可欠にも関わらず「面倒くさいもの」と感じているのかもしれません。

 主食は、生きている手ごたえを感じるためのボディー形成であり、副菜は存在を知覚するためのボディー形成に当たります。副菜について6番目の階層と7番目の階層の違いは、7番目が、存在を安定化させるための「錨」の部分であり、6番目については、その「錨」と「存在感を感じるための生き生きとしたボディー」の「つなぎ」に当たるのではないかと思います。ここで分かりやすく造語というか、無理矢理に言葉を当てると、5番目の階層が「生命力を感じ取る身体」であり、7番目が「知覚される身体」であり、6番目が「2つの身体のつなぎ」ということです。誤解を招きそうですが、まとめて、5は「生命感受体」、6は「つなぎ部」、7は「知覚体」と、便宜上表現します。
 具体的に言ってみると、本来の人間にとっての生命感受体は、H96(火や動物磁気)であり、知覚体はH384(水)であり、つなぎ部はH192(風)である。哺乳類にとっての生命感受体は、H192(風)であり、知覚体はH768(土)であり、つなぎ部はH364(水)である。ということです。

ここで一度、まとめます。階層5は主食であり生命感受体、階層6は副菜でありつなぎ部、階層7は副菜であり知覚体です
大天使:5(H24高度な思考)、6(H48低速の思考)、7(H96火や動物磁気)
天使 :5(H48低速の思考)、6(H96火や動物磁気)、7(H192空気)
人間 :5(H96火や動物磁気)、6(H192空気)、7(H384水)
哺乳類:5(H192空気)、6(H384水)、7(H768土)←通常の人間
無脊椎動物:5(H384水)、6(H768土)、7(H1536)
植物 :5(H768土)、6(H1536)、7(H3076)

各階層の意識と距離

 通常の人間(哺乳類)H48は、知覚体として土H768を形成します。このことによって、土の世界を底とした世界で存在の安定感をもたらします。土の特性とは、「今、ここ」という意識です。通常の人間は、「今、ここ」という限定性の中で生きています。
 ここから1ランク上の本来の人間H24になった場合、知覚体として水H384を形成します。私はこの意識でフォーカスされることについては、「凡そいつでも、どこでも」という意識として経験されるのではないかと思います。
 さらに1ランク上の存在は、天使H12ということになり、存在の底としては風192を形成します。上記の理屈で言いますと、風を底にした意識とは「完璧にいつでも、どこにでも」という意識となるということです。H12は、太陽系における不死でありますから、理屈的に「いつでも、どこにでも」という状態になることと一致することになります。
創造の光線の下降が降りられる「1つであること」を体験できる振動は、H96ということで、H96の世界では、全てがつながっている状態になります。それより以下の世界、H192以下の世界になると、それは、ローカルな場、つまりそこでしか通用しない世界を形成していると考えることができます。土、水、風というのは、ローカルなものに属するという特性があるということではないでしょうか。そのローカル性の中で、この世界で言うと太陽系の中で、最も広がりがあるのが風(いつでも、どこにでも)、水(凡そいつでも、どこでも)、土(今、ここで)ということです。火は、そのローカルな世界から離れた振動のもので、全世界共有のものです。つまり、このローカル社会以外でも、太陽系以外でも、ということです。
この考えをさらに押し広げるならば、これはそうとう理屈っぽい話であり、我々の意識からすると想像しにくいのですが、土以下の振動・物質についての意識というのは、H1536は「(近く)いつか、どこかで」であり、H3072は「(遠く)いつか、どこかで」という意識になるのではないでしょうか。そして図表の最下部H6144は「いつも、どこにもない」というもはや想像することも難しい無限の虚無のような状態になります。これらの暗い意識は、なんとなく、我々が沈み込んでいるときに感じることに近いのではないかと想像します。満たされない気持ちであり、いつか、どこかで、満たされるはずだという期待の心です。
 H1がどこにでも通用する振動、あらゆるものに含まれる振動であり、その振動が薄まれば薄まるほど、低まれば低まるほど、だんだん狭い世界での話になっていき、限定性が出てきます。そして重要な境目がH96とH192の境目ということになると思います。H96以上なら、限定性があるとは言っても、1つのものという意識によってつながっており、分離感がありません。輪郭がはっきりしていない世界という言い方もできるのでは、と思います。H192以下だと、ローカル社会以外の可能性には開かれなくなります。それらは、ローカル社会から出て行くことは許されません。
 例えば、本来の人間H24は、H96までなら、太陽系以外の場所に移動することができるということになりそうですが、空気と水については、地球においていき、新しい場所でそれらを調達する必要が出てくるということになりそうです。

 ところで、通常の人間から見た場合、7階層目の土(H768)において「今、ここ」という意識にフォーカスすることになります。私は、この見方について、少し考察してみました。通常の人間だけが「今、ここ」を感じ取るのだろうか?という疑問です。理屈的にですが、私としては、どの存在形態においても、7階層目における舞台を「今、ここ」と感じるのではないかと思います。7階層目はどの存在においても、存在を安定化させる部分です。
 例えば本来の人間(H24)の第7階層はH384です。本来の人間は、水の世界を「今、ここ」と感じるのではないか?という考察です。本来の人間から見れば、水(H384)が「今、ここ」だが、通常の人間(H48)から見れば、それは「いつでも、どこでも」という意識に見えてしまうということです。
逆に私が提示した理屈から言えば、通常の人間(H48)が土(H768)に関して感じる意識は「今、ここ」だけれども、本来の人間(H24)からすると「いつか、どこかで」という意識状態として感じられるのではないか、ということです。「いつか、どこかで」というのは、なんとなくイメージしやすいです。「私には知覚できない土の世界があるが、どこかで、それがあるらしい」という予測になるからです。土以下の階層のこととなると、より一層、知覚できないけれども、可能性として感じ取れるものという、見えない感じが深まります。
もう一つ例を挙げると、大天使から見た場合は、「今、ここ」は、火(H96)ということですが、風においては「いつか、どこかで」という意識の対象となるということです。
 第7階層において、それぞれの存在が「今、ここ」を感じるとします。「今、ここ」という意識ができるということは、「今ではない、ここではない」ところにある対象とか、ターゲットのようなものが発生することになります。つまり「今、ここ」は、対象と、さらには「距離」とか「移動」いう概念を生み出します。このように考えると、各存在が「今、ここ」を感じ、「距離」「移動」というものを感じる第7階層において、それぞれ何において異なるのかという疑問が出てきます。
 ここで一度まとめます。
大天使(H6):火・動物磁気(H96)において「今、ここ」を感じる、知覚体を形成する
天使(H12):風(H192)において「今、ここ」を感じる、知覚体を形成する
本来の人間(H24):水(H384)において「今、ここ」を感じる、知覚体を形成する
通常の人間(H48):土(H768)において「今、ここ」を感じる、知覚体を形成する
 各階層には、それぞれの特徴があります。なので「距離」とか「移動」という概念を考えたときに、それぞれが何において「距離」と感じ、「移動」を可能にしているのかということに違いが発生してくるはずです。ここで各エレメントの特徴というものを、参考にするとよいと考えました。
 土は物質的、水は情感的、風は知的、火は意志的、と端的に説明します。すると、土の距離というのは物質的距離(文字通りの距離)であり、水の距離は情感的距離(好き嫌いの程度の距離)であり、風の距離は知的距離(どの程度知っているか知らないかの距離)であり、火の距離とは意志的距離(目的があるかどうかという意味での距離)という距離感となって反映されるのではないかと思います。
 土の世界においては、どんなに好きな相手を念じたとしても、自ら移動しなくては会うことができません。水の世界においては、好きだという思いが強いほど、すぐに相手に会うことができます。「物質的距離って何?」という感じでしょう。風の世界となると、そのターゲットについてどれだけ理解しているかということが距離となり、物理的距離とか心情的距離は無関係となります。無関係というより、知覚できないかもしれません。火の世界においては、物理的距離、心情的距離、理解的距離も関係なく、意志が重要であり、「意図」とか「目的」が距離になります。意図や目的がはっきりとしていれば、直ちにターゲットに接触できるということです。
 地上世界において通常の人間として生活している場合には、土を知覚体としていますので、水や風や火についても、物質的に知覚することになります。水や風や火について、科学的に物質的に説明し、それらが物質だと思い込んでいます。しかし通常の人間が見ているのは、水、風、火、そのものではなく、それらの土への反映です。例えば、本来の人間は水(H384)の身体を持つのが本来の姿です。この本来の人間が、本来通り、土の部分をカットしたとしましょう。つまり仙人のような存在です。仙人は、水の振動に「今、ここ」を感じています。一方、通常の人間が、ある湖に仙人の伝説があると考えます。仙人の湖は時代を超えて、人々の中に受け継がれます。仙人は水のボディーを持ちますが、地上から見ればそれは「いつでも、ここで」というボディーです。いつでもここに来れば、仙人がいるというわけです。逆に仙人のほうでは、「今、どこかで」という感覚で、仙人の湖に来ている通常の人間を知覚していることになります。
 もう一つ例を。通常の人間(H48)は、天使の存在を知覚するとき、天使の底部はH192ですから、風・空気の中にそれを見出します。天使は風のボディーを持ち、風の振動に「今、ここ」を感じていますが、通常の人間から見れば、天使は「いつの時代でも、どこでも」風の中にいると感じられるということです。時代も場所も関係なく、空気の中に天使を知覚あるいは予感します。逆に、天使から見れば、自分を知覚・予感している通常の人間に対しては、「いつか、どこかで」接触し、知覚しているように感じられるということです。
 つまり通常の人間からすると、仙人は時間・空間を超えた存在、天使はさらに遠く広く時間も空間も超えた存在として、感じられ、逆に仙人や天使から見れば、とても遠くて小さな存在として、通常の人間を知覚するということです。知覚というより、余韻といったほうがいいかもしれません。仙人が通常の人間を見る視点は、通常の人間が犬や猫を知覚する程度にはその個性を判別できるかもしれません。しかし天使にとってみては、通常の人間が観察する蟻の行列にいる1匹1匹の蟻の個性が分からないように、あるいは杉林にある1本1本の杉の個性が分からないように、ほとんど判別はつかないように予想されます。個人の個性には反応できませんが、集団の個性の違いは面白く捉えられるとは思います。通常の人間にとって猫と犬が明らかに違うと認識されるとか、アジサイとチューリップの違いが面白く思えるとか、種全体として見るようなのと同じです。

もう少し細かく考える

 通常の人間(H48)から見て、仙人(H24)を知覚できるのは、水(H384)の中ということで、仙人は通常の人間から見て「いつでも、どこでも」ということになると予想しました。さらに通常の人間(H48)から見て、天使(H12)を知覚できるのは、空気(H192)の中ということで、天使は通常の人間から見て「いつでも、どこでも」ということになると予想しました。これら2つの違いは、水のほうが土に近く、空気のほうが土に遠いということから考えれば、すでに少し書いたように、水のほうがその距離感や時間の範囲が狭く、空気のほうが広く長いということになると思います。実際、生活圏において、水のある場所と空気のある場所を比較したならば、空気のほうが圧倒的に広いです。水のあるところには仙人がいて、空気があるところには天使がいると考えればいいと思います。
 さらに水、風の違いを考慮に入れれば、その距離感と時間の長さの捉え方を想像しやすいと思いました。水も風も、土に比較して時間と空間を超えていきますが、水は愛着であり、風は知識です。愛着があるものと、知っているものとでは、圧倒的に「知っているもの」の総量のほうが多いはずです。「知っている」というのは、愛着の前提になるところのものだからです。知らないものに愛着を感じることはできません。また、水は地面に張り付きますが、空気はその程度が低いという特徴があります。水のほうが、地上に寄り添っている分、扱える情報に共通する点が多くなるのではないかと思います。
 天使も仙人も、時間と空間を超えて存在することができますが、それを地上から知覚する(あるいは呼び出す)場合には、天使は風と知識に乗り、仙人は水と感情に乗って顕現するということではないでしょうか。天使のボディーのほうが振動が早い分、反応は高速であり、適用される範囲が広くなる、しかし肉体を持つ通常の人間が知覚するのが、仙人に比べて難しくなるということではないかと思います。
 ある湖や高い霧山に仙人がいて、永遠に住んでいるというのは、仙人はいつの時代、どの場所にも顕現することができるけれども、「そこに仙人が住んでいる」という愛着が、本当に仙人をそこに留めることになっているわけで、誰も見向きもしなくなったならば、仙人としてはそこに現れる理由はないのかもしれません。そして肉体と言う通常人間から見て「今、ここ」、あるいは仙人から見た場合には「いつか、どこか」という制約に縛られていない分、仙人は地上において、同時に現れることも可能になります。物質世界に所属してはいないので、それをはっきりと知覚はできないので、「いつか、どこか」で、地上の誰かと接触しているという感覚になるのではないでしょうか。
一方、天使は風の世界に「今、ここ」を感じており、風の世界を移動していると考えます。水よりも、物理的制約を受けない状態です。通常の人間から見て「いつでも、どこでも」ということは、それが当然すぎて、知覚できないということを示しているように思えます。つまり、天使は人間をいつも包み込んでおり、人間はそれを、通常は自覚できないということです。H48はH12に食べられるということは、知覚体の視点から見ると、「いつでもどこにいても包まれているので(空気に溶け込んでいるようなものなので)、それを見つけることができない」という言い方になるということです。
 通常の人間から見て、天使は大きすぎてほとんど見えない、仙人は大きいので背伸びしたらやっと見える、という例えが良いかと思いました。逆に通常の人間(個体)に対して、仙人からは小さいので時々(あるいはぼんやり)見える、天使からは小さすぎてほとんど見えない、ということになりそうです。我々が魚を食べるとき、魚個体の個性に注目しないのと同じようなものです。しかし集団や種という視点で通常の人間を見ることは、かなり簡単なことだろうし、普通にしていると思います。我々の食卓に上がる魚と肉について、それらが違うと言うことを認識するようにです。
逆に、通常の人間(H48)は集団化することによって、上位の存在を知覚することができるということになりそうです。これを意図的に行うのが「祭祀」の目的やそのプロセスに発生してくることだと思います。例えば、伊勢の神宮の式年遷宮において、これから御神体を遷すという段になると、必ず風が吹くそうです。前回の遷宮に立ち会った先生方も、みな口をそろえて「本当に風が吹いた!」と言っていました。振動の高い人ならば、その風の中に天照大神を見たに違いありません。

各地球の特性

 松村先生の説だと地球は12個あるという話ですし、リンゴ農家の木村さんも同じようなことをおっしゃっていました。私も体脱して月のステーションに行ったとき、複数の地球を見て、1つは大きく鮮やかで存在感がありましたが、1つは暗闇に食いちぎられているように黒く浸食されており小さく見えました。
 惑星に生きるというとき、水(H384)を底にすることもできますが、土(H768)を底にすることもできます。それは、どのくらいまで自分の振動を落として、惑星に所属し、惑星生活を体験するかという目的によって違ってくることだと思います。今ここの地球にいる人類は、かなり土に食い込んでいます。それで重力に縛られた生き方をしており、忘却が激しく、分かり合うことが困難です。意思疎通もままならず、誤解や争いが日常です。それは良いとか悪いとかいうよりも、そのような舞台を選んで生きているということです。私は「我を忘れる超ホラー系遊園地」と呼んでいます。
 人間が地球に入り込み、土の元素まで降りるとき、複数ある地球において、全て一律のH768かというと、そうではないのだろうと思います。同じ土でも、振動の高い土、振動の低い土というものがあるのだと思います。たとえばH768とか、H780とか、H790とか。それは各地球の特性によるもので、この地球が急速に重くなっていることの影響を受けているのだと思います。
 私はタイタン・アースという別地球に行ったことがありますが、風が強く、色が鮮やかで、物の大きさの見え方が妙な感じでした。たいへん生き生きとしており、目に映る景色に「生きている」という感触がありました。これが、振動の高い土ということだと思います。私はタイタン・アースで、飛行して移動しましたので、物理的距離があるということになります。しかしずっと遠くにある都市の建物が、異常に大きく見えましたし、近くにあるはずの城が、近づくと小さくなってしまいました。このような体験により、物事の見え方が興味とか理解によって変化するということがあることを推測することができました。本来の人間は水H384を底部とするはずのところですが、タイタン・アースの場合は土H768に着地したとしても、今ここの地球に比べればずっと過ごしやすい環境なのだろうと感じています。土に入った場合、物理的距離とか移動というものが発生しますが、その物質性に閉じ込める傾向が弱いので、空を飛ぶこともできました。きっと誤解も少なく、争いもほとんどないのではないだろうかと思います。例えば思ったことが完璧に伝わるのではないですが、行き違いというのはあまりない程度に、土の比率が少なく、火、風、水の比率が高いということです。特にタイタン・アースの場合は、風の比率が高いということです。土は4元素のパッケージですので、その比率が物質に反映されます。
 ですから、土にまで降りることが悪いと判断するよりも、楽しめる範囲で土まで降りるのも良いということになると思います。程よく分割され、程よく忘却ゲームを楽しめる惑星です。

あとがき

 理屈的に推し進めましたが、ある程度の体感も交えたものです。まだ思考が先走り、体得した感じではありませんが、体得のためには、実体験を増やすことが必要になると思います。「探索」と「思索」を繰り返していきます。この思索には、まだモヤモヤしたところがありますので、継続します。
 本題からすると余談になりますが、日常的なことに悩み始めると、H96に引きずられ、H48の状態が当たり前になってきます。ここで重要なのは、その日常的な問題をどうすれば良いかを考えるのではなく、問題を脇に置いておき、とりあえずH24の状態に移行することではないかと思います。そうすると結果的に、閉鎖的に繰り返される低次の思考から逃れることができ、引きずられない状態で楽になり、もしかしたらその広がった視点から、問題解決への糸口が見えるかもしれません。とりあえず、問題への関わり方が変化するだけで、かなり楽になるということは間違いありません。
 自分の得意なH24への持って行き方を定番化すると良いと思います。思考の振動を高めるか、感情の振動を高めるか、身体の振動を高めるか。身体の振動を高めると、自動的に存在の底上げが発生します。慣れてくると、中層重心がH24に移行し始めます。完全に移行するためには、H6の大天使に見つけてもらう必要があります。背伸びして、フックをかけてもらうのを待つという感じでしょう。
 取り込んだ食事がH764から上昇して、振動を高めていき、胸の部分で物質H24となります。身体、感情、思考の3つのインターバル胸の部分で、身体H24、感情体H24、思考体H24が揃うことになりますが、この身体H24は、身体物質的振動と考えると良いと思います。H24そのものをボディー(生命感受体)として知覚できるのは、大天使であり、H24を知覚体として認識できる存在(H24を存在の底とする存在)は、この現行宇宙には存在しえないはずです。
 タイタン・アースのことを思い出しているうちに、物理的距離や、物質に閉じ込められる状況を楽しむことについて、程よさというものを考えるといいと思いました。自分にとってどのくらいの重さが良いのか。あまりに重い環境は、品がなくて面白くないやりすぎのお化け屋敷とか、美しくはない創作活動しかできないガラクタ置き場とか、そんなふうに例えることができるのではないかと思います。そのような環境の中で、血のにじむような努力によって、時に美しい花を咲かせることができる感じでしょうか。仏教における泥の中に咲く蓮華の花の例えは的を射ていると思いますが、そもそも、泥の現場で生きる必要はないという選択肢を、忘れる必要はありません。
 

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